三人のシャーロッキアン
「シャーロキアーナ。悪いが、もっと、ゆっくり頼むよ。僕の小さな頭はパンクしそうだ」
降参の声を上げるシャーロキアンに、シャーロキアーナはにっこりと笑った。もちろん君が理解できるまで何度でも探偵について語ろう、と彼は言った。
燃え盛る暖炉の火の前で、二人は長椅子に折り重なりながら、睦言のような会話を交わした。
「つまりだ、探偵が右腕を使った回数と、左腕を使った回数の比率をかんがみるに、彼は左利きだという人がいる。ホームズ俳優として名高いジェレミー・ブレットは左利きだろう。しかしあの時代のボクシングで左ストレートを繰り出すためには、右足を軸に体重をまずこの辺りにかけねばならないと思うのだが」
シャーロキアンの腰をさわさわとさすった。「君はどう思う?」
シャーロキアンの股間のパイプはモクモクと煙を噴き上げんばかりに盛り上がった。ぞくりと悪寒が駆けめぐる。
シャーロキアーナというのは天が与えたもうた才能だ。どこをどう刺激すれば世界中のシャーロッキアン――自分のことではなく全体の意味で――が歓喜にむせび泣くのかを知っている。シャーロキアンは恥ずかしさに視線を逸らした。
どう足掻いても自分では太刀打ちできそうにない。英国人の退屈な寝所より更につまらない思いをさせるだろう。自分はただもっと多くの『探偵』という概念が聞きたかった。彼の前で恥をさらして嫌われたくはないが、彼の語る探偵をもっと知りたいという欲求には抗えない。
「どう、って。そうだね。全く君の言うとおりだよ。もっと詳しく激しく聞かせてくれないか。君なら探偵の尻の穴の形まで知っていそうだ。僕も昨今では、そんな軽い知識ではもう満足できなくなっているのだ……君たち二人のせいで」
ソファに丸めた腰を落ち着け、二人を静観していたホームジアンが、シャーロキアンに蔑みの目を寄越した。
口にはパイプをくわえているが、柄の部分はもちろん真っ直ぐだ。シャーロキアーナとシャーロキアンが好んでするあの馬鹿げた格好もしない。名探偵は神聖なものなのだから。
彼は鼻を鳴らして横を向いた。しかしその耳は玄人裸足の言葉責めを繰り返すシャーロキアーナと、純情だが素直に快楽をむさぼるシャーロキアンの会話を盗み聞きし、興奮で真っ赤に染まっている。
二人のやり取りこそ、ホームジアンの禁欲的な情緒を常にちろちろと蝕んでいるのだが、シャーロキアンはそのことを知らない。シャーロキアーナは気づきながらも知らぬふりをして自分をからかっている。ホームジアンはうめいた。
あの中に混じって、寄せては返す波のようにすべての探偵を体内に受け入れたい。かつての自分だって通ってきた道のりだった……はじめてホームズ本を手に取った少年時代にもどり、無垢な少女のごとく名探偵ホームズという海に溺れて激しく犯され、探偵のすべてを吸収し静かに眠りたい。
ホームズ――シャーロック・ホームズ!
なんという甘美な響きを持っているのだ、あの人は。ホームジアンは名前だけで腰砕けの自分を認めるわけにはいかず、こっそりソファをずらして、猛る自身の火掻き棒を一人で慰めた。探偵ほどの能力はなくとも、これくらいの事件は自分で解決できるはずだ。
あの邪悪な生き物の飼い主が、この肉棒をひん曲げた。数々の悪態を心地よく聞いた探偵は、クロッカスの出来がどうのといいつつ、花開いたホームジアンの股ぐらを掴んだ。もう少しここにいてくれたら、僕にもこれくらいのことはできるのだということを見せられたのだがね……と探偵は頭の中で言った。
曲がったパイプなど存在しない世界に自分を戻してくれる探偵の細い手を、ホームジアンは掴んだ。すごいよホームズと飛び上がったりはしなかった。現実のワトスン博士はそんな風にはしゃぎはしないのだ。しかし冷静を保つのは不可能に近かった。
シャーロキアーナの声は遠くなった。ホームジアンにとっては、どれだけ知識が豊富なシャーロキアーナでも、ホームズそのものに敵いはしないのだ。
「探偵の名前と総合知識を君の脳髄に刻みつけるなんてわけないことだ。しかし張り合いがないな。もっと知りたいことを口にしたまえ。そうしたら望みを叶えてあげる」
「意地が悪いよ……どうせホームジアンにも同じように言ってるのだ君は。そして僕は、同じ土俵で探偵を深く愛せる君たちが心底羨ましい」
シャーロキアンはこっそりホームジアンを見たが、彼はいつの間にか聖典を足の間に広げたままぐったりとしている。暖炉に照らされた顔は赤く染まり、まるで禁止されている薬物でもやったかのように夢見心地だ。
「ちょっとした探偵知識ですぐに喘ぎ声をもらす、君のうぶなところが私にはたまらないけどね。シャーロキアン」
シャーロキアーナはホームジアンの首筋を伝う汗の理由にも気づいたが、見ないふりをした。愛にもさまざまな種類があり、ホームジアンのそれは聖典だけで完結している。自分がいくら新しい解釈をつけ加えようと、彼にとっては元の探偵を使って自慰行為を終えたあとの便所紙にすぎないのだ。
シャーロキアーナは悲しかった。ホームジアンの体に熱情を叩きつける機会があったとしても、彼は自分を振り返りはしないだろう。ホームジアンは名探偵のものだ。コナン・ドイルでさえ彼の中には存在しないのだから。
「知っているかい」二人の屈折した関係について、何もわからないシャーロキアンはうっとりと言った。
「大半のシャーロッキアンは自分でも気づかぬうちに、探偵本体ではなく君たち自身の存在に魅了されているのだ。君の作り上げる新たな探偵像を、絶え間なく愛し続けている。何千何万と日々産み出される、ホームズという名前のついた新たな探偵をね」
シャーロキアーナは寂しそうに微笑み、シャーロキアンにしか聞こえぬようにそっと言った。
「ホームジアンは違うさ。彼は元祖の探偵像を頑なに守り続けているよ。あるいは自分の中にある探偵をもっとも愛している。私の解釈の入る隙はないし、彼にとって私は――本来の道を大きく外れた愚かしいシャーロッキアンの代表なのだ」
「愚かしいシャーロッキアン、ともう一度耳元で囁いてくれないか……今の刺激はコカイン注射並みだ。君は。君という人は天才だ……」
いよいよ切迫してきた仕込み杖を、シャーロキアンは服の間だから引きずり出した。杖は杖だろうなんだその玩具は、と嘲るホームジアンの言葉を想像するだけで、おのれの欲望が屈辱感にむせびなく。熱く濡れた先端がキラリと光った。
「君の言葉が侵入してくる度に、僕の中に存在していた探偵が大きく姿を変えるのだ。めちゃくちゃに掻き回し、元がわからなくなるほど突き上げて壊してくれ。僕の中の探偵への愛は増えるばかりで、決してすり減りはしない。この頭の中にある探偵は、もはや探偵ではないのだろうが」
「すべては虚像の探偵だよ。もちろん知っているだろう? 彼は死んでよみがえった。滝後の彼は元の彼ではない。自分の欲求しか考えなかった愚かなシャーロッキアンが、コナン・ドイルを責めたてたことで自分たちの探偵を二度殺してしまったのだ。無理やり生き返った探偵は、すでに元の探偵ではなかった」
シャーロキアーナの唇が、禁断の薔薇に優しく触れた。シャーロキアンには彼の語る探偵こそが探偵に見えた。
ホームズらしさとはなんだろう。シャーロキアンは狂おしい時間が永遠に続くことを願いながら、すべてをシャーロキアーナに委ねた。
「――探偵が存在できなくなったのは、私のせいだ。ホームジアン、君は私を恨んでいるだろう」
シャーロキアーナはシャーロキアンを寝かしつけたあと、ホームジアンの脇に立った。
「それは違う」ホームジアンは火をにらみつけたまま言った。「この世にはじめての探偵デュパンが誕生したとき、全世界のシャーロッキアンの敗北は決まっていたのだ。どう足掻いても探偵自身が模倣の産物だということを、俺は知っている。始まるまえから勝負はついていたのさ」
シャーロキアーナはホームジアンの肩に手を置こうとして躊躇った。「探偵はもういないのだよ。どれだけ望んでも、滝に沈んだまま還ってこない」
ホームジアンはさ迷っている彼の手を掴み、その甲に口づけた。二人の目が空中で絡まり、そこから新たな何かが生まれそうな気配を発した。ホームジアンは続けた。
「おまえが俺に教えてくれるだろう。俺やシャーロキアンに、新しい探偵の物語を。そしていつかはわからせてくれるだろう。探偵はどれだけ形を変えても死にはしない。それぞれの中に永遠に生き続けていくことを――」
二つの影が静かに重なるのを、こっそり眺めていたシャーロキアンは微笑んだ。今夜は楽しい夢が見られそうだ。
End.
</bar>