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マスターちゃんとホクサイくん

【青い絵画】



ぼくらは道具であるために、
大切なものを一つ、また一つ、
覚えていっては、首を絞める。


さあっと両目が滲みる感覚。
途端に目からぽろぽろと零れるものがあった。
頰に伝うその液体を指先で拭う。汗にしては妙に温かい。血かな、と思って見下ろすが、濡れた指先は透明だ。赤くないから血ではない。
濡れた指先を鼻先に近づけて臭いを確かめる。無臭だ。
舌先でちろっと舐めると、塩っぱい。
やはりこれは汗だろうか。
急に瞳から汗が出てくるなんて驚きだ。
それとも、何かの異常だろうか。
「マスタぁ」怖くなって、彼女を呼んだ。みっともない声だと自分でも思った。
他の絵に見入っていたマスターは、呼ばれて渋々こちらを向く。すると彼女は目を見開いて、つかつかとこちらへ歩み寄ってきた。
「どうしたの」動揺しているように、彼女が早口でそう尋ねる。
「知らない」目から溢れる雫を止められないまま、首を傾げた。「この絵を見ていたら、急に目から溢れてきたんだ。こんなの初めてだよ」
彼女は、その絵に視線を向けた。
真四角のカンヴァスの全面が、真っ青に塗り潰されている。下にいくほど青みが濃くなるグラデーション。深海のような暗さ。
その絵画には色しかない。
青しかない。
「抽象画ね」カンヴァスの青を見つめて、彼女が言った。「答え合わせをしましょうか」
「答え合わせ?」
「これは涙」目頭に滲んだそれを、親指で拭ってもらった。「貴方は泣いているの」
「泣いている?」彼女の言葉に驚いた。「ボクちゃん、どこも痛くないし、悲しくもないよ」
赤ん坊は泣きながら産まれる。子供は泣いて感情を伝える。大人になっても、痛ければ泣くし、悲しくても泣く。
子供でなければ痛くも悲しくもないのに、涙が溢れる。
「これって何かの病気かな」とうとう壊れてしまったのか、と不安になった。
「ねえマスター。キミなら治せる?」
「それはね、人間に与えられたバグなの」
「バグ?」
「誰にも治すことはできないわ」
一通り話し終えてから、マスターは急に黙り込む。
「人間のバグって、何?」
尋ねてみたが、返事はない。
「ごめんなさい」青いカンヴァスに視線を泳がせた彼女の、弱々しい声。
「私、余計なことを教えたみたい」


貴銃士は成人の身体を持ちながら、その器を充たす感情は幼児のように乏しい。
それで良いと彼女は思う。
彼らは人を殺める道具であるから、細分化した感情など足枷になるに決まっている。
ホクサイは、カンヴァスの青の美しさに、無意識の中で涙した。とても高度な感情だ。
人として喜ばしい成長。
銃としては無用の長物。
殺戮の兵器に感受性を植えつけるなど、自分の首を絞めることと同様だ。
だからどうか、忘れてほしい。


青い絵画と、涙したこと、人間のバグの話。その全てを「忘れて」と、彼女は言った。
「それは、命令?」
「ええ」
強い瞳と目が合った。
忘れなさい、と訴えている。
「Ja」
短く返事をして、微笑み返した。
難解な命令だが、忘れたふりをする事は簡単だ。
既にこの瞳が渇いている事が、何よりの証拠だった。





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