現代銃と娘ちゃん
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【視えない僕】
「君の世界に視界は要らない」
マスターは言った。
僕は今でも、その声音を覚えている。
「音の世界で、その強さを磨きたまえ」
***
幸いなことに、銃であった頃の僕は、この世界が視えていた。
銃には目が無いはずなのに、「視える」だなんて不思議なものだ。
「銃にも目があるんじゃなくて?」僕の話を聞いていたマスターが、戯けた様子でそう応える。
「銃口がそうかもしれないわ」
「銃口は、口じゃないのかい?」
「それもそうね」
僕の指摘に、彼女はくすりと小さく笑った。
擽ったそうな笑い声は、耳に心地よく、あたたかな気分になる。
彼女の笑った顔は、好きだ。
僕の世界では、人の声が顔なのだ。
眼で視る人の笑顔は、柔らかい表情なのだと聞いている。僕は、それを上手く思い描けない。銃であった頃は、人の笑った顔などほとんど視なかった。記憶にあるのは、どれもこれも固い表情。驚愕に見開かれた瞳、膨らむ鼻孔、震える唇、引き攣った頰…………死の淵に立った絶望の顔。それが柔らかくなるとは、一体どんな顔なのだろう。
「貴銃士として、人の身体を……本物の目を手に入れた途端、視えなくなるだなんて。可笑しな話ね」
そうして彼女は、事実は小説よりも奇なり、と呟いた。
フィクションだけでなく史実を含め、物語と呼ばれる類いを、彼女は愛している。
歴史、芸術、文学。これらは数学の介在しない学問分野と考えられる。そういったものを好む傾向を「文系」と言うのだと、ホクサイが教えてくれた。マスターは文系なのだそうだ。そう言う彼自身は「理系」だという。そして、「ミカエルクンは半々かもしれないね〜」と笑っていた。
彼の主張によると、音楽の音の配列に、数学的性質が宿っているのだという。
まあ、でも、だからと言って僕が半分理系なのだと言われても、ぴんと来ない。
文系で物語好きのマスターは、よく僕の部屋へ本を読みに来た。
僕の部屋は、壁一面が本棚になっていて、びっしりと本が並んでいる。これは、彼女の父親である先代の世界帝が集めた蔵書だ。僕の部屋は、グランドピアノ以外にはほとんど何もない。単純に部屋の面積が余っているから、保管場所に困った彼の蔵書は、ここに置かせていた。
先代が亡くなってからも、本たちはずっと、僕の部屋にある。
それを彼女は読みに来る。
僕は、読書の邪魔はしない。ただ気紛れにピアノを演奏するだけだ。彼女はソファに一人腰かけ、僕の演奏を背景に、物語の世界に没入する。
良い旋律が浮かばなければ、彼女の隣に並んで座り、頁を捲る微かな紙の音を聴きながら、ぼうっとしている。何も考えずに過ごす時間も、創作には必要だ。
「何を読んでいるのかな」
頁を捲る速度が極端に遅くなった時、僕は彼女にそう尋ねる。こういう時の彼女は、集中力が散漫になって考え事をしているか、物語の筋に感激して余韻を味わっているか、そのどちらかだ。
腕を伸ばし、彼女の手元にある本に手を触れる。
つるつるとした光沢のある紙。鮮明な画像を印刷する際に用いられる素材だ。
「画集?」
「ええ」頷く気配。
ふむ、と僕は息をつく。今日の彼女は、絵画を堪能しに来たのだ。
「ロセッティ? ウォーターハウス?」彼女が好きだと言っていた画家の名を、順に羅列する。「バーン・ジョーンズ?」
彼らがどんな絵を描くのか、僕は知っている。彼女が教えてくれたからだ。
「フレデリック・レイトンよ」彼女は言った。聞いたことのない名前だった。
「きみは、この頁に随分見入っている」紙の光沢を、指先で撫でつける。きっとここに、美しい情景が描かれている。「きみを魅了しているその絵は、何が描かれているの?」
「微睡んでいる女性よ」
そうして彼女は、その絵の内容について説明をしてくれた。
真四角のカンヴァスに描かれているのは、夏の陽に照らされたバルコニー。背景には地中海、陽の光で水面がきらきらと輝いている。前景のバルコニーには、ソファにもたれて微睡む一人の女性。彼女は左向きに身を捩り、目にも鮮やかなオレンジ色のドラペリーを身に纏っている……。
「オレンジ色は覚えている?」
情景描写の途中で、マスターがそう口を挟む。もちろん、と僕は頷いた。
「夕陽の色だろう?」
そうね、という彼女の相槌からは、どこか含みのある仄暗さを感じられた。
僕は、何か間違った事を言ったのだろうか。
続けるわ、と彼女は説明を再開した。
正方形のカンヴァスに身を収めるよう、うねるように身を捩らせて微睡む女性。彼女が着ている鮮やかなオレンジのドラペリーは非常に薄く、裸体を浮かび上がらせる。余った布は彼女の身体の線から零れ落ち、また彼女の豊かな長髪も、水が流れ落ちるかのようにドラペリーと一体化している……。
「だめだわ」マスターは急に溜め息をつき、説明を中断してしまう。
「ごめんなさい、ミカエル。私には、この絵の美しさを貴方に伝える事はできない」
「どうして?」
僕は、心底不思議だった。今までだって、様々な画家の作品を彼女に言葉で教えてもらっていた。
「僕は、想像しているよ。夏の陽に輝く地中海、身をくねらせて微睡む女性、彼女が着ている薄いドラペリーの鮮やかさ……」
「ええ、そう。貴方は、よく想像出来ているわ。でも違うの。絵は、物語のように想像するものではない。目で見て美しさを味わう……、目を悦ばせるための芸術なの。いくら説明したところで、それは言葉で終わってしまう。……悲しい事ね」
彼女の言いたい事は、僕にも分かる。たとえるならば、音楽を言葉で説明するようなものだろう。音楽は、聴覚で体感する美しさだ。それが全て。同様に絵画にも、視覚でしか体感できない美しさがあるのだろう。
「きみに、そこまで言わせるなんて。よほどこの絵の美しさに感銘を受けたんだね」
僕にとってはそれだけで、彼女を魅了したレイトン卿の絵の美しさが見えてくる。
彼女が絵を説明するときの声音、口調、息遣い……それらから感じとれる熱。彼女の恍惚とした声の響きが絵の素晴らしさを物語り、その美しさを、僕の心に焼き付ける。これは、彼女が言うような「目で見て美しさを味わう」感覚とは、全く異なる体験だろう。だけど、僕はこれで満足だ。
「貴方の目が、視えたらいいのに」
ふと、隣の彼女が呟いた。
その一言で、僕の全身が冷え切ってゆくのを自覚した。
視えない僕を否定することは、僕の存在、ひいては僕の能力を否定することと同等だ。
「不愉快だ」
彼女が、息を呑むのが分かった。
僕は容赦なく、きっぱりと言い切る。
「この部屋から出て行っておくれ」
視えないから、何だと言うのだ。
音の世界でこそ、僕の強さは活かされる。
この目を潰したのはマスターだ。
彼女ではない。
僕を貴銃士として呼び覚ました、今は亡き世界帝であった男。彼が初代のマスター。彼女はその一人娘で、二代目のマスターにあたる。
貴銃士として人の姿で顕在したばかりの僕は、目が視えていた。
偉大なる先代は、僕の視覚を封じたのだ。
彼は、音に対する僕の感性を見抜いていた。
聴覚だけで世界を認識できる僕にとって、視覚からの情報は雑音のように煩わしい。
愚鈍な視覚は、鋭敏な聴覚の発達を阻害する。
「君の世界に視界は要らない」
彼はそう言って、僕がこの目を二度と開けられないように、瞼を焼いた。
最後に目にしたものは、神の業火のように神聖な炎。そう、あれこそ、レイトン卿が描いた鮮やかなドラペリーの色かもしれない。
「音の世界で、その強さを磨きたまえ」
世界は優しい暗闇に包まれる。
彼が僕に与えてくれたのは、視覚のノイズを排除した穏やかな闇。
僕はその合理的な世界で、より強い力を手に入れた。
ドアが閉まる音がした。
彼女が開いたまま置き去りにした、画集の頁に手を触れる。
たとえ視覚を封じられても、僕にはそこに載っている絵の情景が見えている。この絵を説明する彼女の声音、口調、息遣い、そして言葉を知っている。見るには十分過ぎるほどの情報だ。
僕の目が視えたらいいのに、と彼女は言う。
たとえこの目がすっかり視えるようになったとしても、僕は、視えない僕であり続けるのだろう。
この闇は、あの方がくれた崇高な贈り物なのだから。
「君の世界に視界は要らない」
マスターは言った。
僕は今でも、その声音を覚えている。
「音の世界で、その強さを磨きたまえ」
***
幸いなことに、銃であった頃の僕は、この世界が視えていた。
銃には目が無いはずなのに、「視える」だなんて不思議なものだ。
「銃にも目があるんじゃなくて?」僕の話を聞いていたマスターが、戯けた様子でそう応える。
「銃口がそうかもしれないわ」
「銃口は、口じゃないのかい?」
「それもそうね」
僕の指摘に、彼女はくすりと小さく笑った。
擽ったそうな笑い声は、耳に心地よく、あたたかな気分になる。
彼女の笑った顔は、好きだ。
僕の世界では、人の声が顔なのだ。
眼で視る人の笑顔は、柔らかい表情なのだと聞いている。僕は、それを上手く思い描けない。銃であった頃は、人の笑った顔などほとんど視なかった。記憶にあるのは、どれもこれも固い表情。驚愕に見開かれた瞳、膨らむ鼻孔、震える唇、引き攣った頰…………死の淵に立った絶望の顔。それが柔らかくなるとは、一体どんな顔なのだろう。
「貴銃士として、人の身体を……本物の目を手に入れた途端、視えなくなるだなんて。可笑しな話ね」
そうして彼女は、事実は小説よりも奇なり、と呟いた。
フィクションだけでなく史実を含め、物語と呼ばれる類いを、彼女は愛している。
歴史、芸術、文学。これらは数学の介在しない学問分野と考えられる。そういったものを好む傾向を「文系」と言うのだと、ホクサイが教えてくれた。マスターは文系なのだそうだ。そう言う彼自身は「理系」だという。そして、「ミカエルクンは半々かもしれないね〜」と笑っていた。
彼の主張によると、音楽の音の配列に、数学的性質が宿っているのだという。
まあ、でも、だからと言って僕が半分理系なのだと言われても、ぴんと来ない。
文系で物語好きのマスターは、よく僕の部屋へ本を読みに来た。
僕の部屋は、壁一面が本棚になっていて、びっしりと本が並んでいる。これは、彼女の父親である先代の世界帝が集めた蔵書だ。僕の部屋は、グランドピアノ以外にはほとんど何もない。単純に部屋の面積が余っているから、保管場所に困った彼の蔵書は、ここに置かせていた。
先代が亡くなってからも、本たちはずっと、僕の部屋にある。
それを彼女は読みに来る。
僕は、読書の邪魔はしない。ただ気紛れにピアノを演奏するだけだ。彼女はソファに一人腰かけ、僕の演奏を背景に、物語の世界に没入する。
良い旋律が浮かばなければ、彼女の隣に並んで座り、頁を捲る微かな紙の音を聴きながら、ぼうっとしている。何も考えずに過ごす時間も、創作には必要だ。
「何を読んでいるのかな」
頁を捲る速度が極端に遅くなった時、僕は彼女にそう尋ねる。こういう時の彼女は、集中力が散漫になって考え事をしているか、物語の筋に感激して余韻を味わっているか、そのどちらかだ。
腕を伸ばし、彼女の手元にある本に手を触れる。
つるつるとした光沢のある紙。鮮明な画像を印刷する際に用いられる素材だ。
「画集?」
「ええ」頷く気配。
ふむ、と僕は息をつく。今日の彼女は、絵画を堪能しに来たのだ。
「ロセッティ? ウォーターハウス?」彼女が好きだと言っていた画家の名を、順に羅列する。「バーン・ジョーンズ?」
彼らがどんな絵を描くのか、僕は知っている。彼女が教えてくれたからだ。
「フレデリック・レイトンよ」彼女は言った。聞いたことのない名前だった。
「きみは、この頁に随分見入っている」紙の光沢を、指先で撫でつける。きっとここに、美しい情景が描かれている。「きみを魅了しているその絵は、何が描かれているの?」
「微睡んでいる女性よ」
そうして彼女は、その絵の内容について説明をしてくれた。
真四角のカンヴァスに描かれているのは、夏の陽に照らされたバルコニー。背景には地中海、陽の光で水面がきらきらと輝いている。前景のバルコニーには、ソファにもたれて微睡む一人の女性。彼女は左向きに身を捩り、目にも鮮やかなオレンジ色のドラペリーを身に纏っている……。
「オレンジ色は覚えている?」
情景描写の途中で、マスターがそう口を挟む。もちろん、と僕は頷いた。
「夕陽の色だろう?」
そうね、という彼女の相槌からは、どこか含みのある仄暗さを感じられた。
僕は、何か間違った事を言ったのだろうか。
続けるわ、と彼女は説明を再開した。
正方形のカンヴァスに身を収めるよう、うねるように身を捩らせて微睡む女性。彼女が着ている鮮やかなオレンジのドラペリーは非常に薄く、裸体を浮かび上がらせる。余った布は彼女の身体の線から零れ落ち、また彼女の豊かな長髪も、水が流れ落ちるかのようにドラペリーと一体化している……。
「だめだわ」マスターは急に溜め息をつき、説明を中断してしまう。
「ごめんなさい、ミカエル。私には、この絵の美しさを貴方に伝える事はできない」
「どうして?」
僕は、心底不思議だった。今までだって、様々な画家の作品を彼女に言葉で教えてもらっていた。
「僕は、想像しているよ。夏の陽に輝く地中海、身をくねらせて微睡む女性、彼女が着ている薄いドラペリーの鮮やかさ……」
「ええ、そう。貴方は、よく想像出来ているわ。でも違うの。絵は、物語のように想像するものではない。目で見て美しさを味わう……、目を悦ばせるための芸術なの。いくら説明したところで、それは言葉で終わってしまう。……悲しい事ね」
彼女の言いたい事は、僕にも分かる。たとえるならば、音楽を言葉で説明するようなものだろう。音楽は、聴覚で体感する美しさだ。それが全て。同様に絵画にも、視覚でしか体感できない美しさがあるのだろう。
「きみに、そこまで言わせるなんて。よほどこの絵の美しさに感銘を受けたんだね」
僕にとってはそれだけで、彼女を魅了したレイトン卿の絵の美しさが見えてくる。
彼女が絵を説明するときの声音、口調、息遣い……それらから感じとれる熱。彼女の恍惚とした声の響きが絵の素晴らしさを物語り、その美しさを、僕の心に焼き付ける。これは、彼女が言うような「目で見て美しさを味わう」感覚とは、全く異なる体験だろう。だけど、僕はこれで満足だ。
「貴方の目が、視えたらいいのに」
ふと、隣の彼女が呟いた。
その一言で、僕の全身が冷え切ってゆくのを自覚した。
視えない僕を否定することは、僕の存在、ひいては僕の能力を否定することと同等だ。
「不愉快だ」
彼女が、息を呑むのが分かった。
僕は容赦なく、きっぱりと言い切る。
「この部屋から出て行っておくれ」
視えないから、何だと言うのだ。
音の世界でこそ、僕の強さは活かされる。
この目を潰したのはマスターだ。
彼女ではない。
僕を貴銃士として呼び覚ました、今は亡き世界帝であった男。彼が初代のマスター。彼女はその一人娘で、二代目のマスターにあたる。
貴銃士として人の姿で顕在したばかりの僕は、目が視えていた。
偉大なる先代は、僕の視覚を封じたのだ。
彼は、音に対する僕の感性を見抜いていた。
聴覚だけで世界を認識できる僕にとって、視覚からの情報は雑音のように煩わしい。
愚鈍な視覚は、鋭敏な聴覚の発達を阻害する。
「君の世界に視界は要らない」
彼はそう言って、僕がこの目を二度と開けられないように、瞼を焼いた。
最後に目にしたものは、神の業火のように神聖な炎。そう、あれこそ、レイトン卿が描いた鮮やかなドラペリーの色かもしれない。
「音の世界で、その強さを磨きたまえ」
世界は優しい暗闇に包まれる。
彼が僕に与えてくれたのは、視覚のノイズを排除した穏やかな闇。
僕はその合理的な世界で、より強い力を手に入れた。
ドアが閉まる音がした。
彼女が開いたまま置き去りにした、画集の頁に手を触れる。
たとえ視覚を封じられても、僕にはそこに載っている絵の情景が見えている。この絵を説明する彼女の声音、口調、息遣い、そして言葉を知っている。見るには十分過ぎるほどの情報だ。
僕の目が視えたらいいのに、と彼女は言う。
たとえこの目がすっかり視えるようになったとしても、僕は、視えない僕であり続けるのだろう。
この闇は、あの方がくれた崇高な贈り物なのだから。
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