Who are you ?
【3】
貴方らしくもないですね、とグレグスンが呟いた。
階下の話し声が漏れてしまう可能性を考えて、ベイカー街の通りに出ようとする。階段を駆け足で降りる私の腕を捕らえ、グレグスンは続けた。
「ゆっくり出ませんと。煙草を吸いに外の風に当たったいう口実を使いたいので」
小さくうなずく。気が遠くなるような時間をかけて、階段を降りた。ハドスン夫人が目の端に映ったが、振り返ることなく聞こえよがしの暇を告げる。
――彼に、届いただろうか。
「私を『警部』と呼んだでしょう。名乗るよりも前に」
「そんなヘマはしない」
「帽子からはみ出た聴診器の先が、耳にかかっていますよ」
「どおりで回転の早い頭の音がうるさいはずだ」
「ステッキを取りに戻らねば。ハドスン夫人が渡してくれたのに貴方は気づかなかった」
私の動揺を察しているのだ。
「――助かったよ。帰るきっかけさえ失っていた」
電報や手紙で出した指示は完璧に守られている。ヤードの警察官が本来の能力をもて余しているのは、彼らを指導する人間がいないからだった。
油断なく目を光らせて通行人を眺めていると、グレグスンは窓を見上げて手を振った。「おや。振り返してくれましたよ」
視線を追ったときにはカーテンは閉まっていた。見るとグレグスンは眼差しを和らげて嬉しそうにしている。
「グレグスン警部」
「怖い顔をしないでください。記憶喪失というのは便利ですね。我が儘を言うあの人を初めて見た」
「君の記憶を消去するために四、五発殴る許可を貰いたい」
亜麻色の髭をぴくりと動かし、グレグスンが声に出さず笑ったことに気づく。その姿に過去に置いてきた誰かを重ね、目線を遠くへ外した。
患者の口元に髭はない。
煙草に火をつけるには、医療鞄が邪魔だ。あまりにも重すぎる。新聞売りが薦めてくる新聞を受け取り、彼が喪章をつけていることに目を見張った。
「記憶から消して欲しいのは――こっちなんだが」
囁いた言葉は差し出されたマッチの煙と共に消えた。
探偵が死んだことになってから、かなりの月日が流れた。ロンドンの地では未だに彼の死を惜しむ人たちの群れで溢れかえっている。事実が重く肩にのしかかった。
名探偵は、私が殺したも同然だった。
対向車を避けた馬車の貴婦人は黒いヴェールをつけていた。夫が健在であるのは指輪から窺える。老紳士が持っている懐中時計にはソブリン金貨が。字が読めるかも怪しい御者の尻ポケットにはあの本が挟まっていた。
すれ違う花売りが花束を抱えて、一本を私に差し出す。「――傷心のドクターにこれを」
少女も下宿を見上げた。金を出しても受け取らない。ポケットの小瓶から飴玉を取り出し口に入れてやると、微笑んで去った。
「この街の損失は計り知れない。彼らは心の友人を失ったんです」
グレグスンが思わずといった風に呟いた。私は首を横に振って応えた。「これでいいんだ」
「ドクター」
「いつまでもそう呼んでくれ。最後の後始末を終えたら、私はまたよその国へ行くつもりだ――今度は自分のためにね」
偽名も馴染んできたことだ。フランスも悪くなかった。くわえているだけの紙巻がただの灰に変わっていくのを鼻先と共に捉える。
グレグスンが諦めたようにため息をついた。「最後の後始末、とは?」
道端に用を足さなくなった嗜好品を落とし、鞄を取るついでに踏みつけた。燻った火がなかなか消えない。置き忘れた事件の幕を引くまで、彼に真実は告げられないのだ。
私は人の影がさっと隠れた窓辺を見上げて花の匂いを嗅いだ。
「――モラン大佐だ」
【4】
セバスチャン・モランの策略について、ヤードの人間を集め議論したのはその日の夕方だった。
私の正体について知っているのは、極僅かな人間だけだ。
下宿に置いてきたグレグスンや、患者の記憶障害の刺激剤という名目で集められた何人かの警官たちは別として、必要もなく誰かを彼に会わせるのは無駄な手間が増えるばかりだった。
嘘がつけない者は特に厄介である。
「モリアーティ教授の右腕は折られたとばかり思っていましたがね。なんてしつこい男だ!」
レストレードは筆頭だ。
彼は私を別の名前で呼ぶことさえ慣れないでいる。まず最初の一音で舌を噛んでしまうという問題行為のため、患者との接触時間は十五分と決めていた。
「グレグスンは一時間なのに」
「今日は夜までチェスの相手をお願いしています」
「――不公平でしょうが」
無表情のまま見下ろした私に、レストレードはイライラと広間を歩いた。壁に貼り付けた大佐の写真や似顔絵、新聞に載った手配記事を探る。
「奴は『彼』を始末したいのか?」
「いいえ。狙いはおそらく……」
警察関係者のほとんどが私のことを他国から来た謎の医者だと思っている。口調や声色を誤魔化すため、強い訛りで通していた。
私は演じるのをやめなかった。
署内の大広間は厳重に鍵がかけられ、作戦に加わる者たちだけが集められている。たった一人の狙撃手相手に、数十人の警察官をすでに配置していた。
大佐を甘く見るつもりはない。彼はあのときも崖上から私たちを狙っていた――撃たなかった真意は、探偵の名声を落とす目撃者が欲しかったからだ。
そして誤算は、私たちのどちらがホームズなのか彼が知らなかったこと、乱闘が滝のあげる深い霧のせいで見えなかったことだけだった。
あの男なら、次は確実に獲物を仕留める。
「この人は誰なんです」
不躾にも一人の若い警官が前に出て、私を睨みつけた。
「さきほどから、ずいぶん偉そうに警官隊に指示を出していましたが。汚い浮浪児を我が物顔で署内に入れたり」
「君が知る必要はない」
レストレードがぴしゃりと撥ねつけた。それぞれ机の資料を集めていた周囲も気色ばむ。部外者の私について不満に思っていたのだろう。
数々の功績を残してきた上官とはいえ、レストレードはいい年にもかかわらず警部止まりの男だった。彼が一番得意とする部下の統率力も、今回ばかりは期待できそうにない。
私は咳払いをした。
「彼の疑問はもっともだ。私は単なる民間人で、神経科の医者です」
「――ある紳士が国内屈指の元軍人に狙われている。私たちの仕事はその男を捕まえ、紳士を護ることだ。命懸けでな」
「ある紳士とはこの人のこと……ですか? 我々は何も聞かされていません」
知る必要はない、とレストレードが繰り返したために、血の気の多い男たちの群れが青年に加勢し始める。
俄かに沸きだした喧騒を前に、どうするという顔でレストレードがこちらを見た。私は首を振った。どうしようもない。
「浮浪児たちの一人を知っています。彼はたしか――ウィギンズといった」
「彼はもう浮浪児ではない。御者として立派に働いている」
どうしてこう一言多いのか。私の心中も知らず、レストレードは苦虫を噛み潰したような顔で階下を足裏で叩いた。
「彼らはロンドン市内の地図で、モラン大佐が使いそうな抜け道を探しているのだ。狙撃に便利な場所へたどり着く道を洗いざらいな――目的地に着くまでに奴を捕まえられたら、今夜の英雄はあの子たちだ」
「ウィギンズは浮浪児たちのリーダーだ――『あの人』の子分なのだ!」
一瞬シンとした。叫び声が広間の壁に反響する。「誰のことを言ってる?」
レストレードは思案するように腕を組んだ。彼は鈍いが馬鹿ではない。まっすぐ部下を見たまま私を振り返らなかった。
小さな上官の威圧感に、数名が後ずさる。誰のことだ、言ってみろとレストレードは口を開いた。
「君たちが崇拝していた私立探偵は死んだぞ」
「……っ」
「ベイカー街には目の前で親友を失った苦痛により、精神を病んだ医者が療養中だ。何名か連れていったから話には聞いているだろう」
二重の嘘には種があった。
数名の口が硬く頭もよく嘘も上手な警官たちに真実を告げ、代わる代わる訪問させることにより確実に彼の身柄が守られるようにしていたのだ。
警官が頻繁に出入りすることで、彼の側には誰も近づけない。
ベイカー街で眠る人間がワトスンだという風に世間に広まれば、素晴らしい著作者に対する同情の目が彼に会おうとする人々の足を遠ざけ、哀愁に満ちた祈りだけを届かせることができる。
――彼らにいかなる真実の扉も開かせてはならない。
後に引けなくなった青年が、ごくりと唾を飲み込む。彼はレストレードに向かって一歩踏み出した。
「ベイカー街にいるのは、本当にワトスン博士なんですか」
「なんだと……」
レストレードが歯をくいしばるようにして吐き出した。
「ほとんどの時間、下宿のカーテンは締め切ってあります。でも」青年は続けた。「私は同僚と、その。非番の日に交代で……」
青くなったレストレードの顔に私は覚悟を決め、口を開いた。「なにが見えた?」
「顔は見てません。でも後ろ姿が。それに部屋はあの人の部屋でした」
「つまり君たちは」私は広間で息を詰めている警官一人ひとりを見つめた。「私の患者が、滝から生還したシャーロック・ホームズだと言いたいわけか」
埋めき声が室内に満ちる。暗に肯定していた。
青年はハッとして私の顔をまじまじと見たが、無駄だった。彼の知りたいものは私の中にはない。
「――違うんですか」
訝しげなレストレードの視線を横に感じながら、私ははっきりとうなずく。「いや、そのとおりだ。ワトスン君」
青年が一瞬疑った名前で返し、彼らがよく知る名探偵のように言った。
「君たちに護って欲しい紳士とは、ベイカー街221Bにいる――滝から生還したホームズその人だ」
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