探偵の不変的感情
怪我の多いホームズの面倒を診るのに嫌気が差してきたある日。
事件の手がかりとなる洞窟も探しあて、気に入りの外套が汚れる他は問題もなかったのだが、疲れは正常な思考回路を奪っていた。ホームズが岩肌を踏み外して滑り落ちた。
旅先ゆえにろくに治療薬も揃えておらず、帰りを待つ妻も存在も気がかりで、私は二重に焦っていた。ホームズのほうはホームズのほうで、現地入りする段でも私が以前ほど乗り気ではないことを知り、根に持っていた。
今度怪我をしたら治療費を取るぞと脅したのは半ば本気だった。包帯もただではないのだ。
「昔の君なら肉屋からの診療代は肉で払えといっていただろう」
「君は肉屋じゃない」
「先週はツケの支払いの滞った患者の手術をうけたはずだ。倹約もほどほどにしないと首が回らなくなる。当然だ」
「生活はできてる。君に心配されるまでもない。金の問題じゃない」
「競馬場にツケがあるだろう。娯楽も少なくなってきてる。つまりそういうことだ――」
彼は薬がしみたらしく顔をしかめ、目を逸らした。視線の先には小型の医療鞄だ。革が擦りきれて非常に惨めな有り様だった。
「経営は右肩あがりだから心配しなくていい。生命保険に入ってくれるのなら歓迎だが。もちろん僕の名義で」
「探偵から探偵料を貰う気なら支払いは弾むよ」
「――探偵料?」
ホームズは小石を拾い上げて言った。
「何かことが起きた場合にはね。医者だからじゃない。君だから必要としてるんだ」
私は上手く返事もできずむせた。風は激しく吹き荒れ、洞窟の側面を叩いていた。いつもの調子で自信に満ち溢れた態度を見せていることを期待して彼を見た。
見つけた石盤に気を取られている。私は肩を落とした。
「ホームズ」
「あの略図の保存状態を見たかい? 博物館の資料のほとんども風雨に晒されて不自然なくらい黄ばんでいたのだ。それに」
夢中になって思考を整理する彼の会話についていけず、私は聞き流したあとに深呼吸して返事を返した。
「力になろう。いつでも」
彼は私を振り返った。「そう言ってくれると思っていたよ! ではこの石盤を外すのを手伝ってくれ。僕は怪我をしてしまったから」
「……わかった」
並みの医者では動かせぬような重い石を自慢の腕力で動かすには時間がかかった。いるのは体力であって他の能力ではないようだ。一向に手伝う気はない様子の彼に苛立ちを覚えた。
「よし、開いたぞ」
「えらいぞ、ワトスン。ところで」ホームズはため息をついた。「愛の告白でもしかねない間の取り方はやめてくれ。緊張感で身がもたない」
からかっているのか本気か判断がつかずにまごついた。表情はいたって真面目だ。私はその時まで断じて彼の性癖を疑ってかかったことがなかった。恐ろしさにそれ以上考えることをやめた。
「さあ今度はカナリヤの役だ。毒ガス地帯に備えて、せいぜい口を閉じて中に入りたまえ」
緊張感が聞いてあきれる。
「そこはさすがに君が先だろう。落ちたら骨くらい拾ってやるから先に入れ」
「役に立たない男だったと末代まで言われたいのかい」
「……僕でよければ喜んで」
「そういってくれると思ったよ! まあ僕が先に入ろう。つっかえたら話にならん」
冒険譚のほとんどが脚色のため、地下の小部屋や犯人の発見に繋がる手がかりが得られたりするものだが、残念ながらそういうことはなかった。
得た言葉と引き換えに体よく使われるのはいつものことである。
探偵の不変的感情
End.
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