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マスターちゃんとホクサイくん

【研究員α】



俺はもともと、帝国大学で教鞭をとっている助教授だった。
忘年会で知り合った帝大の名誉教授が、政治家のお偉い様と接点があり、その名誉教授が、帝府主催の新年の祝賀会に俺を招待してくれた。世界各国の優秀な研究者に会えると聞いていたし、人生に何度とない機会だし、せっかくだから……という軽い気持ちで参加した。
その祝賀会で、ある研究者に声をかけられる。


「君の顔、どこかで見たことがあるね。
……ああ、そうだ! 遺伝子組み換えの研究で論文を出していたよね?
いや〜面白い見解だったよ! ボクちゃんの研究についても、君の意見を聞かせてくれないかな?」


ガスマスクに、青いツナギの迷彩服。腰から下には重たそうな装備品を身につけている。手首や指にはシルバーのアクセサリー、耳を貫通する派手なピアス。そうして、右手には銃を持っている。
研究、と言うからには彼も研究者なのだろうが、ガスマスクと銃を装備しているため軍人だと推測できる。喋り方から察するにおそらく変人だ。いかん、情報過多で脳が処理しきれない。
それでも、自身の研究成果について語る彼は、その浮ついた見た目に反して恐ろしく論理的で、学者然としていた。ギャップに圧倒されながら、俺は生物学的な論点から、彼の研究に率直な意見を述べた。
ウンウンと何度も頷きながら、俺の意見に関心を示した彼は、ふと思い立ったように呟いた。
「君、ボクちゃんの元で働かない?」
その時は冗談だと思って、軽く笑って受け流した。
年明けに大学へ出勤すると、既に俺のデスクは無かった。私物は勝手にダンボールに詰められ、軍の車に積まれていた。
「世界帝府からの通達でね。本当に急だが、今日から君には、世界帝府の研究施設で働いてもらう」
上司は、あからさまに迷惑そうな顔をして、そう吐き捨てた。
「帝府のお偉い研究者様が、君を引き抜きたいんだと」
同僚に挨拶をする暇もなく、ガスマスクの兵士たちが大学構内に侵入し、門前の車まで無理やり連行される。
「やあやあ! ボクちゃんだよ〜」
開いた車の窓からは、祝賀会で議論を交わした研究者が、にこにこと嬉しそうに微笑んでいる。彼の素顔を、この時初めて見た。
「私を引き抜いた研究者とは、貴方のことですか」
俺の声は震えていた。何かとんでもないものに見初められてしまった気がした。
「こんな横暴が許されるとでも……?」
「キミに拒否権なんてないから〜!」
そう言って無邪気に笑う彼が、俺には悪魔のように思えた。


俺は現在、世界帝府の研究施設に雇われている。
助教授をする傍らに書いた論文が、『青の研究者』に見初められてしまったばかりに。


***



助教授を辞め、帝府の研究施設に拉致されてからひと月が経過していた。
人間の順応性は怖いもので、俺はすっかりこの職場を気に入っている。助教授として大学に居た頃は、講義の準備に学生のレポート採点、テストの作成、学会の手配、はたまた無用な会議への出席など、とにかく研究以外の雑務が多すぎた。それに比べて、ここはシンプルで大変居心地が良い。
軍の本拠地であり、世界帝の住まいでもある城の敷地内に、この研究施設は建っている。ここには全世界から有能な科学者が集い、最先端の機器を用いて、日々各々の研究に勤しんでいる。さすが世界の中枢とだけあって、研究費用には事欠かない。湯水のように湧いて出てくる。
研究を憚るような雑務も、費用の心配も、ここでは全くの杞憂だ。
研究者の楽園、と言っても過言ではない。
俺はすっかりこの世界に飼い慣らされて、自身の研究に没頭することができた。



研究室にノックの音が響く。
ドアを開けると、意外な人物が立っていた。
軍の特別幹部たちから『マスター』と呼ばれている女性である。
漆黒の長髪に、何処と無く東洋風な顔立ち。やはり東洋の言語が由来なのか、シキという変わった名前をしていた。
軍の催事や会議などで彼女の姿を見たことはあるが、こうして間近で対面するのは初めてだ。軍服姿で城内を歩く女性などそうは居ないから、大層目立った。加えて、彼女の容貌は珍しいものであったから、研究室でもちょっとした有名人なのだ。
シキ嬢は、黒地に赤のラインが入った軍服をかっきりと着こなしている。首元に黒いネクタイを締め、赤い略式帽を被っている。軍服の胸元は、幾つもの勲章で飾られていた。このどれかに、『マスター』に与えられる特別な勲章があるはずなのだが、どれなのかは分からない。
「よろしいかしら」
シキ嬢はつんと顎を持ち上げてそう言った。冷めた視線で見上げられる。若輩者のくせに随分と偉そうな態度だった。しかし、これだけ勲章をぶら下げているのだし、実際偉いのかもしれない。
そんな彼女が、城内でも辺鄙な場所にある、この研究室へわざわざ出向いたのだ。用事は一つに決まっている。
「ドクターは不在です」
おそらく彼女が尋ねようとした事を、先回りして答えてみた。
医師ドクター?」
シキ嬢は怪訝な顔になる。何か変なことでも言っただろうか。
「ドクター・ホクサイをお探しなのでは?」念のため確認してみる。
「ああ。学位のこと?」ふうんと彼女は声を上げる。「あの子、博士ドクターなんて呼ばれているのね」
どうやら、ドクターの言葉が意味するものを勘違いしていたらしい。
以前働いていた大学では、博士課程を修了した者を博士ドクター、修士課程を修了した者を修士マスターと呼んでいた。同じマスターでも、彼女がそう呼ばれる所以は、まさか修士課程を修了したからではあるまい。
軍には、『貴銃士』と呼ばれる奇妙な軍人がいる。彼らは特別幹部と呼ばれ、その特別幹部を取り纏めているのが、目の前の女性である。彼女を意味する『マスター』とは、貴銃士たちの上に立つ存在、主人の意味で使われていると推測できた。もっとも、マスターの役割がどのようなものなのかは、軍の機密事項なので詳細は不明だ。
「ドクターに御用なら、申し伝えますが」
「彼は何処に?」
「射撃場です」
「ではそちらへ向かいます」
彼女はついと体を左へ向け、横目で俺を見ながら言った。左腕の赤い腕章には、白抜きの十字マーク。この女性はメディックでもあるのだな、と驚いた。
「もし入れ違いになってしまったら、私へ連絡を寄越すよう、あの子へ伝えて」
翻る長い黒髪。こちらの返事も待たずに、カツカツとヒールの音を立てて遠ざかる。レッドソールと呼ばれる靴裏の赤色が、闘牛の赤い布のようにちらちらと覗いていた。俺はただぼうっと、その後ろ姿を見送った。
シキ嬢がドクターを『あの子』と呼称していることに、呆れてしまった。
あれほど優秀な科学者を『あの子』呼ばわりとは……。
まるで主人というより母親だな、と思う。
ドクターや、あのマスターを含め、世界帝軍には謎が多い。




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