探偵の精密的思考


「恋愛か。馬鹿げてる」私はせせら笑った。「女性の影が君にまとわりついているよ。見た目はそうだな、髪は栗色。細身だが尻の肉付きはよさそうだ。家も裕福。気に入りの手鏡が割れたことで、君に助けを求めにきた。もちろん金を出してもらう口実だ」

「うん。妻を選ぶためのお見合いに失敗し続けているのは君も知ってのとおりだ。しかし今回は違う。彼女も本気。僕も本気で、乗り気でないのは君だけだ」

 結婚するのは君だけなのだから僕が乗り気でなくても構わないだろう、とマッチを擦った。ワトスンという男は勘だけは鋭いから困る。情で泣きついてもプライドを失うだけだと知っていたため、私は言った。

「おめでとう。何度目だったかな。この分だと本当に結婚するときには祝いの言葉も枯れそうだ」

「ありがとう。それが本当に結婚するのだよ。君がこっそり上から見ていた事実も知っていた。彼女の服は借り物で、職業は家政婦。裕福には程遠い。路上で広げた手鏡の見立ては確かに僕だが、叔母にプレゼントするのだと代金は自分で出した。堅実な女性さ」

 ワトスンは浮かれていた。辻馬車の前で別れを惜しむとき、友人ではない場所に素早くキスを受けたからだろう。上からでは女の帽子ではっきり見えなかったが。顔も知らない。

「出かけてくる」私は煙草をくわえたまま外套を手に取った。

 こんな時間にかい、と声が追ってくるが階段を軽快に降りた。ハドスン夫人の声。通いのメイドが投げる杖を受け取り、扉を閉める直前にちらりと見れば、相棒は首を掻いて部屋に戻っていった。

 通りで拾った馬車に乗る。御者は知人だ。行き先を言わずにチップをはずんだ。「すれ違った同業の馬車に、赤いストールの女性が乗っているのを見かけなかったか」

「はあ。今夜は忙しかったんで遠くに出払ってまして。見かけやせんでした」

 御者が興味深々に聞いた。「何かあったんですかね、ホームズさん」

「酷い事件だ。心臓をひと突き。女は怖いね」

「殺人事件! 恋愛がらみの?」

「男のほうはまだ息がある。死んだのは彼の女さ」

 馬車はしばらく辺りを走った。私は髪を撫でつけ、ベイカー街を三回巡回したところで叫んだ。「戻って来ないな。勘違いだったようだ」

「おそらくあれでしょう」御者が言って指をさした。前方にこれといって特徴のない馬車がゆっくり走っていた。「勘違いではないと思いますぜ。この一週間、使いの浮浪児どもに言われたとおり周辺を見回っていましたが……お宅の三軒隣に止まる馬車の数の多いことときたら」

「脇につけられるか」

 御者は迷ったようだった。殺人と聞いて怯まない人間はいないだろう。しかし最終的には私の指示通り、馬車の横に馬車を走らせた。

 女が乗っている。顔はやはり見えない。相手の御者は気づいて鋭い視線を寄越した。

「とめろ」

「いいんですかい」

「早く」

 私は馬車がとまると路上に杖を突いた。「ありがとう。顛末はウィギンズに報告させるよ」

 馬車は無駄口を叩かず去った。私の死亡記事が朝刊の一面を飾らないか心配そうだった。続いて女の馬車も止まった。私は女に手を差し出した。

「ホームズさん」私は返事をしなかった。女は優しく穏やかな笑みを浮かべていた。細い顎が魅力だった。「気づいていらしたんですね」

 長い沈黙。降りる気がないのか、私の手を握ったままだ。私は言った。

「家政婦の手ではなかった。鏡を反射させて、出てきた僕を写そうと掲げていた。日に三度も同じ馬車でベイカー街を訪れた。これで気づかない男は馬鹿だ」

「四度です。貴方は馬鹿じゃありませんわ」握られた手がそのまま彼女の胸元に。眉をしかめたが放っておいた。「もちろん、わたくしも」

「貴女の気持ちには応えられません」

「知っています。傍で様子をうかがえたら、それでいいのです」

「……同居の男の唇を奪い、意識をそらした上で得た、僕の髪の毛を返していただけますか」

「肩に止まった蝿を追っ払っただけです。ワトスン先生のキスは素朴だけど優しくて。わたくし幸せになりたいの――」

 私はため息をついた。思った以上に話が通じない。「では、何か代わりのものをあげましょう」

「もう頂きました。間接的ですけど。貴方の唇」

 女の胸を押して馬車に戻した。顎に手をかけ乱暴に倒れこむ。芳香な薫りを無理やり肺に入れることで意識をそらした。合わせた唇から漏れる息。鼻にかかる笑い声。言葉にぞっとした。「好き。貴方はわたくしに気づいてくださったから――あきらめて他を探します」

 私は唇を拭った。馬車を降り、路上に落ちた杖を拾って踵を返す。狂気の目を見つめる勇気はさすがになかった。膝が笑っている。

 ベイカー街に戻ると、御者が慌てたようにハドスン夫人に話をしていた。ワトスンは御者に警察へ行くよう指示を出し、別の馬車を拾おうと手をあげていた。私は彼のあとについて中に入った。「いや、降りてください。僕は行かなくては……ホームズ!」

「どこへ」杖の柄で馬車を突いた。「一周回って戻ってくれ」

「心配したんだぞ。話が要領を得ないものだから――御者が言うには」

 私はワトスンの首根っこを掴み、小窓の覆いをおろして体を引っ張りこんだ。馬車が大きく傾いだため御者が文句を言った。甘美な時間にいつ終わりが来てもいいように、私は大きく息を吸い込んで彼を離した。ワトスンのほうは突然の強行に的外れなことを呟いた。「ああ。その。口紅がついてる」

「君が昼につけて帰ったやつだな」

「――自棄になって商売女を買いに行ったなら、さすがに友人として口出しさせてもらうが」

 二重の恐ろしさで勃つには勃ったが、役には立ちそうになかった。自分はセクシャルを理由に刑務所に入るのもいいが、彼は巻き込めない。口封じがキスひとつで済むなら安いものだ。

「残念だが君相手で我慢しよう」

「僕はこれから結……」

「黙れ」

 女は二度と姿を見せなかった。一週間ほどすると何度目かの失恋で互いの機嫌は逆転したが、その理由までは説明しなかった。失わずに済んだ自分の想いを笑って翌週は過ごした。



 探偵の精密的思考。



End.
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