Bの捻挫
ホームズの怪我が治ったころに一人の紳士が訪ねてきた。まさかとは思ったが、何となく見覚えがある。私より遥かに記憶力のいい男が、何も言うなと首を振った。
「貴方はこの間の――これは失礼しました」
「ホームズさん」
男が真面目な顔で彼を睨みつけながら、一歩前に出た。
「貴方はご存知だったのですね」
「なんのことでしょう」
脚を組んで椅子に座ったので、私は前の無礼を詫びる代わりに紳士のコートを取った。彼は嬉しそうになぜか私と握手をして、解決しました、ありがとう! と叫ぶ。
私は戸惑いながら返事をした。
「いったい」
「あのおかしな推理ですよ。評判を過信しすぎたと早合点しました。お詫びしたい」
私のきつい視線を無視して、ホームズは咳ばらいしながら言った。「ああ。そのことなら、もういいですから。お帰りください」
依頼人を部屋から追い出す。ありがとうありがとうと叫ぶ声が聞こえた。振り返ったホームズは肩を竦めて、何か勘違いしていたらしいな、と笑った。
さすがの私も騙されない。
「君の当て推量は全て外れたじゃないか。ポケットに入っていたなら君に感謝するわけがない」
「ワトスン」
「待て。裏があるんだな。この件に関しても嘘はつくなよ。僕は半日宙ぶらりんで」
「僕らの間には、躯の関係だけなのかい」
思わぬ反論に躊躇った。それは違う。私はうなった。「欲しいと思っちゃいけないのか。君は体調がすこぶる悪かったが――ベッドでの会話も僕には重要なんだ」
「ドクター」
「……君がそう呼ぶときの意味を、よく考えるべきなのだろうね」
ホームズは耳の裏を掻いた。首を振って椅子に座り直す。
「彼が自己紹介する前に調べはついていた。失せ物はすでに彼の家に届けてあったし、こちらの印象を悪くして驚きをより深めようと」
「つまり、あの場所から一刻も早く帰すことこそ必要だったのか。だからわざと」
私の責める言葉に違うと言った。
「僕にも必要だからさ。君との時間が」
口を開きかけて閉じる。聞き流せば二度と同じ質問は出来ないと思った。
「ホームズ。君の傍に僕がいる価値はあるんだろうか」
「――」
「答えてほしい。君から聞いたことはない」
逆はあった。その都度、命の危険を伴っても君について行くと答えたのだ。
彼は、ワトスンと呟いた。
「価値があるからではないよ――君と居たいからだ」
私は不意をつかれて唇を引き結んだ。外側からはわからないだろうに、彼の千里眼のせいで見破られてしまう。
「――怒っているかね?」
不安な色など含まない。気持ちを完璧に隠して、私のほうをちらりと見た。怒っているか? 怒ってるに決まってる!
「なぜ笑っているんだ」
「君が……可愛い。ホームズ」
憮然として背けた頬を両手で捕らえ、自分のほうを向かせた。
「もう一度言ってごらんなさい」
彼はため息をつき、私の求めたこと以外で別の言い方を考えると、私の手を掴んだ。
「ドクター。君の治療は効き目が一次的なんだ」
「たまの薬じゃ熱は治まらないでしょう」
注射は必要なさそうだがと、ポケットから出した飴の瓶を振り回す。突き出した手の平には出さず、椅子の前に膝をついた。一つ含んで自分から取りに来るのを待った。低く呻いて私の肩に手を置き、唇を合わした。
次の触診は今夜予約しますと彼は言った。
End.
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