診察室とあなた
【1】
診療所に届いた電報には、いつものごとく一方的な内容が書かれている。私は往診があると言って断るつもりだった。予定が今夜でなければ。
なぜこう……ギリギリなのだろう。余裕をみるとキャンセルしやすくなるからか?
時間にひどくルーズなのは依頼のないときだけで、それ以外は極端に体内時計を早回しする。彼の中では年中動いてるのは頭だけで、その他に関しての活発さは一瞬たりとも発揮されない。
毎日が休日だった。仕事のときはなおさらだ。
腹立ち紛れに洗っていた医療器具を受け皿に捨て去る。電報はビリビリに破いて流しに……。
「あ」
懐中時計が目につき、急にいいことを思いついた。なぜ今まで考えなかったのだろう。
――すっぽかしてやれ。
一度もしたことがなかった。かれこれ何年の付き合いになるのに、一度もだ。どんな顔をするだろう! 必ず来ると思っていた者が来なかったら。
良心の呵責は感じなかった。毎回向こうがよくやるのだ。事件に関わるのであれば、責任放棄で互いを責めることにもなる。私の力が欲しいこともあるだろうし、行かないことで彼の命が万が一にでも失われたら……そう考えると無下にはできなかった。
これが夜のお誘いであれば話は別だ。
相手の体調も都合も聞かず。同居していたころならまだしも、すでに彼の身を離れているのだが。
「先生。診察の書類ここに置いておきますね」
きゃあと声をあげる。例の愚図なメイドは掃除を増やしてくれるばかりで、私の手には完全にあまった。
「ああ、もういいから。出ていきなさい。君にこの部屋は危ない」
「す、すみません!」
私は束になった書類をかき集め、泣きそうになっている彼女の指を見る。「この間の火傷かな? 見せてごらん」
「は。あの、結構です……!」
ポットを直接持って水ぶくれができたのだ。皮は綺麗に剥がれ、跡には残りそうにない。急患だったから怒鳴ってしまったなあ。慌てさせたのが原因なのもわかってはいたのだが。
「食事で埋め合わせると約束したね。今夜空いてないだろうか」
ちょっとした出来心で言ってしまった。
ああいけない、この子は純情だから気を配って別の方法をとろうとしてたのに、と慌てるが、彼女は意外にも顔を赤らめなかった。
上向いて困ったように小首を傾げている。
「光栄なんですがドクター。あの、実は婚約中ですし二人きりは……それに」
ホームズさんが、と言うのでギクリとした。ホームズ? そこでなぜホームズなんだ?
何かばれるような真似をしたかと焦った。メイドが見ている場所に気づくまで。
振り向けば、ホームズが立っていた。
【2】
電報は暗号になっていたんだが、君は気づかなかったのかと馬鹿なことを聞く。「たまには僕のほうからそっちへ行くという意味だったのだが」
ホームズは診察台で長い足を組んで言った。緊張でカップを割りそうになっていたメイドの替わりに、自分で入れた紅茶を出す。探偵は鼻で笑ってご機嫌だった。私はといえば、ことが予定通りにはいかず子供のように拗ねているが。
ため息を押し殺してすべてを堪えた。
メイドにはホームズの持ってきたオペラのチケットを渡した。いまごろは恋人と二人で楽しんでいるだろう。
彼の誘いにあまり乗りたくない理由の一つは、趣味の違いだ。私は三流の劇場へ足を運んで酒を飲むのを好むが、彼は静かな場所で高尚な音楽に浸りたがった。
ほとんどの回を私が眠りこけて過ごしているのは、彼も知っていた。二人して目をつぶっているものだから、周囲から顰蹙を買うこともある。
あとは、
直接の原因はそれだけではない。
「ホームズ。君は僕をベイカー街に寄越して、ハドソン夫人が引き留めるのを狙ってたんだろう」
「ご名答。探偵になれるよ」
「戻るわけにはいかない。わかってるだろう! あそこの床は頑丈だが、叫び声や物音を掻き消すほどじゃないんだ」
「ハドソン夫人は最近耳が遠い」紅茶ではなくパイプに手をつけた。上目使いでにやりと笑った。 「叫び声? なるほどね」
顔を赤らめるのが抑え切れず、パイプを奪い取る。逆手を捕らえて診察台に押し付けられた。一瞬で立場が逆転してしまう。おとなしく患者のふりをしていればいいのに。
「――ここなら?」
甘い声音にぞくりとした。背筋を駆け抜けるものは無視だ。腕力で敵わないことは嫌というほど理解しているが、白衣の内側に指を差し込んだ隙をみて足を出す。
指を離れたパイプを、ホームズが空中で捕らえた。腹に命中しなかったせいで、まだ体勢は同じだ。
「ね、ワトスン。逃げたまえ」
「……ッ」
「今日は来ないつもりだったんだろう。早くしないと、窓の外を誰かが通る」
人目を気にして外を向けば、顎を長い指が掴んだ。唇が軽く触れるだけで電流が走る。見られるかもしれないという恐怖で縮こまる足の間に、体が割って入った。
「う……ホ、ムズ」
窓際はよせと口にしかけて、節操のない自分の肉体に叱咤した。ほだされるな。また主従関係のような毎日が待っている。わかっていないのか? 誰よりも賢明な君が、知らないのか?
つなぎ止めようとすればするほど、私が離れる理由が。この先にはきっと――いや。
熱く激しい何かでごまかしてくれればよかったのだが。
ワト、スンと区切って首元で言った。さみしい子供が母親へすがるように。拒絶できない理由を知らないのか。
君が一番嫌がるような、そういう感情だということを。妻のように、家政婦のように、母親のように私はなれない。
君が本当に
本当に私を
想っているのなら。
わがままも勝手もやめて、冷たい物言いは避けて。自分をさらけ出すことはできない相手でも、一番いい時間だけを過ごす間柄に戻るほうが。
距離を保てるように離れたほうがいいに決まって――
「ホームズ?」
ぴくりとも動かず、寝ているのかと思った。不信に感じて頭をずらすと、目を閉じて寝ている。あろうことかパイプをくわえていた。
私がいろいろ悩んでいる間も、彼は常に何かを口にしている。肖像を見てもわかるはずだ。舞台を見ても、絵で見てもだ。創作でうまく言ったことがあるはずだ。
「煙草とパイプ、三分あれば解決か?畜生!」
沈みかけていた激情が戻り、膝で蹴り落とした。完璧に受け身ができている。おそらく私をパイプ以下の存在だと言いたいか、約束を破ろうと考えたことへの報復なのだろう。
含み笑いで応えて、探偵は言った。
「三服分だ。ワトスン、煙草がまだ欲しいね!」
End.
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