探偵の流転的人生


 モンタギュー街の下宿先も悪くはなかったが、ときどき顔を出す雇われ下男の料理が手抜きなのが悩みだった。家主の遠い親戚らしい。本気を出して口説いてもいいと思った相手だった。

 しかし欠点もあった。

 他に就ける仕事はなかったのかと疑問に思うほど、家事炊事の類いが苦手なのだ。手本を見せると自分のほうが圧倒的に手際がよかった。そこで小遣い稼ぎの時間をつぶすのに、別の提案をした。

 床では素晴らしい助手としての役割を果たした。

 今後の探偵業の相棒にと誘ったが、あっさり断られた。ごく簡単な推理への素直な称賛と裏腹に、つれない男だ。淡白でないのはベッドの上だけだった。

 では個人的な従僕にと、いささか誘いの等級を上げても断られる始末だった。

 恋人か愛人ならいいかねと尋ねると、少し笑って「就職するまでなら」と応えたので、柄にもなくはしゃいで夢中で口づけた。

 そこで初めて年齢や、由緒正しい家柄の長男だが、事情があって学費の工面に喘いでいるという推理が事実であると確認した。

 積極的に貢ごうとすると「金のためにつき合っているのではない」と不機嫌になるので、あらかじめ仕立てた服に、酒や薬品を引っかけてから譲ってやったりした。

 戯れでない恋には不慣れだったが故に、他にやり方を知らなかった。

 やがてこの恋人兼愛人を、心から歓迎している自分に気づいた。相手のほうもこちらの不器用さに合点がいくと、どこで学んできたのやら、磨きをかけて寝室での時間をより愉しいものに変えた。

 そのうち組みしかれるほうが好みだというのもばれて、犬の嘶きにも負けぬ声で啼かされるにいたっては、白旗を上げて降参するしかなかった。

 好きだと言えば、そうですかとはぐらかされた。

 独占したい旨を伝えても、約束と違いますよと諭された。

 胸が痛むから優しくしないでくれと頼めば、痛いくらいでないと感じないんでしょうと抱きしめられた。

 そのうち本当に別れは訪れた。思わぬ場所で次に再会したら、新しくできたらしき恋人と知り合いだったために、胸中穏やかではなかった。


 ――そこまで話して、ホームズは言葉を切った。


 私は苛々としてきた腹に力をこめ、率直にいった。「……肝心の答えを聞いていない」

「恥も外聞も無くして研究室でひとり悶々と過ごしながら、もう二度と恋愛ごとで本気にはならないと決意した矢先に、君が現れたのだ。ワトスン、さあ次だ」

 鮮やかな手つきでカードを切る。小気味よい音の後には、机にカードを並べる指が素早く右から左へ移動した。私はホームズの手首を握ったが、彼は払った。

「カードを引きたまえ。次は君の番だ、言い出しっぺ君」

「相手が誰かが重要だった。だが、もうよそう。済んだことだ。それに君は、どうせ僕にわからぬようカードを抜いているのだ。いかさまの証拠に、端にはところどころインクの痕が……」

「これのことかね? ワトスン、自分の小指の脇を見るがいい。そして昨夜遅くに血走った眼で君がしたためた誓約書を僕に見せて、床にひれ伏して赦しを乞うといい。何を話してもお互い水に流して忘れるという話だった。話したくない部分は話さなくていいという約束だった。さあ、引きなさい。――よし、これで二十一勝一敗。そうだな、次は失敗した性衝動とその正しい時期と年齢」

「何をもって失敗というかによる。待て、さっきの質問を変えたい。グレグスン警部についてだ――」

「答えられないとなると、二十九歳四ヶ月、僕を相手に焦って急いでその後は駄目だったあれが最初としておこうか」ホームズは続けていった。「特定個人の名前では教えられない。名誉棄損も甚だしい勘違いだ。法律上の問題も残っている。いささか不当な嫉妬心から相手が訴えられる危険性がある以上、誰の名前も僕の口からは出ないよ」

 その後も粘り強く闘ったが、ついに二度と勝つことはできなかった。

 この手の感情や関係について相談できる相手というのは、今も昔も一人しかいなかった。そのときすでに、私から連絡を取る手段はほとんどないに等しかったが、ある日ホームズの事件についていくと彼と二人で話す機会を得た。

「ああ……たしかに先生は、口を滑らしたことはありませんね。その類の過去に関しては」

「一回は勝ち取ったんだぞ。だが、それきりだった」

「負けてくれたんでしょう。いくらドクターが賭け事に長けているとはいえ、正攻法でホームズ先生に勝てるとは思えません」

「嫌みな喋り方になってしまったな、坊や。警察関係者は皆そうなのか」

 ウィギンズは苦笑した。「育てた人間に似てくるんですよ。それに今思えば、先生が答えをいいよどんだ時点で気づくべきでした。先ほどの話からすると、『彼』とは、つまり」

 私にはわけがわからなかった。「待て。どういう意味だ」

 そこで仕事に戻ったウィギンズ君――ホプキンズ警部という名前にはまだ慣れなかった――をこっそり見ると、感嘆の声で探偵の自尊心をくすぐり、うまい具合に捜査を進展させている。

 そうなると私のほうも胸中ますます穏やかとはいかなくなり……待てよ。

 日記など読み返し前後関係を整理した上で、私は自分の勘違いにようやく気づいた。普通の関係ではさすがに知り得ないような情報を、確信をもってそうだといった理由にこれで説明がつく。

 しかし渦中の人は捜査中の事故が原因で、しばらく田舎での療養を強いられている。したがって、私の苛立ちの眼差しを受け止めたのは、結局グレグスン警部ひとりとなった。

 捜査の途中参加など舐めた真似をするからである。独り寝に同情などしない。


 探偵の流転的人生。


End.
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