探偵の科学的昼方


 名前を呼んで部屋に入った。

 薄暗がりで何やら実験していることはわかっていたのだが、興味もないので手元のガス灯に火をつける。

「――! ワトスン、待て」

 すでに遅い。マッチを擦る音に気づかなかったのは、集中するためか爆発した場合に備えてかつけていた耳当てのせいだろう。

 部屋が明るくなると、大いにため息を吐き出して耳当てを取った。乱れた髪を撫で付けもしない。部屋着のままで、怠惰な生活に慣れすぎているのが問題だ。

「なんてことをしてくれたんだ。今のが世紀の大発見に繋がったかもしれないというのに」

「かもしれないね」

「一日が終われば暗くなるのは当然だ。文明に埋もれて暗闇を恐れるようになってはいけないよ」

「問題はこちらの部屋が君の私室ではなく、僕と兼用していることだ」

 私はまだ何か言い足そうとしているホームズを通り過ぎ、自分の書き物机の前に座った。

「また執筆かい。そこのヴァイオリンを取ってくれ」

「なぜ邪魔しようとするんだ?」

「なぜ明かりをつけたんだ?」 ホームズは自分で言って鼻で笑った。 「この培養皿に入っているのは、君のペン先より繊細で壊れやすい生きた細胞だった。こっちの皿からあっちの皿へ移すときだけが重要で、光に非常に弱いのだ。それを君の落ち着きのない手が」

「落ち着きね」

 ペンを机に投げる。ホームズの座る椅子までにある、様々な書類だか本だかゴミだかを足で避けながら彼の背中に手を置いた。

「近頃忙しくて相手をしてくれないじゃないか。体をさ迷わせているときだけは僕だって静かだ」

「そっちのときは口が動いている。君の誘惑対策に服を二重に着ているから無駄だよ。ワトスン」

「それはどうかな」

 シャーレとスポイトを手にした手袋つきの指が持ち上がるのを見計らい、肩を揉んだ。

「ありがたいね、奥さん」

「ホームズ、奥さんは君だ。実験に集中したほうがいいんじゃないか。シチューが煮えてしまう」

 妻を炊事場に立たせるほど甲斐性なしに見えるか、と文句を言った。なるほど、確かに彼程度のささやかな財力であっても、いざ本気で妻を娶るとなれば、メイドより格段上の家政婦を雇うこともできるだろう。

 彼の首を探り、揉みほぐした。長時間座っていたせいか懲り固まり、口には出さないが鼻から息を吐いたのは気持ちいいからだろうと見当をつける。

「ハロッズに行ってたな」

「なぜ当てられるのかわかっているよ。外壁の修理をしてた。僕の服に炭や木切れついてる」

「それもあるが、どうやら嗅覚が麻痺してるらしい。下の階を歩くだけで男女問わずフランスから直輸入した香水を振り掛けられる。高級な物を試させるのは構わないけども、恋人に浮気を誤解させるようではあそこの経営方針も終わりだ」

「前を見たまえ。机に流れ出してる」

 首筋を撫で下ろせば微かに背中を震わせた。覗き込んだ私をちらりと見上げる。

「それとも女性と会ってきたのかい」

「聞いているのか。液体が零れているぞ」

「ワトスン――答えるんだ」

「得意の推理力が鈍るほど嫉妬深いのかな」

 前から腕を回して作業着のボタンを外す。薄いこめかみに口づければ眉間に皺を寄せた。

「恋愛をしない理由はそれだよ。想う女性ができたら探偵業から足を洗うときだ」

「心乱すのが男の僕相手では不満なのかい」

 スポイトを置いて、手袋を取った。シャツの間から侵入した私の手首を捕らえて引き寄せる。塞いだ唇から漏れた吐息を飲み込み、木製の椅子が私の体重まで支えきれずに軋んだ音を上げた。

「……っ、ん」

 ガタン、と崩れる机の紙類を横目と左腕で押さえ、立ち上がろうとする。私は唇を離さず彼の襟首を片手で握ったまま、その手を払った。

 ほとんど全てが雪崩のように床に散らばり、あとで直すのは私の役目だなと心の中でため息をつく。ホームズはきつく瞼を閉じ、抱き寄せる私の腕に爪を立てて頬をぺちぺちと叩いた。

「……ア、ワトスン、待て」

 正面から向かい合って、彼の胸を指先でついた。力の抜けた足は開かれ、女性のしとやかなたたずまいとは似ても似つかない。

 立ち上がらせれば身長差で不利だ。彼を屈服させるために体重を増やす努力もしてみたが、事件のときに走る速度が一定せずついていけないこともしばしばだった。

 公園を散歩し始めれば体はそれに慣れ、今度は彼を全く持ち上げられない。脇に手を入れずるずると引きずり、最終的に細長い体が背中から私を押し潰したこともある。

 意識を失くした人間というのは、想像以上に重いものだ。ホームズは薬が彼に与える穏やかな刺激には強いが、直接他人の手が触れる未知の動きには弱かった。

「ああ」

「ベッドに入る時間だよ」

 睨みつける顔が見たくて頬を押さえ、反対の手で椅子のひじ掛けを持ちながら、頤を掴み上を向けさせた。

 駆け引きは私の勝ちだ。

「ワトスン。今夜は一晩中実験を続けるつもりなんだ」

「僕の研究を手伝うという選択肢を増やせ」

 どんな、と言うから高い鼻の脇にキスをした。彼を高慢な場所から引きずり落とし、開けっ広げな素顔を晒させる。これ以上の至福があるだろうか。

「人間の生きた肉体がどう反応するか」

「予想できることはたくさんある。君の快楽のツボを知っているし、僕を屈服させようとしても無駄だ」

 だが彼はしないのだ。注射の誘惑を完全には断ち切れないように、唯一自分を受け身にさせるものに抵抗できない。なすがままに打ち付けられて、溺れることを望んでいる。

 無駄な足掻きをしても遅い。手の平で摩った胸が上下して、諦めたように苦笑した。

「研究の結果は何の役に立てるんだ」

「次の事件で美しいご婦人が来たらまた考えよう」

 低く呻いた腕を引っ張って立たせ、おとなしくついて来るのに任せた。彼は大きな子供だ。



 探偵の科学的昼方。



End.
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