探偵の驚愕的愛情


 ウィギンズの面倒を誰がみることになったか、気になる方もいるだろう。

 彼はどの人生も選べた。もうすでに御者の仕事を懸命に熟していたが、私とホームズが提案したことをきちんと理解していていたのだ。

 特別扱いは結局のところ――彼だけであった。

 他の浮浪児たちは成長するにつれて、厩の仕事やパン職人の弟子入り、中流階級の皿洗いなどの職を紹介したが、ウィギンズだけは違った。

 彼の頭の良さや信仰心は、元々の家柄がよかったせいもあるだろう。血に刻み込まれた没落貴族ウィギンズ家の系図を辿ってはいたけども、ホームズは彼が大人になるまでその話をしなかった。

「暑いなあ! ノッポさんはいらっしゃる?」

「今日は留守だよ。ヤードの連中に用事があるそうだ」

 うげ、と呻いたウィギンズは、客の忘れ物だという淑女の帽子を頭から外して丁寧に礼をした。部屋に入るときはいつもそうだ。

 彼の礼儀正しさはホームズが躾けた。隊長であった彼はさらに子供たちを。ロンドンの浮浪児たちは徐々に秩序を学び始めていた。

 ウィギンズが届け先を先生に聞きたいのでと言った。椅子に帽子を置くまでの間に、下が騒がしくなる。

 レストレードの声が耳に響いた。「私は断固として反対ですぞ!」

「君の意見は要らないのだよ。聞きたいのはつまり」

 ドアを開けたが後ろの人間が入るのを遮る。余裕をもって壁を掴める長い腕が顔面を直撃して、小さな刑事は叫んだ。

 二人の後ろからまだ足音がした。ホームズは廊下に向かって言った。

「ちょうどよかった。例の子供が来ています。少し話させて欲しいんですが、うるさい小舅をどなたか捕まえててくれませんか」

「なにっ」

 レストレードが喚き立てるのを、後ろからグレグスンが掴む。反対をジョーンズだろうか――声と影だけだが、脇を大きな相手に挟まれるとレストレードはさらに小さく見えた。

「ほら。私たちに用はないんです。行きましょう」

「特別な仕事がないからといって、サボる理由にはなりませんぜ」

 大声を張り上げる小男を引きずって離れる。ホームズはグレグスンを呼び止めた。

「貴方にも居てもらいたい。理由はお分かりでしょう」

 遠ざかる抗議の言葉が刺さったが、探偵は顔色を変えずグレグスンと――ホプキンズを招き入れた。

 ヤードを支えている主要の刑事に、私は居住まいを正す。何か大掛かりな捜査があるときでさえ、ホームズが一目置いている者がこれだけ集まることはなかった。

 ウィギンズは水と油の人間に気づくと、とっさに窓を開けて逃げようとしたが。

 一番距離の近い私より先に、長椅子を越えたホプキンズが細い腰を掴んで部屋の中央に戻した。

「何すんだよ、オッサン! 離せ」

「この中では一番若いんだけどな」

 椅子に押さえ付けた少年を見る。

 ホプキンズは女好きのする整った容貌の青年で、ホームズは彼の細かいことによく気づく目を、非常に買っていた。

「ふぅん」

 ホプキンズはじっくりとウィギンズを眺め、汚れた服装に構わず握手を求めた。

 少年はその手を払い、ホームズを睨みつけた。「アンタ俺を売るつもりか。このベビーフェイスに」

「聞き捨てなりませんな。ホプキンズ警部はヤードきってのハンサムだぞ、ボーイ」

 グレグスンがわけのわからぬ反論をして、私はますます彼の認識を改めた。ホームズは二枚目ではないが、彼らは昔から仲がよい――。

 探偵は書類の山に視線をやりながら続けた。

「ウィギンズ、警部は――君を養子にと考えてる」

「なに?」

 真っ先に口を開いたのは私だった。二人のどちらだと見比べて、年齢から推測するにグレグスンかと振り返る。「それはまた、どうして」

「私ではありません――」

 否定したグレグスンの言葉に、ホプキンズが真面目な顔つきで頷いた。 「僕です。ホームズさんから話を聞き、彼に興味が沸きました」

「頭の上で会話するような連中のモノにはなりたくない。先生たちは俺を引き取りたくねぇのか」

 ホームズが壁を凝視して書類を机に置いた。感情を殺しているのが私にはわかる。

「ウィギンズ。君は返事をうやむやにしたままだ。おそらく私の評判を気にして、重荷になりたくないから――断るつもりだったのだろう」

 ウィギンズは喉をつまらせた。探偵はなにもかもお見通しなのだ。

 彼は舌先をぺろりとやって、「ちょっくら外で」と目配せした。ホームズは頷き、私にも来いと指で招く。

 ホプキンズはソファの背に腰かけて、私たちに頷いた。レストレードの叫び声がベイカー街の騒音になっていた。グレグスンが、見てきますと言って続ける。

「私は――この件に賛成です。君は利発そうだし十六といえばもう大人なのだから、自分で決断したまえ」

 少年はうなずき、すれ違いざまにグレグスンの尻を撫でた。ひゃんと馬のいななきのような声が漏れる。私がその赤面を確認する前に、グレグスンは階段を足早に降りていった。

 ウィギンズは何かを確かめるように頷いた。「あの人は、ちょっとホームズ先生やドクターに似てる」

「どこが」

 ウィギンズは扉を見つめ、私を無視した。

 「あっちは小悪魔っぽさが信用ならねぇ。俺が着飾れば美少年だと吹き込んだんでしょう」

 そんなに男色家ばかり居てたまるか、とため息をついた。いくらなんでも。

 ホームズが咳ばらいをした。

「ウィギンズ君。グレグスン警部はやめておきなさい」

 真剣な顔をして言うので、私は焦った。以前から疑問だった。ホームズはあのラテン語もできる髭のインテリを特別視している。

「なんだ。アッチのお相手でしたか? 過去の男とか」

 ウィギンズがちらりと私を見て遠慮がちに聞いた。ぜひ知りたいものだ!

「馬鹿な。私のではない……彼は」

「チビちゃんとか。あのネズミみたいな」

 探偵の言いにくそうな表情に、私たちは顔を見合わせた。レストレードは既婚者だ。グレグスンは私と同じで病気がちの妻を亡くした身である――今のいままで男色の趣味があるという噂を聞いたことはない。仮にそうだとして署内で相手を作るというのは自殺行為に近かった。まさか……あの二人が? レストレードは恐妻家だぞ。

 ホームズはこめかみを押さえ、今から言うことは僕の独り言だ、と言った。

「グレグスン警部には隠れた趣味がある。その傾向は相手が男女問わず多岐に渡り、縛ったり垂らしたり漏らしたりの強制は日常的に行われ、独特の性感を理解してつき合える人間は数少ない」

「――サド候爵?」

 逆だ、と言われ私は呻き、ウィギンズはああ! と叫んだ。 「それなら知ってる。つまり愛人はあの可愛い子ちゃんか」

 衝撃は私の頭を二度揺らした。できれば知りたくなかった。

 ホームズは首筋を掻きながら床を見た。

「君たちには同種のものを感じるし、グレグスンやレストレードでは君の世話は手に余る。私の判断だよ」

「義理パパがSね。気に入った。挨拶をし直してもいいですか?」

 ホームズは不安げに私と目を合わせた。見たことがないほど眉尻が下がっている。

 ウィギンズは返事を待たずに扉を開けた。ホプキンズは椅子に脚を組んで肘かけで頬杖をついていた。 「刑事は耳がいいんですが」

「――聞かせてあげたのさ」

 ホームズは苦笑して言った。負け惜しみのように聞こえる。独占欲に慣れてきた私は、もはや誰から順に嫉妬すればいいかわからなくなった。

 ホプキンズは椅子から立ち上がり、拳を顎に当て少年を眺めた。

「ウィギンズ」

「イエス・サー」

 私の位置からホームズの表情は伺えない。私は彼の反応だけが気になった。

 ――探偵の手を離れるときが来たのだ。

「僕は君に恋人を共有させたりはしない。もちろん君を代わりにしたりもね。父親になるからには、息子にいろいろ望むだろう――例えば君の性癖は生きにくいから、せめて異性愛に目覚める努力をして欲しい」

「ご期待に添えると思います。僕はイチモツよりパイオツが好きです」

「なるほど。では取引成立だ。君は僕から学び、僕は君から学ぶだろう」

 どちらも冷静な声音だったが、ぎこちなく握手をした。書類は後で送るとホームズが言った。

 永遠の別れではなかったが、自分の元を完全に離れる少年を、新たな世界に押し出すため――ホームズはウィギンズの躯を片手で引き寄せた。

 私は、心打たれた。

 少年が何を言ったかまでは、聞き取れない。そのまぶたに光るものを見たとき、感謝の言葉は確かに届いたのだ。





 ここで『ウィギンズは警官になり警視総官まで上り詰めた』とまで記せば、また探偵に話を盛るなと嫌な顔をされるだろう。

 ただ、ホプキンズという名の優秀な警官は、世紀を挟んで何人も――ヤードの歴史に残ったとだけ書くに留めておこうと思う。

 少年は自分のミドルネームをHに決めたが、その意味は私ではない。

 名探偵はいつまでも、彼の師であり、気持ちの上では父親だったのだ。



 探偵の驚愕的愛情表現。



End.
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