Bの捻挫


 長い脚でうろうろとして出たり入ったりを繰り返す。一瞬声をかけ損ねた。残っている明かりのせいで、影がいくつも室内をよぎる。私は苦笑して手招きした。

「――寝られないのは別に、君が理由では」
「言い訳は後で聞くよ」

 剥いだシーツの端から躯を滑りこませる。長い脚を小さく丸めて、ベッドの際まで下がった。振り返って肩越しに私をちらりと見る。

「なんだい」
「昨日からずいぶん寒い。部屋に戻ったが脚が冷えて、それで」

 笑ってはいけないと必死で唇を引き結んだ。文字通り賭け事としてのポーカーフェイスに役立つため、髭を蓄え何年にもなるが。

「怪我の具合は」
「元々たいしたことはない」

 ぴたりと胸を寄せて広い背中を抱き寄せれば、無駄な悪あがきで逃げようとするので脇から手を入れた。「こうすれば――少しは」

 震えた冷たい指先を掴む。夜通し続けた実験のせいで、肌は荒れていた。

「ああ。ましだよ。おやすみ、ワトスン」

 早口に思わず声を上げて笑ってしまう。抗議の眼差しが暗闇でもわかるほど赤らんで、なんだねと言った。

 これで誘っているつもりなのだ。頭のいい彼が百も二百も考えたあげく、夜伽の駆け引きを選択するときだけは間違える。

 まだ少し頭の位置が高いのを修正するため、枕に肘をついて躯を起こした。

「それもわざとかい」
「当然さ。可愛いところを見せて相手を油断させるのが策で――」
「だとしたら失敗だな。僕はストレートに誘われるほうが好みなんだ」

 ほんの悪戯心だったが、ホームズの落ち込み用は目を見なくても感じられた。異常なほどに高慢な気質が、彼と私の距離を広げる。急激に襲った憂鬱の波のせいで、不必要な享楽に走らぬよう肩を捕らえた。

「やはり一人で寝るとしよう」
「ホームズ、それは今更だ」
「心配しなくても、注射器はしばらく不要だよ」

 こちらを向かぬままに二の腕を上げた。並んだ穴が痛々しい。私は考えを巡らせながら、いかに彼を説得するかに思い悩んでいた。取り上げることも幾度か試したが、長年の嗜好品は完全に絶つのが難しい。喫煙をやめるよう知人の医者に言われたこともあるが……私にもやはり無理だった。

 彼は意思の力でその欲求から逃れられると信じている。経験から言えば、いかなる物質的な執着も自分が気づかぬうちは駄目なのだが――。

「ワトスン」
「ああ」
「僕がやらないと言ったときは、信用してくれ。他のことでは君を騙すこともあるかもしれないが――これに関して嘘をついたりしない」

 うん、と頭を引き寄せた。刹那の快楽の訪れよりも、言葉を交わさない貴重な何かが漂う。結婚生活で初めて経験したそのやり取りが、この男と私の関係を少なからず変えていた。

 君は優しくなったから、と彼がため息をつく。

「僕はまた甘えて、壊してしまいそうな気がするよ」
「――つき合いをかね」

 ホームズは首を振った。

「生活だ。ベイカー街の――君と居て、依頼人が来て、謎を追っているその毎日を――後ろに君がいるから、振り返ることなくやってこれたのだ」
「知っているならそれで構わない」

 君の背中しか見てないと囁く。高い身長に見合う速さで走るから、少なくともそこだけは手が届くように追いかける。

 誰の手も触れさせない。

 勝手だとわかっていたが、ホームズの名声が轟くにつれて、彼は私の届かぬ人物になっていた。嫉妬しているのは才能ではない。彼の才能に引き寄せられた人間だ。

 ホームズの傍らに、ただワトスンという男がいれば、それでいいのではないかと思うのだ。違う名前の誰かや、語り口の似た人間でも――名前さえ私であれば。

 ホームズも同じことに怒りを覚えているのを知っていた。それゆえ執筆には諸手を上げて賛成しない。

「次の号で作家業は辞めようと考えている」返事を待たずに言った。「元は君の活躍を少しでも広めて、依頼の数を増やすためだった。もう充分だ」

「気遣いは無用だ」
「紙面の君に惹かれ、やって来る男を蹴散らすのがどれだけ大変か」
「こっちは女もだ。ドクター、性病や痔や前立腺の異常ときたら、断りたまえ。専門外ですからと」

 本気で書いて欲しくなくなったら話すさ、と呟いた。しかし彼は言わないはずだ。私との繋がりは、伝記の記録のためという口実で守られてきた。離れて欲しくないと口にすれば、それは彼ではない。恋愛の間もただ黙って堪え、ぽつりと別離を祝えないと言うのがホームズの全てだった。

「尻の具合はどうです。座ってもお辛くはありませんか、ミスター・ホームズ」
「上々とはいきませんな。パートナーは執拗なので、月三回でもいいなと思い始めていたところです」
「添い寝をご希望なら仕方ない。お医者さんごっこは明日にしましょう」

 苦笑で応じれば、ようやく躯ごと私のほうを向いた。寄せた眉間に眉を上げて微笑む。「結構な勇気だよ。患者が後ろの世話を頼みに来るのは」

「注射器は毎日とはいかずとも、たっぷり打てます。おそらく挿入されれば血管から脳髄に届くまでの快感でしょう。激しく打ち捨てられた後は放心状態で次を欲しがるかもしれない」
「――こっちの注射器の世話はどうしてくれる」

 ベッドに入って来たときは確かに静かだった。背中に抱き着いて無意識のうちに股間を擦りつけていたのがよくなかったらしい。指を絡めて少し引き出すだけで、半身を起こす私を仰いだ。

「これはいけない。ものすごく腫れている。何か悪いものでも食べましたか」
「ワトス、ン」
「伝染病の疑いが強いですね。ああ、移ってしまった」
「医者の不養生だよ。……っ」

 もう少し後に来てくれれば、脱ぎやすい寝巻着で迎えられたのだが。余裕を無くして酷い行いをしそうになる。

「悪性の粘液が溜まると腫瘍のようになっていけない。定期的に出すのが一番の治療法だ。任せていただけますね?」

 額に軽く汗を浮かべて、こくりと頷いた。


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