Who am I ?


 【3】


 医者が毎日訪ねてくるようになった。


 私は体力も無くなっていたし、下宿の一階へ降りることさえ困難な状態だった。彼は頭の怪我の様子だけを見て、無駄話もそこそこに帰る。毎日が同じだ。

 初めのうちこそ欝陶しい日もあったが、過去の自分を知らない人間というのを私も欲していた。何日も何十日も短時間の往診であれ過ごすうちに、彼を待つようになっている。たまに悪天候で来られなくなれば、がっかりしてふさぎ込む。

 記憶を無くしてからできた貴重な友人だと考えていた。ある日初めて――医者と患者の境を越えようとするまでは。

「元気になったら、オペラかオーケストラの演奏会へ行こう」

 私の急な誘いに、医者は一瞬目を見開き低く唸った。緊張が伝わったのか、顔を背ける。

「音楽は、あまり好きではないので」

 彼は上手に私をあしらった。深入りを避けるように。

 私自身、特別音楽は好きじゃないさ、とヴァイオリンを手に取った。ストラディヴァリウスがどれだけ高価なものかぐらいは知っていたが、椅子の上にポンと置いてある。

 本にそうしろと書いてあったからだ。

「見たまえ」

 見よう見真似で構える。信じられないほど腕と肩と顎の筋肉を使うので、それだけでふらついた。彼が私の体を支えようとする。力強い腕で抱き留められると、見た目とは違ってしっかりしているなと気づいた。

 服の下の筋肉の盛り上がり。暑い国に旅行でもしていたのか、浅黒い肌。首から上だけ白く浮き上がっている。予想しない感情が体を貫いた。

 熱い。そしてほぼ同時に頭痛がする。割れるような頭を押さえた。

 医者が声を荒げる。

「いけない。君はまだ怪我人だ」

 普段はほとんど表情も見せない彼が、私を按じている。ただそれだけのことで。

 渇いた喉を湿らせるため、唾を飲み込んだ。記憶の彼方にいる顔を探ろうとしたが、遠くて掴めそうにない。医者を見ると、頭だけではなく心臓が高鳴った。自分の考えに馬鹿なと首を振る。


 ――彼は男だぞ。


 私はよからぬ想いを振り払おうと、早口で言った。

「その台詞は聞き飽きた。チェスの駒が二階から脳天を直撃しただけでも記憶喪失になる人間がいるというのに、僕の場合はさらに不公平だと思わないか」

 音楽を聴いたら思い出せるかもしれないんだ、と呟く。

 外には出られそうにない。頭の怪我は、考えている以上に深刻だった。ときおり記憶が戻りそうな感じがするとき、酷く痛む。

「雑音が大音量で響くんだよ。耳鳴りが」

「例えば、どんな?」

「風の唸るような……大きな滝から水が落ちる音にも似ているね」

 医者は遠くを見た。壁にかかっている肖像か何かを。さらにその先を。百科辞典の並ぶ本棚の辺りを。

 綺麗な音も聴いてみたいのだ、連れて行ってくれとねだる。医者はヴァイオリンを見て、首を振った。

「記憶に関することにしばらく触れないほうがいい」

「どうして?」

「周囲は君に――過去を思い出せと要求するかい」

 私は首を振った。兄は週に一度様子を見に来る以外、長話もせずに帰る。体型を見てわかるとおり出無精なのだと自分で言った。

「プレッシャーをかければ思い出せるなら、もうとうにやってる」

「では、無理に思い出す必要はないだろう。今は神経を休めて――」

「どういう意味だ。ドクター」

 睨みつけると黙り込む。およそ二人の間では初めてのことだ。

 疑いを隠せなかった。

 この医者は、なぜ自分の所に通ってくるのだろう。兄が手配した医者だという安心感から、つい心を許していたが。

 この男がワトスンでない証拠はどこにあるのだ?


 【4】


 医者が無言のまま帰ると、私は長椅子でまた本を読んだ。ワトスンという男が、どういう人間なのか知りたかったのだ。創作の彼は至って平凡で無害な男に読めた。

 それも本人が書いているのだからあてにならないが。

 ワトスンはなぜ私の前に現れないのだろう。

 イギリス国内で、私が死んだことになっているのも事実だった。なにやら大掛かりな捜査のために、スイスを訪れていたらしい。

 そこで本当は何があった?

 頭痛の気配に意識を逸らす。小さな鏡を見た。痩せこけて目ばかり爛々と輝いた姿にぞっとしてしまう。

 体も同じだった。医者も痩せていたが、私よりは幾分ましで背が高かった。

 体が触れ合った瞬間の疼く気持ちを思い出して、低く呻いた。


 この感情はなんだ。

 私は誰なんだ。

 ――教えてくれ。


 シーツに包まって、前に手を伸ばした。反応したままだ。強い刺激を欲しているのだと擦ったが、反比例するように小さくなった。

 では女の顔だ、と本をめくる。たくさんの依頼人がそこにいた。妄想には事欠かない。情事のやり方や記憶はなかったが、ドレスの下のペチコートやレースのついた靴下は容易に想像ついた。

 ほら見ろ、女で勃起する。

 しかし、指を絡ませながら思いおこすことにしたのは医者だった。きっちり着こなしているベストや上着を脱がして裸にする。これは違うと別の情景に切り替えた。


 鍔の丸い帽子を拾う姿や、

 見たことはないが満面に笑う顔や、

 小首を傾げて照れ臭そうにすることなど。


「ッ――」


 ワトスンの顔を知らない。


 名前を呼ぶと、何か違うという気分が拭えなかった。仮に彼がワトスンであったとして、偽名だからだ。彼はワトスンなのか。違うのか。

 もうどちらでもよかった。私は彼に惹かれている。名前と顔が交錯する。ドクター、と呼んでみたが何も感じなかった。

 違う。彼はワトスンではない。ワトスンは私を憎んでいる。私を死んだことにしたのに。


 私の――。


 その先は続かなかった。溜まったものをたっぷりと吐き出して、深く息をつく。疲労感で肘の側をこめかみに当てた。

 彼と唯一の繋がりである私の包帯は、もう取れかかっている。

 肝心なときに何も思い出せない頭脳なら、存在する価値もないと思った。


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