Bの捻挫
私が椅子の端に座り髪を弄び始めても、彼は落ち着き払っていた。よく口から出任せばかり思いついたなと近づくと、彼はそっぽを向いて片手をこちらへ出した。その指に口づけ、上体だけ合わせる。両手を解いてそっと横へずらした。
「君のことだよ」
「――?」
「推理の話さ。当たってたろう」
顔を眺めたまま胸をまさぐった。皺が寄って使い物にならなくなっては困るが、程なくして寒さからか眠気からか、乳首が勃ってきた。
「見なくてもわかるのだ。推理なしでも観察しなくても、肌で感じ取る」
「――」
「駄目だ。眠いよ、ワトスン」
「添い寝ならいいだろう」
そうはいかないさと笑って、とろんとした目で唇を追ってくる。吸い上げて耳裏を撫でると、洗い損ねた自分の残滓が乾きかけていた。袖口で拭おうとするが。彼は私の指を取り、舐めるのでなくただ口に入れた。
「指だけ切ってくれないか」
「――どういう意味だ」
「しゃぶり癖のある子供は大人になっても鉛筆やらスプーンやらかじる」
よく寝れそうだから君の手首から下だけがほしい、と言った。
複雑な気分で黙り込むと、ホームズは私の指を喉の奥までしっかり飲み込み、ちょっと離した。両手を腰に回して、体を押し付ける。途端に鋭い悲鳴が上がり、足の怪我を思い出した。
「すまない、ホームズ。いま湿布薬を」
「――ワトスン」
「見た目より酷いんだな? 相当痛むかい」
「僕は君の患者じゃないぞ」
診療所に行って痛み止めを取りに行くと言った。首を引き寄せられる。キスでなし崩しになるのを防ぐと、喉元に顔を埋めるだけでそれ以上は触らない。
「僕を優先しないだろう」
「なに? ……仕事や下半身の話ならもう」
「意志の話だ」
一段と低い声で囁く。気持ちに蓋をするより先に手が伸びた。時間をかけてタイを解くと、まだ明るい陽射しが容赦なく部屋に照り付ける。たまに聞こえる寝息だけで、半分以上終わったようなものだった。中断された出来事に腹が据わる。
これが異性なら。
あるいはもう手に入れてしまった何かであれば、こんな気持ちになるはずがない。
私を一番にしてくれないのか?
眠りにつきかけた探偵は、しばらくすると安らかな顔で寝息を立て始める。自分だけが女のような執着心と、独占欲で疲れてしまった。事件。注射。その下に相棒とのセックス。彼は元からこの行為に溺れはしない。私が望むから、あるいは精力のはけ口がたまたま手軽にできるから。
長椅子から下ろして運ぶには、脚の古傷との相談が必要だった。あいにく天気も悪くて、起こさぬように移動させるよりはここで寝かせたほうがいいと判断をつける。
こぼれたため息は彼の髪をまた少し乱した。毛布をかけて、踵を返す。聞きたい答えは起きてからでも遅くはない。
夜になってもホームズは目覚めなかった。途中で起きてきても知らん顔をしてやろうと執筆に励んだが徒労に終わる。
冷めた下半身に諦めをつけて、書き散らした原稿を読む。これだと殺意が伝わりにくい――実際八人もいた容疑者は二人に減らさねば――。葉巻の口を切りかけて、私の書斎に置き忘れているホームズのパイプが目についた。
「嫌がらせに鳥の糞でも詰めるか」
いい考えに思えた。問題はどのくらいの割合でそれを混ぜるか、気づかれぬことは不可能に近いから、それらしい嘘をつくにはどんな話がいいか。
レストレードが協力してくれれば実現しそうな計画に一人笑い、虚しくなって頭を落とした。まるで相手をしてほしい子供のようだ。人によってはホームズこそが子供であると言う。私はそれが事実でないことを知っていた。
物語であれば――私が彼にそうあって欲しい存在として、書くことさえできるのだ。
彼との関係に気を揉んでいることを、誰にも悟られずにやってきた。下手なことを言えば、ホームズの活動に支障が出る。
その才能に嫉妬しているのじゃないか。名前の売れた相棒に苛立っているのじゃないか。脚光を浴びるべきは自分なのだが、若きシャーロックが有名になり、力なき自分が見放されるのを怖がっているのじゃないか。
どれも的外れだ。ただ欲されたいのは私も彼も同じだった――短時間の夢でさえも。
ガス灯を消してベッドに倒れ込み、手探りで蝋燭を燈した。寝ているホームズの夢の中にさえ出演できぬのなら、自分で彼の夢でも見るしかない。
まだ残っているパイプの灰に火を点け、吸い口を舐めて彼の味を確かめた。
「――ホームズ」
呼んで聞こえる距離ではない。煙を吸い込むうちに眠気が襲ってくる。何度か口ずさむうちに完全に中身は消えた。腕を枕にしてパイプを胸に乗せ、そろそろ寝るかと瞼を閉じかける。怒りは確かに燻っていたはずだった。
開いた扉の向こうから、部屋着を羽織った探偵が起きてきた。
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