Aの火傷
レストレード警部に付き合い、ワトスンは私の捜査についていくのをやめ、ビリヤードに夢中になっていた。
足が悪いせいで何度か打ち損ねるが、着々と得点を稼いでいく。金を賭けようかという話になるまでは遊ぶ腹だ。流れを遮らぬよう手加減しつつ、警部の面目も保たせてやっていた。体格に関係のないこのスポーツは、計算と理性的な頭の回転が物を言う。その点では、ワトスンのように若干鈍く、勝負の勝ち負けにこだわりのない者には有利なゲームだった。
ラシャの上で玉が弾かれ、ワトスンが振り返った。終わったのかいと笑顔を見せる。
憮然として、警部を見た。キューの先にチョークの粉をつけることしか、目に映らない。しかめた眉と余裕のない焦った動きで、レストレードの負けだと判断する。予想通り、幾つか打つとワトスンの勝ちだった。
「相変わらず強いですな、ドクター!」
「何か賭けていたらもっと強い」
口を挟むと、おやとレストレードがわざとらしい声を出した。「ホームズさん、いつからそこにいたんです?」
私はなるべく笑顔を振り撒き、「ワトスンが飽きて、本気を出した辺りから」と答えた。レストレードはそんなことわかってましたよ、と不満げに口をつぐんだ。
「その様子じゃあ、収穫はなかったのかね。ホームズ」
ワトスンは心配そうに私を覗きこんだ。「ついて行くべきだった。今からでも役に立てることがあれば――」
「ない。今日来てほしかったんだが」
「……すまない」
「別にいいさ。君は僕の所有物じゃないのだから」
先月発行されたばかりの短編に、私に対するワトスンの不満めいた言葉が載ったばかりだった。レストレード警部が、「いい年をして大人げない」と唇ごと顎まで下げる。
大人げなくて結構。
ワトスンがいないと仕事がはかどらない。自分の能力を低く言うつもりはないが、私の名声と探偵としての解決力は、ワトスンに依るところが多かった。
「遊びに熱中しすぎて、財布の紐が緩んでるんじゃないかと心配になってね」
「金は持ってきてない」
「ワインは飲んでいるだろう?」
私は端に置かれたグラスを取った。そっと回し見ると、警部がそれは私ので、と咳ばらいする。
「グラスは一つだが君の唇と警部の唇の二つが重なっている」
「――」
「早めにミントを噛んで正解だったね。ただ僕は嗅覚が発達してるから、君がいくら裏工作しようと気づいたろうが」
なぜ二つのグラスを使わないんだ、と本筋に関係ないことで責めてしまいそうになった。警部ばかりでなく、ほかに会員がいるので、妙な痴話喧嘩はこれ以上できない。
「早く食事をして帰ろう。僕は朝から何も食べてないのだ」
「ホームズ。どうやってここに入ったんだ?」
十幾つかのビリヤード台と、三階まで同等の部屋が並ぶこのクラブでは、本来会員でない人間は入ることができないのだ。私は人との交流に興味がないので、入会はしていなかった。ドアの前ですれ違った紳士に頼んで、煙草にマッチを点けてもらい、その間に会員証だけを財布から抜き取ったのだ。
私はしれっとして言った。「入口からさ。わかったらコートを取って繰り出そう。警部。いい夜を」
有無を言わさず廊下へ出る。日もすっかり落ちているというのに、ワトスンは帰って来なかった。心配して来てみれば、なんのことはない。人の存在を忘れていただけなのだ。鼻を鳴らして、踵を返した。
「ホームズ」先を急いで階段を降りようとすると、帽子とステッキを持ってワトスンが追いつく。「なぜあんな言い方を……」
「待ちたまえ。ここじゃ声が反響する」
「聞かれて困ることでもあるのか? 秘密主義も大概にしてくれ」
含むような言い方で、ワトスンは私の腕を掴んだ。二階に駆け降りると、一番奥の誰も使っていない部屋の扉まで誘導する。ガス灯の明かりはついていたが、暖炉は消えていた。中は酷く寒かった。
「ここは広いんだな。僕も会員になろうか」
「――」
バタンと叩きつけるように扉を閉めた。私の被る帽子を後ろに跳ね飛ばして、人の体を扉に押さえつける。されるがままで抵抗しないと、ワトスンの視線が宙を泳いでさ迷った。
「何だね。言ってるだろう。僕は腹が空いた」
苛立ちでついきつい口調になった。ワトスンはカッとして口を大きく開けたが、黙り込み、目尻を下げて、わかったと言うように体の力を抜いた。私に背を向ける。いやに物分かりがいい。
片手で押さえられていた首筋のタイを直し、コートの襟を正した。落とした杖を拾おうと屈み、ちょっと反省して顔を上げる。
「ワトスン、さっきは――ッ」
腰をさらうようにぐいと引き寄せられ、押さえつけられた。背中に強い痛みを感じて、後ろ手をつく。
「ぅ……ん、ふぅ」
久しぶりに感じる唇の熱さに、ふぅんと甘い声を鼻から出した。髭のせいで息が詰まりかけるが、いつものように顔の位置をずらそうとすると阻まれる。
「あ――」
舌が歯の間を割り込み、薄目を開けると頭を掴まれた。身長差のある体を抱きとめようとすると、壁際で押さえこまれる。震える膝の動きに気づかれまいと足を出した。ワトスンの手が乱暴に私の股間をわしづかみにする。
「っ。……っぁ。……ワトス」
「この程度でこんなになるのか」
翻弄されて息が上がりかけている私の耳に、悪い男だと吹き込む。
「止せ。……ぅんっ」
少し服の上から揉み解されただけで、バランスが取れず座りそうになった。存在を主張し始めたそこの重みで、先程の寒気が嘘のように引いている。
「……ん」
熱を持った息が辺りを白くして、私はもっと激しい刺激を欲した。
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