現代銃と娘ちゃん
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【笑って】
海岸から沈みそうな船を見るのはおもしろい、という一文を読んだ事がある。哲学書だっただろうか。その本によると、人が苦しんでいるのを見るのが楽しいのではなく、自分がそうした不幸にあっていないと確認することが楽しいのだそうだ。
それは真実かもしれない、と彼女は思う。
「人の不幸は蜜の味」という言葉の真意も、きっとそれだ。
レジスタンスの拠点。廃墟となった建物に、帝軍が築き上げた反逆者たちの死体の山。健全な人間なら、見ていられない程痛ましい光景。男は思わず目を逸らし、女子供は泣き出すだろう。彼女はそのどちらでも無い。
ここ数年の僅かな人生で、死体はすっかり見慣れてしまった。そんな自分を憐れんだり、卑下する必要など全く無い。世界帝がこの地の存続を守っているのは、その冷徹さゆえ。愚かな民衆は恐怖政治で統べるのみ。
レジスタンスの残党共の変わり果てたなり、惜しくも命を落とした兵士、争いに巻き込まれた丸腰の一般市民。それらを眺める時、彼女は自分が生きている事を実感する。心臓の鼓動、無意識に繰り返される呼吸、冷たくなってゆく指先。それらを感じる事は、今ここに自分が存在している証。
薔薇の傷痕の痛みでさえ、生の実感を賜る悦びへと変化する。
自分はいよいよまずいかもしれない、と彼女は小さく溜息を吐いた。
「マスターちゃん」間延びした呼び声。すっかり見慣れた死体の山を踏みつけながら、自身の本体を肩に担いだベルガーが飄々と現れる。
「ガムいる?」
くちゃくちゃと呑気にガムを噛みながら、彼は銀紙に包まれた細長いガムを一つ差し出した。口を閉ざしたまま、要らないと彼女は首を横に振る。死体を前に平気で食べ物を咀嚼できる彼の神経は理解できない。
「マスターちゃん、しんどそうな」片眉を釣り上げて口をへの字に曲げ、ベルガーは言った。無理について来なくたっていいんだぜ、と言葉を続ける。返事を考えていると、せっかちな彼はさらに話を続ける。
「もしかして俺の事信じてねーの? 俺が馬鹿だから、見てないと心配で気が済まないとか?」ひっでぇ、と彼は勝手に肩をすくめる。
彼女は咄嗟に首を横に振った。
「動けるうちに、貴方たちの側に居たいだけ」
ベルガーが話しかけてから、彼女が初めて口を開く。
ガムを噛みながら、言葉も噛み締めるように、彼は暫し黙り込む。今のは忘れないようにしよう、とベルガーは誓った。俺は馬鹿だからきっとすぐ忘れるけど、さっきの台詞は結構嬉しかったから、多分長く覚えていられる、と。
近頃の彼女はめっきり笑わなくなった。疲れているのだろうとベルガーにも分かるほど、その顔に疲弊の色が濃く刻まれている。口数も随分少なくなり、話すのも辛そうだ。立っているだけでも辛いのではないか。
「座ろうぜ」ベルガーは彼女の手を引いて、腰をかけるのに最適な場所を探す。彼女の足取りは重い。あまり歩かせるのは身体に障るか。
敵のアジトを陥落させた帝軍は、情報を持ち帰るため各部屋を隈なく物色している。壁に掛けられた手作成の地図、強襲作戦の資料、夥しい数量の紙の本。このご時世に紙媒体で情報を記録するなど呆れたものだ。時代錯誤。これが奴等の値打ちだ。口を利かずとも、彼女の頭は常に考えている。
ベルガーに手を引かれるままに歩き廻り、ようやく立ち止まった場所は、二階へと続く階段だ。血糊が付いている場所を避け、掌で砂埃を払い、ほれとベルガーは目で示す。ここに座れよ、と。ありがとう、と感謝の気持ちを込めて彼女は頷く。階段に腰を落ち着かせ、溜息を漏らす。少し眩暈がした。
ベルガーは彼女の目の前にしゃがみ込み、その顔色を伺う。ちょっと血の気がねぇかもな、と眉を顰める。やはり歩かせ過ぎただろうか。
ガムの味が無くなったので、ぺっとその場で吐き捨てた。包み紙は捨ててしまうから、いつもテキトーな場所に吐き出している。それを見た彼女が、呆れたように肩をすくめて、ゆっくりと首を横に振った。行儀が悪いわよ、と窘めているようだった。まだそんな元気はあるのだな、と彼は少し安堵した。
彼女の父親の事を考えた。前任のマスターだ。自分たちを呼び覚ました最初の主人。
彼もこんな様子だったかな、と思い出そうとした。しかし、ベルガーの記憶には両極端な前任の姿しか思い当たらない。
冷徹と厳格。雄々しく荒々しい軍神のような彼の姿。
慈悲と寛容。弱々しく酷く穏和、ベッドに伏せる痩せた姿。
どちらも紛れも無く彼の姿。しかし両者は別人に思えるほど印象が異なる。今の彼女は、その中間か。もしかすると、慈悲と寛容に近い方かもしれない。
ベルガーは、白い手袋をはめた彼女の左手を握った。薔薇の傷痕があるその手を。
彼女は不思議そうに首を傾げる。どうしたの、と。
「マスターちゃんがいなくなったら、俺も終わりでいーや」
彼はそう言って微笑む。
彼女は目を見開き、出せるはずもない声を失った。
「俺、頭良くねぇから、マスターちゃんのチカラの事とかよく分かんねーけど。あんた、もう長くないんだよな?」
握りしめた左手が、僅かに震えた。
彼女の唇が開き、言葉を発しようとしている。
ベルガーは待たずに言葉を続けた。
「親父が死んだ時、スゲー悲しかった。俺のせいだって思った」
彼女の手に触れながら、彼女の父親の逞しい掌の感触を反芻する。銃ダコのあった大きくて温かい手。手柄を立てると彼はその手で頭を撫でてくれた。実の息子にするように。
急に彼の言葉を思い出した。
『私が死んだら、おまえが娘を元気づけてやってくれ』
毛布の中から痩せた腕を伸ばし、ピンク色の髪に指を絡める。彼は嗄れた声でそう言って、笑っていた。
「もう、あんなのはイヤだからさ。あんたが死んだら、俺もおしまいでいーや」
いいよな親父、とベルガーは心の中で呟く。
俺はマスターちゃんと沢山馬鹿やって、いっぱい笑わせてきたんだから。
今度は、俺に我儘言わせてくれよ。
「…………」
彼女は、開きかけていた唇を結び、眉を寄せてはきゅっと顎を引いている。
泣かせただろうか、と彼は不安になった。
恐る恐る彼女の顔色を伺う。
「……ふふ」
思いがけず、彼女は笑った。
握った左手に温かな血が通う。
「死ぬだなんて。まだ先よ」
耳を擽るような弾んだ声音に、嬉しくなる。
「……だな!」
恥ずかしい事言っちまった、とベルガーは頬を染めながらにししと笑った。
海岸から沈みそうな船を見るのはおもしろい、という一文を読んだ事がある。哲学書だっただろうか。その本によると、人が苦しんでいるのを見るのが楽しいのではなく、自分がそうした不幸にあっていないと確認することが楽しいのだそうだ。
それは真実かもしれない、と彼女は思う。
「人の不幸は蜜の味」という言葉の真意も、きっとそれだ。
レジスタンスの拠点。廃墟となった建物に、帝軍が築き上げた反逆者たちの死体の山。健全な人間なら、見ていられない程痛ましい光景。男は思わず目を逸らし、女子供は泣き出すだろう。彼女はそのどちらでも無い。
ここ数年の僅かな人生で、死体はすっかり見慣れてしまった。そんな自分を憐れんだり、卑下する必要など全く無い。世界帝がこの地の存続を守っているのは、その冷徹さゆえ。愚かな民衆は恐怖政治で統べるのみ。
レジスタンスの残党共の変わり果てたなり、惜しくも命を落とした兵士、争いに巻き込まれた丸腰の一般市民。それらを眺める時、彼女は自分が生きている事を実感する。心臓の鼓動、無意識に繰り返される呼吸、冷たくなってゆく指先。それらを感じる事は、今ここに自分が存在している証。
薔薇の傷痕の痛みでさえ、生の実感を賜る悦びへと変化する。
自分はいよいよまずいかもしれない、と彼女は小さく溜息を吐いた。
「マスターちゃん」間延びした呼び声。すっかり見慣れた死体の山を踏みつけながら、自身の本体を肩に担いだベルガーが飄々と現れる。
「ガムいる?」
くちゃくちゃと呑気にガムを噛みながら、彼は銀紙に包まれた細長いガムを一つ差し出した。口を閉ざしたまま、要らないと彼女は首を横に振る。死体を前に平気で食べ物を咀嚼できる彼の神経は理解できない。
「マスターちゃん、しんどそうな」片眉を釣り上げて口をへの字に曲げ、ベルガーは言った。無理について来なくたっていいんだぜ、と言葉を続ける。返事を考えていると、せっかちな彼はさらに話を続ける。
「もしかして俺の事信じてねーの? 俺が馬鹿だから、見てないと心配で気が済まないとか?」ひっでぇ、と彼は勝手に肩をすくめる。
彼女は咄嗟に首を横に振った。
「動けるうちに、貴方たちの側に居たいだけ」
ベルガーが話しかけてから、彼女が初めて口を開く。
ガムを噛みながら、言葉も噛み締めるように、彼は暫し黙り込む。今のは忘れないようにしよう、とベルガーは誓った。俺は馬鹿だからきっとすぐ忘れるけど、さっきの台詞は結構嬉しかったから、多分長く覚えていられる、と。
近頃の彼女はめっきり笑わなくなった。疲れているのだろうとベルガーにも分かるほど、その顔に疲弊の色が濃く刻まれている。口数も随分少なくなり、話すのも辛そうだ。立っているだけでも辛いのではないか。
「座ろうぜ」ベルガーは彼女の手を引いて、腰をかけるのに最適な場所を探す。彼女の足取りは重い。あまり歩かせるのは身体に障るか。
敵のアジトを陥落させた帝軍は、情報を持ち帰るため各部屋を隈なく物色している。壁に掛けられた手作成の地図、強襲作戦の資料、夥しい数量の紙の本。このご時世に紙媒体で情報を記録するなど呆れたものだ。時代錯誤。これが奴等の値打ちだ。口を利かずとも、彼女の頭は常に考えている。
ベルガーに手を引かれるままに歩き廻り、ようやく立ち止まった場所は、二階へと続く階段だ。血糊が付いている場所を避け、掌で砂埃を払い、ほれとベルガーは目で示す。ここに座れよ、と。ありがとう、と感謝の気持ちを込めて彼女は頷く。階段に腰を落ち着かせ、溜息を漏らす。少し眩暈がした。
ベルガーは彼女の目の前にしゃがみ込み、その顔色を伺う。ちょっと血の気がねぇかもな、と眉を顰める。やはり歩かせ過ぎただろうか。
ガムの味が無くなったので、ぺっとその場で吐き捨てた。包み紙は捨ててしまうから、いつもテキトーな場所に吐き出している。それを見た彼女が、呆れたように肩をすくめて、ゆっくりと首を横に振った。行儀が悪いわよ、と窘めているようだった。まだそんな元気はあるのだな、と彼は少し安堵した。
彼女の父親の事を考えた。前任のマスターだ。自分たちを呼び覚ました最初の主人。
彼もこんな様子だったかな、と思い出そうとした。しかし、ベルガーの記憶には両極端な前任の姿しか思い当たらない。
冷徹と厳格。雄々しく荒々しい軍神のような彼の姿。
慈悲と寛容。弱々しく酷く穏和、ベッドに伏せる痩せた姿。
どちらも紛れも無く彼の姿。しかし両者は別人に思えるほど印象が異なる。今の彼女は、その中間か。もしかすると、慈悲と寛容に近い方かもしれない。
ベルガーは、白い手袋をはめた彼女の左手を握った。薔薇の傷痕があるその手を。
彼女は不思議そうに首を傾げる。どうしたの、と。
「マスターちゃんがいなくなったら、俺も終わりでいーや」
彼はそう言って微笑む。
彼女は目を見開き、出せるはずもない声を失った。
「俺、頭良くねぇから、マスターちゃんのチカラの事とかよく分かんねーけど。あんた、もう長くないんだよな?」
握りしめた左手が、僅かに震えた。
彼女の唇が開き、言葉を発しようとしている。
ベルガーは待たずに言葉を続けた。
「親父が死んだ時、スゲー悲しかった。俺のせいだって思った」
彼女の手に触れながら、彼女の父親の逞しい掌の感触を反芻する。銃ダコのあった大きくて温かい手。手柄を立てると彼はその手で頭を撫でてくれた。実の息子にするように。
急に彼の言葉を思い出した。
『私が死んだら、おまえが娘を元気づけてやってくれ』
毛布の中から痩せた腕を伸ばし、ピンク色の髪に指を絡める。彼は嗄れた声でそう言って、笑っていた。
「もう、あんなのはイヤだからさ。あんたが死んだら、俺もおしまいでいーや」
いいよな親父、とベルガーは心の中で呟く。
俺はマスターちゃんと沢山馬鹿やって、いっぱい笑わせてきたんだから。
今度は、俺に我儘言わせてくれよ。
「…………」
彼女は、開きかけていた唇を結び、眉を寄せてはきゅっと顎を引いている。
泣かせただろうか、と彼は不安になった。
恐る恐る彼女の顔色を伺う。
「……ふふ」
思いがけず、彼女は笑った。
握った左手に温かな血が通う。
「死ぬだなんて。まだ先よ」
耳を擽るような弾んだ声音に、嬉しくなる。
「……だな!」
恥ずかしい事言っちまった、とベルガーは頬を染めながらにししと笑った。