探偵の哀切的晩方


 飛び起きたのは深夜だった。

「――静かにしてくれ!」

 愛用の楽器で同じ小節部分ばかりを、何度も何度も何度も練習するので――私の忍耐力も日々限界に近づいていた。

「ホームズ」聞こうとしないのか聞こえないのか。「ホームズ……!」

 ハドスン夫人の悲しげな声。苛立ちをぶちまける彼の早口。仲裁に入りたいが眠すぎて扉までいけそうにない。

 私は取り落とした懐中時計を拾うついでにベッドからも落ちた。鈍く重い音。大丈夫かと笑う声。ハドスン夫人が慌てたように部屋の扉をノックなしに開けた。

「まあまあまあ、ドクター! いいんですのよ、寝てらして。昨日は急患で午前様だったのでしょう?」

 扉のすき間からホームズの顔がちらりと見えた。立てかけた背中越しにこちらを見て鼻で笑う。

 うらめしい。私はつまった息を吐こうと咳払いして失敗した。


 肺が。息が。咳が。


 部屋を飛び出したハドスン夫人と入れ替わりに、ホームズが部屋へ入る。肩に触れた手を握った。骨ばった力強い指が背中を撫でた。

「ゆっくりだ。静かに」

 私は咳き込みすぎて涙目になった。「ホ、ー」

 ハドスン夫人がポットと水を持ってきたが飲めない。二人して両脇から私を抱え込みベッドへ戻した。シャツが開けられ、呼吸が楽になる。私の様子が落ち着いたのを見るや、二人とも部屋からそっと出ていった。

 今度は形成逆転だ。話の内容はおぼろげにしか聞こえないが、声の質は明らかに入れ替わっていた。

 先生も近隣の方も……! このまま続ける気ならわたくしだって!

 ああ。うん。……はい。……すみません。

 私はほくそ笑んだ。そして床に置いていかれた楽器と弦を見つめた。「――ホームズ」

 かすれ声は届かなかったようだ。私は眠気に逆らえなかった。目を開けたときにはホームズが居た。いつからなのかわからない。彼は言った。

「一時間十一分説教されたよ。時計はここだ。床に落ちてたのを、手癖の悪さでつい持って出てしまった。週末の君の仕事っぷりときたら、二十年生きるところを二年で死んでしまう馬車馬も真っ青の有り様だったもんだから、子守唄にちょうどいいかと初めは思ったのだ。それが途中で――」

 彼はいつもの調子で饒舌に話しかけたが、私が唇に人差し指を当てたのを見て、組んでいた脚をおろし小さく言った。「悪かった」

 珍しいこともあるものだ。本当に反省しているように見えた。

 そのまま動こうとしない。ガウンの裾を直して、椅子の背にかけていた毛布を被る。隣に寝るかと場所をつくったが、首を振った。蝋燭の火が揺れる。

「そこに」

 床に置き去りの楽器を指差せば、軽くうなった。「さすがにもうやらないよ。二人まとめて追い出されるぞ」

 首を振った。「踏んだら壊れる。僕の宝物より、次はそっちを守るんだ」

 返事がない。長すぎる沈黙に口を開きかけ、ちらりと顔を見て黙った。また沈黙。そのまま眠ってしまった。次に目覚めると日は昇りきっていた。

 楽器を抱えて毛布にくるまっている。やれやれ。

 小机に置かれた懐中時計が無事か確かめかけて、伸ばした手で彼の手を握った。脈も正常。熱もない。大丈夫そうだな。

「ワトスン」宝物のほうが口をきいた。「今夜の仕事はキャンセルだ。楽器を鳴らすより楽しい夜になると保証するよ」



 探偵の哀切的晩方。


End.
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