このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

マスターちゃんとホクサイくん

【プラチナ】



ホクサイが死んでしまった。
私は朝のぎゅうぎゅうな電車の中で、さめざめと泣いた。


ホクサイは、トンキニーズという短毛の猫種で、青い瞳が印象的な雄猫だった。
ゆるやかなくさび形の頭に、少し離れた耳、つりあがったアーモンド型の目。筋肉質でしなやかな胴に、細長いしっぽとバランスの良い長い脚。プラチナソリッドの毛色はうつくしく、しっとりとした触り心地が大好きだった。
猫は抱っこを嫌がる子が多いのだけれど、おだやかな性格のホクサイは、抱き上げても大人しかった。好奇心旺盛なブルーの目が、私を見上げてぱちぱちと瞬く。私の鼻に顔を近づけて、クンクンと匂いを嗅ぐ仕草は、キスをしているみたいだった。冷たい鼻先がくすぐったくて、私は笑った。
鈴のついた、青色の猫じゃらしがお気に入りで、常に走り回っている。おまえは青がすきなのね、と私が言うと、にゃあと短く鳴いて応えた。
昨日の夜、大学から帰ると、ホクサイは冷たくなっていた。死因は老衰だった。私のベッドで毛布にくるまり、構ってようと寂しそうな表情のまま、固まっていた。


次の日も、私は学校へ行かなければならなかった。
日常を追いかけるように、いつもの電車に飛び乗った。けれども、すぐに悲しみに追いつかれる。
ホクサイが死んでしまった。
甘えん坊で、いつまでも子猫のように懐っこく、とっても無邪気で、愛らしい。
思い出すほどに涙は止まらず、そのうち鼻を啜り始める。
吊り革に掴まり立ったまま泣いている私に、周囲の乗客は無関心を装っていた。
「座ったら」
ふと、目の前の座席の男の子が立ち上がり、私に席を譲ってくれる。
私はお礼もそこそこに、空いた座席に腰掛ける。
青年は吊り革に掴まり、私の前に立ちふさがる。悲しみに暮れた私の心を、世間の目から庇ってくれているみたいだった。じっと私を見下ろす瞳は、きれいな深い青色だ。彼はとってもハンサムで、泣き顔を見られるのは恥ずかしかった。その視線に射竦められて、いつのまにか泣きやんでいた。
私が降りた駅で、青年も一緒に降りる。一緒に改札を出て、通勤ラッシュの雑踏の中を並んで歩く。


青年は学校までついてきて、私と一緒に授業を受けた。
彼は、白のワイシャツに紺のセーターを着ている。髪はプラチナシルバーで、毛先はダークブルーに染めている。落ち着いた服装とは正反対な髪色は、私の黒髪と並べるとひどく目立った。地味で大人しいたちの私が、派手な見た目の男の子を連れているものだから、周囲の学生にじろじろと見られる。
授業はドイツ語の講義だった。講義中、私は文法問題の答えを求められた。ドイツ語は苦手だから、あてられるのは嫌だった。黙り込み、わかりませんと言おうとすると、青年がかわりに問いに答えて、正解した。彼のドイツ語の発音はみごとで、完璧だった。ドイツ人なの、と半分冗談で尋ねると、そうだよ、なんて返された。
隣の席に座る彼の、なんてことのない横顔を見つめる。
耳にたくさんついているピアスに、私はドキドキしてしまった。
授業を終えると、私たちはさっさと学校の外へ出る。午後の講義は、さぼってしまうことにした。
おなかがすいたね、と彼が言うので、喫茶店に連れて行った。ここのかき氷が絶品で、彼にごちそうしたかった。
「ブルーハワイがいい」青いから、と彼が理由をつけ足した。
「あなたは青がすきなのね」
そう言うと、青年は嬉しそうにニッコリと微笑む。
ブルーハワイのかき氷は、どこかなつかしい味がした。語学の講義で疲れた脳に、氷のつめたさとあまさが心地よい。
「海に行きたいなぁ」頬杖をついた青年が、ぽつりとつぶやく。
「こんな真冬に?」冗談じゃない、と私は応える。
「別にキミは来なくていいよ」べっと真っ青になった舌を見せて、いじわるな表情で青年は言う。
私は彼の挑発にむっとして、行く、と短く返事をした。
「一人で海なんて、かわいそうだもの。つきあってあげる」
仏頂面でかき氷をつつく私を、あはは、と彼は笑い飛ばした。


私たちは海へと向かう電車に揺られて、終点で下車した。降りた途端に冷たい海風にさらされて、私は早々と後悔する。一月の真冬に海を見に行く酔狂は、私たちしかいなかった。
「人間の血液はね、四億年前の海水の組成と、おんなじなんだよ」
海辺を歩いていると、真っ白い息を吐きながら、青年は言った。どうして赤くなったんだろう、不思議だねぇ、という感想が後に続く。
「ねえ。魚はすきかい?」急に瞳を輝かせて、青年は全然べつの話題を口にした。
イルカはすきよ、と私は答える。
イルカは哺乳類だよ、と青年に訂正された。
いいところがある、と連れていかれたのは、海辺に建っている水族館だった。
「一度来てみたかったんだ」青年は水族館がはじめてのようだった。
私たちは、小さな水槽も大きな水槽も、ひとつひとつ丹念に見た。彼は目につくすべての魚類を、おいしそうだね、これはまずそうだね、と分類している。館内を歩き回り、カワウソの展示コーナーに来た時には、私の心はすっかり憂鬱になってしまった。元気いっぱいにケージの中を走り回るカワウソの姿に、愛猫の面影が重なった。
ホクサイも、きっと水族館が好きだった。もちろん連れて行ったことはないけれど、テレビで泳ぐ魚の映像が流れると、ぴたっと身動きをとめてじいっと見つめていたものだ。
海から水を引いているプールは、塩の匂いがした。ちょうどイルカショーがはじまるところで、会場は満席だった。私たちは、後ろの方で立って見た。さすがの彼も、イルカをおいしそうと言うことはなかった。イルカの気の抜けるような鳴き声が響くと、青年はおかしそうにくすくす笑った。私は、すっかり落ち込んでいた。
ホクサイが死んでしまった。
家に帰っても、あのきれいなブルーの瞳は私を見上げてこないのだ。
知らない男の子と、喫茶店でかき氷を食べて、海を見に来て、水族館でイルカショーを見て。
一体私は、何をしているんだろう。
「終わっちゃったね」
ショーの終演を見届けて、名残惜しそうに彼が呟く。
私は下を向いたまま、頷いた。
「楽しかったね」
「そうね」
「やっぱり、水族館はいいね」青いから、と青年がつけ足した。
「あなたは青がすきなのね」
ホクサイも、青がすきだった。
「キミのことも、だいすきだったよ」
彼の顔が近づいて、こつりと鼻先がぶつかった。
冷たい鼻先がくすぐったい。
甘えん坊で、いつまでも子猫のように懐っこく、とっても無邪気で、愛らしい。
好奇心旺盛なブルーの目が、私を見つめて瞬いた。
「もういかなくちゃ」
ちゅっと鼻にキスを落として、青年は穏やかに微笑んだ。
「さよなら、ご主人マスター
閉館の近づきを告げる音楽。
出口へと向かう群衆の中に、彼は颯爽と駆けていく。
宵闇の深い青色に、その姿は溶け込んだ。
波の音が、かなしみをやさしく包み込む。


ホクサイはいってしまった。
私はもう泣かなかった。





17/31ページ