現代銃と娘ちゃん
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【今宵はこのわたくしめが】
学校の門前でひらりと手を振っているファルは、何とも愉快そうに微笑んでいる。
「………」
何故この男が此処にいるのか。
そしてあの清々しいまでの笑顔は何だ。
突っ込みどころは色々あるものの、その全てを呑み込んで彼女は深い溜息を吐く。
(やられた……)
完全に意表を突かれて、彼に愉悦を与えてしまった。
片足に重心を置き、黒の高級セダンに寄り掛かっているファルは、線の細いスーツに身を包み、高級そうな腕時計を光らせている。どこぞの御曹司と見紛う出で立ちであるが、彼も正真正銘、世界帝軍の貴銃士のひとり。貴銃士とは、つまり軍人と同義である。
「今日の迎えは、アインスだと聞いていたのだけど」
彼女がそう口を開くと、彼は「ああ」と思い出したように喋り始めた。
「彼は急な任務で不在です。代わりにこのワタクシめが、お嬢様のお迎えに馳せ参じた次第でございます」
やけに丁寧な説明口調が実に腹ただしい。こうも下手に人の怒りを煽る男も珍しいものである。
「さあ、お嬢様。助手席へどうぞ」
そう言って、彼はセダンの扉を開ける。白い清潔なシーツに包まれた助手席が、彼女に座られるのを待っている。
「優雅なドライブと行きましょう」
人の良さそうな彼の笑顔は、不吉の兆候でしかない。
彼女は、自身の父親よりも、父が従える貴銃士たちによって育てられたと言っても過言ではない。
彼女の父は、「貴銃士」と呼ばれる特殊な存在の「マスター」として世界帝軍に君臨している。幼き頃から多忙な父親と過ごす時間は十分になく、母親は既に他界し、兄弟もいない。おまけに、「世界帝軍の貴銃士のマスター」という特異な存在の娘は、謂わば政府の要人である。世間一般からすっかり逸脱した彼女は、当然友人も出来ない。
そんな孤独な娘を不憫に思った父親が彼女に充てがったのは、現代銃の化身、貴銃士たちであった。
マスターの娘とあらば、反乱分子による誘拐や、何かしらのトラブルに巻き込まれる危険は免れない。その護衛のために貴銃士を数人、彼女の側に配置させる。いわゆるボディガード、と表向きはこのような理由であったが、その実情は大部分が子守りを目的としていた、というオチだった。
高校生になった今でも、彼女は鮮明に覚えている。運動会、音楽会、授業参観、保護者会、そして三者面談………ありとあらゆる学校行事に駆り出された貴銃士たちの滑稽を。まあ、そのほとんどは、公の場に相応しい外面を保てるファルとアインスが淡々とこなしてはくれたのだが。
「最近、アインスが目を見て話してくれないの」助手席に座り、窓に流れる風景を見つめながら、ぽつりと彼女は呟く。昔の事を思い出していたら、ふとそう気がついたのだ。「私、何かしたかしら?」
「まさか」運転中のファルは前を見たまま、ふんと小馬鹿にするように小さく鼻で笑った。
「お嬢様は何も。あの人の心の問題かと」
「心の問題?」
彼女は窓の風景から視線を逸らし、隣の運転手を見やる。「どういうこと」
「アインスの中で、貴女の時は少女時代で止まっています」
「…意味が分からないのだけど」
「愛くるしい『少女』が、男を誘惑する『女』へと変貌を遂げる過程に、怖気づいていると言いますか…。サナギからチョウへの変身は恐怖ということですかね?」
「もっと端的な、分かりやすい例えはない?」
「そうですね。言うなれば、思春期の娘に戸惑う父親状態です」
「ああ…、そういうこと」
ファルにしては実に分かりやすい、親切な物言いに彼女は妙に納得する。そうか、そういうことだったのか。嫌われているわけでは無かったのだ。
「この前、諸用でマスターの寝室を訪ねたら、先客にアインスが居りまして」右にカーブを切りながら、ファルは淡々と同僚の暴露話を切り出した。「お二人とも、貴女の幼少期の思い出話に花を咲かせていましたよ。そして、『もっと写真を沢山撮っておくべきだった』と米神を抑えて嘆いておりました」
「それは…、お父様が?」
「アインスもです」ファルの爽やかな微笑み。
「そう…」彼女は片手を頰に当て、はあと小さく溜息を漏らした。「なんだか申し訳ない事をしている気分だわ」
「私も驚いていますよ。人間は思ったより劣化が早い…」
「成長と言ってくださらない?」
キッと眼つきを鋭くして、彼女は彼の言葉をすかさず訂正する。
「これは失敬」
「劣化」という単語に過敏に反応するあたり、自身の女性性を意識していることは明確だ、と彼女は自分自身を分析する。アインスへの接し方を変えていかねばならないだろう。情に脆い彼にとって、子育てとは難儀なものである。
(それに比べて、この男は……)
ジットリと恨めしそうな瞳で、彼女は運転席の男を見つめる。そして、幼き日々にトラウマのように刻まれた、この男に関する悪夢を反芻した。
***
必要以上に大きなベッドで、一人で眠るのは心細い。そんな時、そっと部屋の扉を開けて、御守りの貴銃士が現れる。
今日は誰がやってくるのか。それはその時にならなければ分からない。
誰が来ても楽しいから、彼女はちっとも不満じゃない。アインスは絵本の読み聞かせが上手で、優しい声音で眠りに誘う。ベルガーは読み聞かせは下手だけど、お喋りが賑やかで好き。ホクサイが見せてくれる画集は、綺麗な青色で惹きつけられる。ミカエルは絵本は読めないけれど、素敵な子守歌を歌ってくれる。きゅるちゅとナインティは必ず二人組でやって来て、これは父には内緒なのだが、三人ベッドの上に並んで、こっそりお菓子を食べるのだ。
ゴーストは……、なぜだか分からないが、彼が来ると彼女は直ぐに寝入ってしまって、何をして貰ったのか、結局思い出せない。
彼女は、自分が寂しい時にきっと現れる、この青年たちが大好きだった。
ちなみに、エフと89は彼女の就寝時の御守りは担当外である。
しかし…、しかしだ。
そんな貴銃士たちの中で、一際異彩を放つ存在がただ一人。
「お嬢様。このファルが、絵本を読み聞かせて差し上げましょう」
ガチャリとドアノブを回し、暗い子供部屋に顔を覗かせる今宵の貴銃士は、にっこりと優しげな微笑みを浮かべている。
「ふぁっ!……ふぁる」
舌ったらずな、小さな悲鳴のような呼び声を上げ、彼女は毛布の中でガタガタと体を震わせた。
そう、この男がやってくる夜は、彼女にとって一番長い夜となるのだ。
ファルの絵本の読み聞かせは、さながら地獄絵図である。
はじめは優しい声音で、穏やかで夢のある世界を語り始める。だが彼は、優しいファンタジーな童話を、いつのまにか恐ろしい闇へと急展開させる能力を持っており、まさに一寸先は闇。その手法、ストーリー性の高さは、大人になった今では感心せざるを得ないが、彼はその才能の使いどころを間違えている。
「ひぎぃあああぁぁあぁぁあアーー!!!」
この世のものとは思えない、悍ましい断末魔が響き渡る。
「くせ者があああーーー!!」
普段はごく薄い存在感を最大限に発揮して、自身の本体を手にしたゴーストがバーンと子供部屋のドアを突き破る。
「嬢ちゃんに手を出すド阿呆は、ワイが全員呪ったるわァ!!」
そう殺気立つゴーストの目に飛び込んできたのは、絵本を手にして「おや?」と呑気に首を傾げるファルの姿。そして彼の膝の上では、少女がごろりと仰向けに寝転がっている。
「どうしたんです、ゴースト。外の見張りはよろしいので?」
「ファルはん…、何やものごっつい悲鳴が聞こえたんやけど」
「悲鳴? 何のことです」
そうとぼける彼の目と口は、半分笑っている。膝の上で仰向けに倒れた彼女は、微動だにしない。不自然なまでの静寂。
「……嬢ちゃん、白目向いて気絶しとんで」
ゴーストは、少女を指差して訝しげな表情になる。「あんさんのせいとちゃうん?」
「気絶? まさか」ファルはぱたりと手元の絵本を閉じて、膝に抱えた少女を愛おしげに見下ろした。
「寝落ちですよ」
「お嬢様、眠れないのでしたら、このファルが寝物語をお話し致しましょう」
ある程度の分別がつき、絵本を卒業して児童文学を読むようになると、今度は彼の創作話にひたすら怯えさせられた。
ファルの口から紡がれる寝物語は、学校の怪談などという生易しいものでは到底無い。残酷で、無慈悲で、凄惨、虚無、とにかく救いようの無い闇深いものである。ある意味「人間とは?」「幸せとは?」という哲学的なものにも思えたが、果たして彼にそのような崇高な思考があったかどうかは定かではない。どちらにせよ、明らかに寝る前にする話ではなかった。
「よくもまあ、そんなえげつない話をぽんぽんと思いつくものだわ」
13歳の冬、彼女は長年思っていたことを初めてファルの前で口にした。別に隠していたわけではない。何となく、話す機会が無かっただけだ。
すると彼ははてと無防備な顔をして、呟いた。
「全て実話なんですが」
この時ほど、身の毛のよだつ思いをしたことはない。
偶然にもその夜は最後の御守りで、その日以来、彼女は一人で眠りにつかなければならなかった。しかし、最後の夜の衝撃が強烈過ぎて、しばらく悪夢に魘されることとなったのは、言うまでもない。
***
「サナギからチョウへの変身は、恐怖だと思う?」
通学途中の車内で、運転中のアインスに彼女はそう問いかけてみる。
「………」
『何の話だ』と横目でひと睨みされてから、『知るか』と大きく肩を竦ませる。もしくは、『全くこのお嬢様は…』と呆れているのかもしれない。言葉を交わさなくとも彼の考えが手に取るように分かるのは、付き合いが長いせいだろうか。いやしかし、同じく付き合いが長いはずのファルの考えていることは、理解できないししたくもない。
「恐怖だな」
前を見据えたまま、突然彼が口を開いた。
「……え?」
「サナギからチョウへの変身は、恐怖だ。脅威とも言える。サナギにとっても、チョウにとっても」
「………」
私が女へと変わってゆくのは、恐怖であり脅威となる。
彼等だけでなく、私にとっても。
「ファルに似てきたな」
アインスは、助手席でキョトンとした顔をする彼女を横目で捉えて、口元を緩める。
「は」
思ってもみない発言に、身体中から空気を抜くような、奇妙な声を上げていた。
「突然屁理屈を捏ねるところが、あいつにそっくりだ」
「待って、納得できない。いえ…、そうじゃなくて」
彼女は卒倒するかと思った。
この私が、あんな男に似てきている?
そんな馬鹿な。
「そろそろ着くぞ」
心の準備ができないまま、黒のセダンは学校の門前で停止する。
「今日の帰りも俺が迎えに行くから、そのつもりでな」
「アインス、せめて訂正を」
「訂正? 何をだ」
この男は、時たま超が付くほど鈍い。わざとなのか天然なのか(おそらく後者なのだろうが)、こうやってとぼけてみせるのだ。
「………何でもないわ」
アインスに他意はない。悪気もなく、嫌味でもない。ただ純粋に思ったことを言われただけ。
しかし、この私があの慇懃無礼な超弩級サディストと似ているだなんて、絶対に認めてはなるまい。
「行ってきます……」
彼女は重い足取りで、無理やり体を校内へと引きずって行く。
帰りの車中で、彼にどのように弁明したら良いだろうかと画策しながら。
学校の門前でひらりと手を振っているファルは、何とも愉快そうに微笑んでいる。
「………」
何故この男が此処にいるのか。
そしてあの清々しいまでの笑顔は何だ。
突っ込みどころは色々あるものの、その全てを呑み込んで彼女は深い溜息を吐く。
(やられた……)
完全に意表を突かれて、彼に愉悦を与えてしまった。
片足に重心を置き、黒の高級セダンに寄り掛かっているファルは、線の細いスーツに身を包み、高級そうな腕時計を光らせている。どこぞの御曹司と見紛う出で立ちであるが、彼も正真正銘、世界帝軍の貴銃士のひとり。貴銃士とは、つまり軍人と同義である。
「今日の迎えは、アインスだと聞いていたのだけど」
彼女がそう口を開くと、彼は「ああ」と思い出したように喋り始めた。
「彼は急な任務で不在です。代わりにこのワタクシめが、お嬢様のお迎えに馳せ参じた次第でございます」
やけに丁寧な説明口調が実に腹ただしい。こうも下手に人の怒りを煽る男も珍しいものである。
「さあ、お嬢様。助手席へどうぞ」
そう言って、彼はセダンの扉を開ける。白い清潔なシーツに包まれた助手席が、彼女に座られるのを待っている。
「優雅なドライブと行きましょう」
人の良さそうな彼の笑顔は、不吉の兆候でしかない。
彼女は、自身の父親よりも、父が従える貴銃士たちによって育てられたと言っても過言ではない。
彼女の父は、「貴銃士」と呼ばれる特殊な存在の「マスター」として世界帝軍に君臨している。幼き頃から多忙な父親と過ごす時間は十分になく、母親は既に他界し、兄弟もいない。おまけに、「世界帝軍の貴銃士のマスター」という特異な存在の娘は、謂わば政府の要人である。世間一般からすっかり逸脱した彼女は、当然友人も出来ない。
そんな孤独な娘を不憫に思った父親が彼女に充てがったのは、現代銃の化身、貴銃士たちであった。
マスターの娘とあらば、反乱分子による誘拐や、何かしらのトラブルに巻き込まれる危険は免れない。その護衛のために貴銃士を数人、彼女の側に配置させる。いわゆるボディガード、と表向きはこのような理由であったが、その実情は大部分が子守りを目的としていた、というオチだった。
高校生になった今でも、彼女は鮮明に覚えている。運動会、音楽会、授業参観、保護者会、そして三者面談………ありとあらゆる学校行事に駆り出された貴銃士たちの滑稽を。まあ、そのほとんどは、公の場に相応しい外面を保てるファルとアインスが淡々とこなしてはくれたのだが。
「最近、アインスが目を見て話してくれないの」助手席に座り、窓に流れる風景を見つめながら、ぽつりと彼女は呟く。昔の事を思い出していたら、ふとそう気がついたのだ。「私、何かしたかしら?」
「まさか」運転中のファルは前を見たまま、ふんと小馬鹿にするように小さく鼻で笑った。
「お嬢様は何も。あの人の心の問題かと」
「心の問題?」
彼女は窓の風景から視線を逸らし、隣の運転手を見やる。「どういうこと」
「アインスの中で、貴女の時は少女時代で止まっています」
「…意味が分からないのだけど」
「愛くるしい『少女』が、男を誘惑する『女』へと変貌を遂げる過程に、怖気づいていると言いますか…。サナギからチョウへの変身は恐怖ということですかね?」
「もっと端的な、分かりやすい例えはない?」
「そうですね。言うなれば、思春期の娘に戸惑う父親状態です」
「ああ…、そういうこと」
ファルにしては実に分かりやすい、親切な物言いに彼女は妙に納得する。そうか、そういうことだったのか。嫌われているわけでは無かったのだ。
「この前、諸用でマスターの寝室を訪ねたら、先客にアインスが居りまして」右にカーブを切りながら、ファルは淡々と同僚の暴露話を切り出した。「お二人とも、貴女の幼少期の思い出話に花を咲かせていましたよ。そして、『もっと写真を沢山撮っておくべきだった』と米神を抑えて嘆いておりました」
「それは…、お父様が?」
「アインスもです」ファルの爽やかな微笑み。
「そう…」彼女は片手を頰に当て、はあと小さく溜息を漏らした。「なんだか申し訳ない事をしている気分だわ」
「私も驚いていますよ。人間は思ったより劣化が早い…」
「成長と言ってくださらない?」
キッと眼つきを鋭くして、彼女は彼の言葉をすかさず訂正する。
「これは失敬」
「劣化」という単語に過敏に反応するあたり、自身の女性性を意識していることは明確だ、と彼女は自分自身を分析する。アインスへの接し方を変えていかねばならないだろう。情に脆い彼にとって、子育てとは難儀なものである。
(それに比べて、この男は……)
ジットリと恨めしそうな瞳で、彼女は運転席の男を見つめる。そして、幼き日々にトラウマのように刻まれた、この男に関する悪夢を反芻した。
***
必要以上に大きなベッドで、一人で眠るのは心細い。そんな時、そっと部屋の扉を開けて、御守りの貴銃士が現れる。
今日は誰がやってくるのか。それはその時にならなければ分からない。
誰が来ても楽しいから、彼女はちっとも不満じゃない。アインスは絵本の読み聞かせが上手で、優しい声音で眠りに誘う。ベルガーは読み聞かせは下手だけど、お喋りが賑やかで好き。ホクサイが見せてくれる画集は、綺麗な青色で惹きつけられる。ミカエルは絵本は読めないけれど、素敵な子守歌を歌ってくれる。きゅるちゅとナインティは必ず二人組でやって来て、これは父には内緒なのだが、三人ベッドの上に並んで、こっそりお菓子を食べるのだ。
ゴーストは……、なぜだか分からないが、彼が来ると彼女は直ぐに寝入ってしまって、何をして貰ったのか、結局思い出せない。
彼女は、自分が寂しい時にきっと現れる、この青年たちが大好きだった。
ちなみに、エフと89は彼女の就寝時の御守りは担当外である。
しかし…、しかしだ。
そんな貴銃士たちの中で、一際異彩を放つ存在がただ一人。
「お嬢様。このファルが、絵本を読み聞かせて差し上げましょう」
ガチャリとドアノブを回し、暗い子供部屋に顔を覗かせる今宵の貴銃士は、にっこりと優しげな微笑みを浮かべている。
「ふぁっ!……ふぁる」
舌ったらずな、小さな悲鳴のような呼び声を上げ、彼女は毛布の中でガタガタと体を震わせた。
そう、この男がやってくる夜は、彼女にとって一番長い夜となるのだ。
ファルの絵本の読み聞かせは、さながら地獄絵図である。
はじめは優しい声音で、穏やかで夢のある世界を語り始める。だが彼は、優しいファンタジーな童話を、いつのまにか恐ろしい闇へと急展開させる能力を持っており、まさに一寸先は闇。その手法、ストーリー性の高さは、大人になった今では感心せざるを得ないが、彼はその才能の使いどころを間違えている。
「ひぎぃあああぁぁあぁぁあアーー!!!」
この世のものとは思えない、悍ましい断末魔が響き渡る。
「くせ者があああーーー!!」
普段はごく薄い存在感を最大限に発揮して、自身の本体を手にしたゴーストがバーンと子供部屋のドアを突き破る。
「嬢ちゃんに手を出すド阿呆は、ワイが全員呪ったるわァ!!」
そう殺気立つゴーストの目に飛び込んできたのは、絵本を手にして「おや?」と呑気に首を傾げるファルの姿。そして彼の膝の上では、少女がごろりと仰向けに寝転がっている。
「どうしたんです、ゴースト。外の見張りはよろしいので?」
「ファルはん…、何やものごっつい悲鳴が聞こえたんやけど」
「悲鳴? 何のことです」
そうとぼける彼の目と口は、半分笑っている。膝の上で仰向けに倒れた彼女は、微動だにしない。不自然なまでの静寂。
「……嬢ちゃん、白目向いて気絶しとんで」
ゴーストは、少女を指差して訝しげな表情になる。「あんさんのせいとちゃうん?」
「気絶? まさか」ファルはぱたりと手元の絵本を閉じて、膝に抱えた少女を愛おしげに見下ろした。
「寝落ちですよ」
「お嬢様、眠れないのでしたら、このファルが寝物語をお話し致しましょう」
ある程度の分別がつき、絵本を卒業して児童文学を読むようになると、今度は彼の創作話にひたすら怯えさせられた。
ファルの口から紡がれる寝物語は、学校の怪談などという生易しいものでは到底無い。残酷で、無慈悲で、凄惨、虚無、とにかく救いようの無い闇深いものである。ある意味「人間とは?」「幸せとは?」という哲学的なものにも思えたが、果たして彼にそのような崇高な思考があったかどうかは定かではない。どちらにせよ、明らかに寝る前にする話ではなかった。
「よくもまあ、そんなえげつない話をぽんぽんと思いつくものだわ」
13歳の冬、彼女は長年思っていたことを初めてファルの前で口にした。別に隠していたわけではない。何となく、話す機会が無かっただけだ。
すると彼ははてと無防備な顔をして、呟いた。
「全て実話なんですが」
この時ほど、身の毛のよだつ思いをしたことはない。
偶然にもその夜は最後の御守りで、その日以来、彼女は一人で眠りにつかなければならなかった。しかし、最後の夜の衝撃が強烈過ぎて、しばらく悪夢に魘されることとなったのは、言うまでもない。
***
「サナギからチョウへの変身は、恐怖だと思う?」
通学途中の車内で、運転中のアインスに彼女はそう問いかけてみる。
「………」
『何の話だ』と横目でひと睨みされてから、『知るか』と大きく肩を竦ませる。もしくは、『全くこのお嬢様は…』と呆れているのかもしれない。言葉を交わさなくとも彼の考えが手に取るように分かるのは、付き合いが長いせいだろうか。いやしかし、同じく付き合いが長いはずのファルの考えていることは、理解できないししたくもない。
「恐怖だな」
前を見据えたまま、突然彼が口を開いた。
「……え?」
「サナギからチョウへの変身は、恐怖だ。脅威とも言える。サナギにとっても、チョウにとっても」
「………」
私が女へと変わってゆくのは、恐怖であり脅威となる。
彼等だけでなく、私にとっても。
「ファルに似てきたな」
アインスは、助手席でキョトンとした顔をする彼女を横目で捉えて、口元を緩める。
「は」
思ってもみない発言に、身体中から空気を抜くような、奇妙な声を上げていた。
「突然屁理屈を捏ねるところが、あいつにそっくりだ」
「待って、納得できない。いえ…、そうじゃなくて」
彼女は卒倒するかと思った。
この私が、あんな男に似てきている?
そんな馬鹿な。
「そろそろ着くぞ」
心の準備ができないまま、黒のセダンは学校の門前で停止する。
「今日の帰りも俺が迎えに行くから、そのつもりでな」
「アインス、せめて訂正を」
「訂正? 何をだ」
この男は、時たま超が付くほど鈍い。わざとなのか天然なのか(おそらく後者なのだろうが)、こうやってとぼけてみせるのだ。
「………何でもないわ」
アインスに他意はない。悪気もなく、嫌味でもない。ただ純粋に思ったことを言われただけ。
しかし、この私があの慇懃無礼な超弩級サディストと似ているだなんて、絶対に認めてはなるまい。
「行ってきます……」
彼女は重い足取りで、無理やり体を校内へと引きずって行く。
帰りの車中で、彼にどのように弁明したら良いだろうかと画策しながら。
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