ホームズと我が子


 【1】

 セバスチャンと久しぶりに対面したとき、私は彼の母親ではなく、遠い昔に愛した女性の子供を思い出した。当時はまだその存在すら知らなかった――私の娘だ。

 一夜限りの逢瀬でできた娘は名前をマール・アドラー・ノートンといい、後にセバスチャンの存在を知ると腹違いの弟を非常に可愛がった。彼もまた同じである。

 二人はそっくりだった。高潔な精神力と、知的な洞察力。姉のほうからは独自のユーモアと、彼女なりの父親への愛情、弟のほうからは対抗心と、表現することのない静かな羨望を感じた。それらは、はからずも私と父の関係によく似ていた。

 どちらも私の手では育てず、自らの力で成長した。セバスチャンは兄に預け、二人共長く私の存在を知らなかったせいもある。

 ワトスンの伝記には私の性生活は一切話題に上がらない。ただしそれは彼自身の常識的な抑制――他人のセックスについて書いた長々しい秘めごとの本は犯罪で、今ほど売れる時代ではなかったことなど――によるものだ。私が書くなと言わなくても彼は礼儀を守った。

 悪夢の滝から生還した私を、ずっと支えてくれた女性が出産時に死に、私は苦痛と悔悟の念からイギリスへ帰ることを拒否した。幼い息子を組織の陰謀の種にされぬよう、離れるのが一番だと確信していたのだ。

 小さな額に唇を落として、高い鼻を握ろうとする指をそっと取った。愛した人を引き換えとしてできた息子に、何の感情も湧かなかった。父親になるという実感もないまま、彼の元を去ったからだ。

 私がチベットにいた実際の年月は、一年だった。

 イギリスに戻ってからのやり取りでワトスンが失神し、二度目に倒れたのがホームズ二世がいる事実を知ったときだった。彼は髭を引っ張りながらううむと呻き、君の兄さんとはシャーロック・ホームズの葬式で顔を合わせたきりだと言った。

 すなわち私のことだ。

「ホームズ、そんな大事な話をなぜ今まで――まあ、事情はわかった。その……あの人との子供ではないのだね?」

「アイリーネはゴドフリー・ノートンを心の底から愛していたよ。君も知るとおり」

「いや、その話はいい。君が惹かれ、心休まる女性との間にできた子供なら」

 一瞬黙ったので、私は彼の顔色を伺った。ワトスンは私が失踪している間に妻を失い、同じように辛い想いを抱えていた。

 我々は長い人生の中ではまだ若造といってもよい年齢だった。喪失感は図り知れない。互いの手を無言で握り合い、沈黙が続いた。

「顔は見たのかい」

「誰の。ああ、セバスチャンか。いいや――こっちに帰ってからは、まだだ」

「今後の彼の成長に、全く関与する気はないのか」

「わかるだろう、ワトスン。僕はこういったことに向いてない。職業柄常に傍についててやることはできないのだよ」

「彼がいたから、亡くなったと考えているかい」

 「まさか」私は首を振った。ラマの修行僧と出会い、折り合いをつけた感傷だった。「マティルデは彼を身篭ったことを誇りに思っていた」

 ワトスンは短くうなずいた。私は彼の頭の中で繰り広げられている構想を察知した。運悪く新聞には王室の出産についての記事があり、彼の目はちらちらとそれを眺めていたからだ。

「ワトスン! 冗談だろう」

「まだ何も言ってない。それに僕は君ほどジョークが好きではない」

「堅物を気取るのはやめたまえ。はっきり言ったらどうだ」

 ワトスンはにやりと笑い、机に頬杖をついたまま指でこめかみを撫でた。その口から漏れる次の言葉に、私は諦めのため息をつくことになる。

「明日の予定は決まった。君の息子に会わせてくれるかな」


 【2】

 気もそぞろに兄のいるペルメル街へ電報を送り、返事がないのは来てもよいという知らせだと解釈した。

 息子は自分よりましな人間に育てるつもりだった。私が情緒的な何かを子供に与えるのが無理なことは、浮浪児たちとの関係で気づいていた。彼等は見た目は子供だが、中身は遥かに大人である。

「君の兄さんはまだあのおかしなクラブの一室にいるのか」

「マイクロフトは自分のものを殆ど持たない。ディオゲネスが我が家も同じだ」

「赤ん坊だろう。乳母のいる家に向かうべきじゃないのかね」

「いや、ワトスン。僕と兄さんは七つ離れていて、物心がつく前の最初の記憶は、タイムズの小難しい記事を兄の背中で読んだことだ」

 それがいくつの年だったかまでは思い出せないが、おそらく自分の息子も同じ目にあってるだろうと予測していた。

 実際部屋を訪れたとき、兄は新聞の代わりに大型の辞書を広げ、赤ん坊を抱く代わりに肩車をしていた。

「シャーロック! いいところへ来てくれた。ちょっとあやしてくれ。朝から一服もしてないのだ。セブ、髪を食べるな――全く、なぜ癖が同じなんだ?」

「それは」

 言葉が出なかった。無造作に渡された子供を取り落としかける。別れたときより明らかに重くなっていた。

「食べさせすぎだ」

「もうパンの耳まで食べるぞ。よし、葉巻は?」

「これをどうぞ」

 挨拶も手早く済ませ、マイクロフトはワトスンに抱き着いて葉巻箱を取り背を向けた。途端に赤ん坊が泣き出すと、少し迷って私の手から彼を奪った。

「ダッドが来たぞ。伯父さんはしばらく留守だ。いい子にするんだ、ボーイ」

 息が止まりそうになった。私は兄に、セバスチャンを彼の子供として育てるよう頼んでいたのだ。抗議しようと口を開けば、赤ん坊にキスをしてまた私の腕に戻す。頬をぱちぱちと叩かれた。

「しっかりやれ。今日は育児休暇を取る」

「マイクロフト」

「なあに。小さなシャーリーに比べればおとなしいものさ。捕まり立ちも終えているからな、床の物を食べないか見張れ」

 お願いしますよドクターという声に驚き、振り返ればにこにこ顔のワトスンと握手を済ませて兄は去った。

 睨みつけると、ワトスンは両手を上げた。

「頼まれた電報にちょっと足しただけさ。僕の企みに気づかぬほど、昨夜はよく眠れなかったみたいだな」

「なぜそんなことを」

「シャーリーって女の子は誰だい?」

「知らないね」

「僕も兄にジョー、ジョニー、ジェーンと呼ばれてた。ベイビィ、僕の腕においで」

 一瞬自分のことかと思い頬を赤らめるが、子供を取られる。まだまともに顔も見ていない。ぐずっていた赤ん坊は楽しげにワトスンの髭を引っ張りだした。

「初めまして、セバスチャン」

「子供は苦手だと思っていた」

「誰の子供かによる。高い鼻が君にそっくりだ」

 息子のそれに唇を落とした。妙に照れ臭くなって鼻の頭を掻けば、大きな丸い頭がこっちを向いた。Aの音を何度か発して更に呟く。

「ディ」

 私が黙り込んだのを心配そうに見て、ワトスンは首を傾げた。

「なんだって。D?」

「――この謎は永遠に解けそうにないね」

 ああ! と叫んで、ワトスンは私の首にセバスチャンの手を絡ませた。ぎゅうとしがみつく息子の背中が暖かく、詰まった喉を鳴らしてしまう。

「ダディか。君が」

 その響きは自分に一番似つかわしくなかった。うろたえるのを面白そうに覗き込み、ワトスンは赤ん坊の頭ではなく、いつもより低い位置に落ちた私の頭を撫でつけた。

「今日だけは父親らしくしていたまえ。子供は幼いころの記憶を頼りに生きるらしいから」

 目尻に滲んだものは、頬を引っ張る息子のせいにしておこうと誓った。


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