ホームズと我が子
【3】
息子の名前をそのまま口にするのは憚られた。
つい先日、騙しうちで追い詰めたモラン大佐の名前を思い出すからだ。腕の中で息を引き取った彼女の遺言だったが、やはり別の名をつけるべきだったかもしれない。
一通り絨毯の上をはいずり回った後は、椅子に座る私の足にじゃれついて、ときおりダドと言った。抱き上げる度に笑い声をあげる。思えば成人してからはめっきり可愛いげのなくなった息子との、これが唯一、温かいひと時の思い出である。
ワトスンは私を置いてマイクロフトに話をつけに行き、一日だけベイカー街へ預かる了承を広間にいる兄から取った。
私に交渉させなかった理由は、息子の顔を見つめたまましばらく固まっていたからだろう。彼の目は母親を思わせた。
落ち着かない気持ちで待ちながら、いざそれが実現するとなると急に不安になった。ワトスンに悟られまいと、冷静に言った。
「どうりで昨夜、部屋中を片付け回ったわけだ」
「気づいていたのかい」
「――可能性の問題だよ」
「人が悪いぞ、ホームズ。ほとんど君が汚したのだから、手伝ってくれればいいものを」
たかだか息子一人が部屋に泊まるからといって、書類の整理以外に危ないものを引き出しにすべて突っ込み鍵をかけるなど。正気の沙汰ではない。
寝不足の原因が自分の部屋を掃除していたからだということまで、ワトスンは知っているのだ。危ない薬品の数々を運び出し、流しに空けたせいで出現した悪臭を、ハドソン夫人に激しく叱られたのだから。
だが彼は知らぬふりをしてくれる。いつだってそうだ。
「ホームズ、ハドソン夫人には」
「駄目だ。いや、僕から話す」
私はチベット抑留を数年の予定にしていたが、かなり早めにベイカー街へ帰ってきた。その理由の大半は、息子のことが心配だったからだ。
やむを得ず馬車に揺られる間も、私は彼を抱くのが怖くてワトスンの膝に置き、自分は小窓から外を覗いて警戒を怠らなかった。
「見ろ。君の袖を離さない。ホームズ、観念しておもらしの餌食になるんだ」
「腰巻きなら向こうで変えたよ。ワトスン、スイスではしばらくの間、僕が彼の世話をしたのだ」
「君が? おむつ換えを?」
盛大に笑うワトスンに吊られて、セバスチャンもきゃっきゃと笑った。私の手元にいるより機嫌がいい。その点は成長しても変わらなかった。
息子は近頃では私の前で滅多に自分を出さず、そのことを寂しく思っても互いの距離感が壁を越えさせない。
兄や他の人間といるとき以外、彼は私の期待通り振る舞うのだ。まるで阻喪をしたら私が失望するとでも言うように。
ベイカー街の古巣ではハドソン夫人の出迎えと、先回りして送られたホームズJr.の荷物があった。ワトスンに息子を任せ、手短に話す。
夫人は黙っていた分は後でお説教ですよと言って、離乳食を作ると笑った。
部屋に戻ると、ワトスンはじっとしない大きめの赤ん坊を抱き抱え、彼に自分の名前を覚えさせようとしていた。
「ワトスン。ワト、スン」
「ワン」
「――では、ジョン! ジョ、ン」
「……スン!」
どちらも目が真剣だった。呆れ返って開いた扉をノックをするが、こちらを振り返らない。見つめ合う二人のどちらに嫉妬しているのかわからなくなった。
ワトスンは咳ばらいをした。
「セブ?」
「セブ!」
「ダド……」
「ダド! ダッド!」
「――ワト」
「スン」
なかなか頭の回転がよくなってきたみたいだなと嬉しく思って微笑む。不意にワトスンが睨んできた。
視線に宿る対抗意識を逸らすため、これならいけるかと私は息子の頭を撫でた。低い声で呟く。
「シャー・ロック」
「シャロ」
「ホームズ」
「ホム。ズ?」
小首を傾げる姿ににやつく。横からの視線はますます痛くなった。しかし鼻をいつも以上に高くしたのは、次の言葉を聞くまでだった。
「マイクロフト!」
今までにないほどの満面の笑みだった。私はまた少し目尻を熱くした。
ワトスンが背中を叩いたせいにしておこう。
【4】
上げ底にした隣の椅子に座らせ、何でも口に入れようとするのを遮りながら隣で食べた。
食事中もワトスンはほとんど無言で、私があたふたするのをただ面白そうに見ていた。
「次の依頼は乳母からしか受けない……!」
「依頼人から勉強するのか? 偉いな、ホームズ」
「恩を売って世話を任せる」
机のものを掴んだ端から投げ捨てる。拭いても拭いても口の端からよだれを垂らす。撫で付けた髪を引っ張り、カラーを引っぺがし、床に降りて暖炉の方へすごい勢いでハイハイをする。
「さすがに君の息子だね。もう絨毯とお友達だ。僕のタイピンを捜してくれ、ジュニア」
「ワトスン、そっちへいったぞ。標的はパイプだ。しまった」
スプーンをくわえたまま、ワトスンはセバスチャンを抱き上げて私の膝に乗せた。取り上げたパイプも私に渡す。
セバスチャンは、ワトスンの口から奪ったスプーンを舐めようとした。慌ててパッと取る。
ものすごく駄々をこねるので、スプーンとパイプを見比べ、灰を払って仕方なく小さな手に渡した。
「なんだい」
口に入れぬよう子供を手で制止ながら、じっと見つめてくる顔に向かって言った。
ワトスンが私の手からスプーンを取る。思わずあっと声を出した。すぐに口の端をつぐんだが、遅かった。
「ホームズ」
「喉に、詰めたら」
満足な言い訳にはならず、もっといい説明を十ほど瞬時に数えたが、顔を上向けられ話すことはままならなかった。
顎を手の平全体で捕まれ、下唇ごと押し広げる。入り込んできた舌先に息を奪われ、とっさにスプーンは離して息子の顔のある位置を手で覆った。
「――ン」
「スン?」
言いかけた言葉をセバスチャンが拾う。ほとんど後ろから掬われていつまでも離れようとしない唇に抗議して、座る背中に抱き着いてくる胸を叩いた。
「ぷ。は」
「――ご馳走さま」
叩いた手が目を覆っていた方の手であると、気づくのにさえ時間がかかった。放心して余韻に浸った赤い顔をワトスンには見せまいと下を向き、息子と目が合う。
ごくりと唾を飲み込んだ。
「いいかね。いま見たことは真似するんじゃない。絶対だ」
理解したのかそうでないのか、息子は大きな頭をこっくりと前に倒した。
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