Who are you ?


 【7】

 意識を取り戻したときには彼の姿が見えず、名前を叫びながら床へ転がり落ちた。

 見覚えのない医者を突き飛ばし重い体を持ち上げる。レストレードが邪魔をするので蹴りあげた。大丈夫だと誰かが繰り返す言葉が、薄い布一枚で遮られた隣のベッドから聞こえてくる。

「僕は大丈夫だ――ホームズ」

 上司より数段出来のいい部下が医者を待機させていたおかげで、彼は助かったのだ。

 仕切り布を掴んだが、レストレードが暴言を吐きながら羽交い締めにしてくる。暴れる私の足にかじりついた医者が太股に注射した。

 そこから先はまた夢の中だ。

 いかなる悪夢もごめんだが、現実も充分酷かった。

 二度目に目覚めたとき、隣の患者が上半身を起こして物を書いているのが見えた。早朝の澄んだ空気のせいで、開け放たれたカーテンが微かに揺らぐ。

 私の視線にふと顔を向けた。

「今年の牡蠣は豊作なのか」

「――特別そんな話は聞いてない」

「そうか。君が言うと寝言なのか冗談なのか妄言なのか、判断がつかないで困る」彼は手帳を閉じて、おかしいと思ったのだと唐突に言った。

「あの一瞬で名前のアナグラムに気づけるほど、僕の頭はよくないからね」

 額を横っ面からやられていた。少しずれていたら衝撃だけで即死していたに違いない。

 跳ね返った銃弾を肩に食らった私のほうが彼より重症だという。患者の脳みそを心もとない力で救った鉄屑は、それ自体が凶器だった。

 頭痛について君に話したことを何度後悔したか、と彼は苦笑した。「重い医療鞄をこっそり持ってからは何も言えなくなった。よく肩が抜けなかったものだ」

 鞄の中には記憶を取り戻す最新の道具だという名目で、常にたくさんの替えを用意していた。患者が不恰好な頭を理由に外出を避けさせる効果もあったのだ。

 帽子に聴診器、ポケットに飴玉の小瓶、と彼が数えた。

「両方ともあの鞄には詰められなかったんだろう。僕も荷物が多い日にはそうやって歩くが、君はほぼ毎日それで――」

 彼は急に口を閉じた。僕ばかりに喋らす癖をまず直せ、と彼はこちらを振り返った。私は表情をつくることも放棄して、その顔を目に焼きつける。

「そんなにおしゃべりだとは知らなかった」

 役に立たない報告だと一蹴するからじゃないか、とまた笑った。

 翳りが消えた彼の明るさを直視出来ず、ベッドの上から腕を出す。互いの間にある小机を指した。

「パイプをとってくれ」

「医者の不養生もいいところだ、ドクター・ショルメス。それに残念だがこっちからも手は届かない」

「――」

「疲れているようだ。寝てください」

 つれない言い方をどこで聞いたか思い出せない。悪夢は早く忘れるに限ると、怪我も忘れて壁の方向に寝返りを打とうとした。

 痛みで叫ぶ。

 汗だくになりながら混濁する意識を手繰り寄せた。当直医の寝ぼけた眼や注射器に怯えると、安心させるように誰かの手が私の指を掴んだ。「問題ない。私も医者なんだ。任せてくれ」

 人の気配が無くなるまで待った。

 顔を見上げると幾分やつれてはいるが、しっかりとした目が私を覗きこんでくる。頭の包帯は取れているが、それとわかるほど大きな瘤にガーゼが被せてあった。

 椅子に腰かけるのを目で追いながら、繋いだ手を離さない。

「――ワトスン」

 指先がぴくりと反応を返した。無事でよかったと呟く。

「それは僕の台詞だ。何針縫ったと……」

「また忘れられるよりマシだ」

 深く目を閉じたまま彼の指を額に当てる。血の気も失せて冷たかったが、すがるように強く握った。握り返される。片方の手で顔を上げさせ、私の表情に何を読み取ったのか、彼はきっぱりと言った。

「何度でも思い出すよ。君のことなら」


 それが困るのだ。

 期待が残るから苦しんだ。

 私は息を吐いた。


「忘れたままでいい。君が生きているなら」

 本当にそれでいいのかと問われる。他に方法がなかったと心のなかで答えた。しかしそれは嘘だ。

 ワトスンの名前を偽る計画を練った時点で、大佐の行動は予測できた。彼自身の身を一番に案じ、他のものを差し置いて計画していれば防げた問題だったのだ。

「警部たちが首を傾げていた。ロンドンに帰ってきてからの君の言動は、矛盾だらけだったからね」

 彼は責めるでもなく私を見た。

「僕に忘れてほしいと言いながら、次の瞬間にはそれを裏切るような行いばかりする」

「――」

「感情的になりすぎて、君を操っている理性の糸がいつ切れるのか、心配でたまらなかったと」

 そんなはずはない。いつだって仕事を優先してきた。

 犯罪者を確実に捕まえられるなら、自分だけでなく友人さえ犠牲にできる。教授や大佐と同じだ。


 ――彼が語った通りだ。私は推理の機械なのだから。


「そろそろ、笑ってくれないかな」


 無茶を言うなよ。


「誰も見てないから」


 君が見てる。


 額に置かれた手を顎まで滑らせる仕草に、息を詰めた。君って奴はと呆れたように囁かれる。

「愛の告白は幻想だったようだ」

「君は嘘が下手だ――ワトスン」

「手が痺れてきたから離してくれないかね」

「上から目線で知ってると返したのはどこのどいつだ!」

 身を起こして反論した。揺らめく視界に引き寄せられ、肩口に怪我をしてないほうの腕でしがみつく。

「君だよ。いや、僕だったかな……鼻水を垂らさないでくれ」

「話にすぐ生彩をつけたがる癖はやめろ」

 彼はため息で応えた。



「普通に泣けないのか。名探偵」



 情報が揃わないうちなら単なる推測だと返す。背中を規則正しく撫でる手が優しい。

「ホームズ」

 いかなる高まりも収まるまで待ってくれるはずの男が、首の後ろを掴んで顔を上げさせてくる。恥を晒すまいと逸らした顔は杞憂に終わった。彼は目を閉じている。目指すところの位置を間違えたせいで、唇は頬に当たった。

「しょっからいのは今日食べるニシンの酢漬けが原因だ」

「……まだ何も言ってない」

「濡れてるのは明日降る雨のせいだ」

 少し黙れと今度は正しい場所を探し当ててくる。薄く開いた口を塞がれながら、目を瞑った。

「震えているのは。明後日、君を」



 失うのが――怖いからだ。



「もういい」

 遮ろうとする唇から逃げた。未解決のまま終わる事件の謎が、体の中に存在し続ける。私の不安を納得させる証拠など彼は持っていない。


 失う哀しみを知るくらいなら、忘れてくれたほうがいい。

 出会いからなかったことにするのだ。


「君の頭を覗いてみたいよ」

「あまり面白いとは思えない。特に今は」

「理屈が常に支配していた世界に、僕の存在が割り込んでくるからだろう」

 パイプの煙が漂う古巣も、毎晩突然の訪問者に吹き消される燭台も、頼れる相棒との冒険も何もかも。

 助手など必要ない。主役を引き立てる愚かな脇役は、医者でなくとも勤まる。

 そうすれば――。


 どんな探偵をこの先誰が書こうとも、彼は常に一人きりだ。


「君の計画は失敗だ。出だしから間違えてる」

 感情は割りきれないものだと、開いた目の前にいる男だけがうるさい。久しぶりに見た穏やかな顔が近づき、働きすぎて疲れた頭に口づけるのを感じた。

「割りきれないと困るんだ」

「余った部分は僕が引き受ける」

「君が余りだ、ワトスン」

 難儀な上に強情な男だと顔を拭われた。


「それでいいんだ。僕の余りは君だ。ホームズ」


 情に絡まれて、そうかもしれないという気になるからほだされる。どんなに取り繕っても遅い。彼が提示したふたつの証拠品が、機械の中の埃となって私を乱す。

 そして探偵はひととき人間に戻った。





 知らずに漏れた自分の微笑みが、存在しないはずの目に映るまで。





End.
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