タイトルは用法に誤りあり
【嫌よいやよも好きのうち】
「いつも遊んでもらっているお礼に、美味しいハーブティーをあげたいの」
マスターが聞いたら娘の健気さに涙が出そうになるだろう。ミカエルはそんな温かな気持ちで、「いいよ」と少女の頼みを快諾した。
7歳の彼女は悪戯盛りのじゃじゃ馬姫だが、今日は何とも素直で愛らしい。普段彼女に振り回されている貴銃士たちのために、ハーブティーを振る舞いたいのだと言う。本当はお茶会でも開いてきちんと招待したいのだが、雅を解さない自由奔放な彼らが、茶会などに顔を出すわけもない。なので、ティーポットとティーカップをトレイに乗せ、一人一人を訪ね回ってお茶を振る舞うことに決めたらしい。
「ミカエルはハーブに詳しいって、お父様が言ってたの。だから、貴方に美味しいハーブティーを作って欲しいの」
たまにミカエルがご馳走するハーブティーを、マスターは大変気に入っている。その評判が愛娘にもきちんと伝わっているようだ。光栄な事である。
「いつもマスターにご馳走している特製ブレンドを、今日だけは特別に用意させよう。君の為だからね」
ミカエルは少女の頭を優しく撫で、手近な兵士に茶葉とティーセットを持ってくるよう言いつける。兵士が言われた通りの道具を持ってくると、茶葉の種類とその割合まで細やかに指示し、その場で兵士に調合させる。
「はい。お嬢様」ミカエルは、ソファーに座って茶葉の調合を待っていた彼女の頭に手を置いた。「特製ブレンドのハーブティーが完成したよ」
「ありがとう。ミカエル」
ソファーをぴょんと飛び降りて、少女はミカエルの腰に抱きつく。彼女は、いつも穏やかで優しい雰囲気のミカエルに甘える事が大好きだ。彼の前では良い子でいよう、と常に心掛けている。彼に悪戯を仕掛けるなんて、彼女には考えられない事だ。
「ミカエルにはこれあげる」
「チョコレートかい?」
「そうなの」銀紙で包まれた正方形の小さなチョコレートを三つ、彼女は差し出す。ミカエルは鼻が良いから、見なくてもすぐに分かるのだ。「ハーブティーのお礼よ」
どうもありがとう、と彼はそれを片手で受け取る。彼の掌にチョコレートを乗せた彼女は、「行ってくるね」と声を弾ませた。
「トレイは一人で持てるかい?」
「兵士さんがね、危ないから代わりに持ってくれるって」
「うん。それが良いね」
兵士さんとは、ミカエルに言われて茶葉の調合を行っていた者のことだ。
「転ばないように気をつけるんだよ」
自室のドアを開け放ち、ミカエルは少女と兵士を見送った。
「はぁい」
彼女は甲高い声で返事をして、むふふと含み笑いを浮かべる。
ポットとカップを乗せたトレイを持ちながら、お嬢様はまた悪戯を仕掛ける気だな、とお付きの兵士はウンザリする。
こんな事に巻き込まれて、今日は厄日だ。
***
「アインス疲れてるから、休憩して」
事務処理に追われていたアインスは、兵士を連れて執務室を訪ねて来た少女の言葉に、思わず真顔になる。これは、「可愛いじゃねぇか」とにやけそうになる顔を必死に堪えた結果だ。訪ねて来たのが少女だけならばともかく、兵士がいるのであれば、普段の冷徹な姿勢を通す必要がある。軍の士気に関わるのだから。
「ミカエルにお願いして、お茶を用意してもらったの。これを飲めば元気が出るわ」
兵士がティーポットを持ち上げ、カップに並々とお茶を注ぐ。ソーサーの端を両手で持った彼女は、書類の散乱するアインスの机にそれを置く。
「はい。召し上がれ」天使の微笑み。
だめだ俺、と真顔のままアインスは少女の愛らしさに胸を撃たれる。冷徹なんて投げ打って、犬にでも食わせてやろうか。
「アインス、怒ってる?」さっきからずっと真顔で黙り込む彼を、彼女はしゅんと眉垂れた顔で見上げる。「お仕事の邪魔だった? ごめんなさい」
「いや、そうじゃねぇ。お嬢の言う通り、少し疲れてるみたいだ。頂こう」
何とか平生の自分を保ち、彼はカップを持ち上げる。
「良い香りだな。ハーブティーか?」
「うん」
「味も悪くねぇ。そこの兵士が淹れたとは思えねぇくらい上出来だ」
「良かった!」
少女はテーブルの淵に手を掛けて、コクコクとハーブティーで喉を潤すアインスを見上げては、楽しそうに笑い出した。
「それね、私のおしっこなの」
ぶぼごっと真っ青な顔で液体を吐き出したアインスと目が合い、兵士は「あ」と我に返る。
「逃げましょう!」
少女は兵士にそう声を掛け、全速力で執務室を後にする。その小さな体で、大した脚力だ。そんな呑気な事を考えている場合ではない。
あの貴銃士は狙撃手だ。離れた場所からでも正確に獲物を仕留められる。しかし「生きたい」という生存本能によって、反射的に兵士は少女の後に続く。律儀にトレイを両手で抱えて。
「自分、今日死ぬわ」と兵士は思った。
***
少女の悪戯は容赦なく続いた。
アインスの他に、ベルガー、ホクサイ、ゴーストが止む無く餌食となった。
「俺猫舌だからあっついお茶とか飲めねぇんだけど、娘ちゃんがふーふー冷ましてくれたら飲んでみよっかな〜」
「ハーブティー? へぇ、キレイな液体だね。ボクちゃん的には青いともっと嬉しかったけど。いただくよ〜、ありがとう」
「嬢ちゃん、みんなにハーブティー振る舞ってるとか、どんだけ良い子なん。涙出てくるわ……」
そう口々に感謝と労いの言葉を並べる彼らの喉を、こきゅっとハーブティーが通った瞬間、決まってあの台詞は発せられる。
「それ、私のおしっこなの」
その後彼らがどんな反応を寄越したのかは、想像に難くない。
***
「お茶あげる」
トレイにポットとカップを乗せた少女が、スーツの男を間近で見上げる。
お茶を零したなどと言って重要な作戦の資料を汚してしまったアインスに呼び出され、ファルはつい先程まで執務室に居た。
誤って書類をシュレッダーに投入してしまう事態なども想定し、アインスに渡す重要書類は無限に予備を作ってある。まさかお茶を零されるとは思っていなかったが、今回はその予備が役に立った。備えあれば憂いなしだ。
しかし不思議な事に、茶を零した経緯や、そもそも執務室にティーセットなど無いのに、ソーサーとティーカップで本格的にティータイムを行えたのは何故なのか、彼は詳細を話さずお茶を濁すのだ。お茶だけに。
それが今、執務室を後にして自身の仕事場へ戻ろうと廊下を歩いていると、向かいから歩いてきた少女と遭遇し、「お茶あげる」などと言われる始末。
「……ほう?」
ファルは、アインスお茶零し事件にはこの少女が関わっているとほぼ確信した。
「珍しい。貴女がこの私を労うなんて」
「お礼なの」少女は大きな瞳に彼の姿を映し出し、小さな唇を持ち上げる。「たまにはお茶でも飲んで、ゆっくり休んで欲しいの」
「有難きお言葉」ふふっとファルは優雅に微笑む。「では、貴女の好意に甘える事と致しましょう」
トレイに乗せられたティーカップを、ソーサーごと持ち上げる。注いでから時間が経ってしまったのか、湯気は立たない。すっかり冷めてしまっている。
「ハーブティーですかね」液体の色味と、口に含んだ時に広がる仄かな香りを頼りに推測する。「レモングラス、カモミール、……ジンジャーでしょうか」
「それ、私のおしっこなの」
ハーブティーを味わうファルを見上げて、彼女は悪戯に微笑んだ。
ファルは口を付けようとカップを持ち上げる手を止めて、目の前の少女を見下ろした。
「驚いた?」
きゃっと小さな歓声を上げて彼女は笑う。無邪気な笑顔。
「……………」
殺す相手の首を捻るように手首を動かし、ティーカップをひっくり返す。
パシャリと中のハーブティーが少女の顔を濡らす。
ティーカップとソーサーを床に投げ打ち、パリンとガラスの破片が飛び散る。
少女が声を上げる暇も与えず、ファルはトレイの上のティーポットを持ち上げ、蓋を開け、弧を描くように中身を振り撒く。
バシャリと少女は髪まで濡れる。
「………」
驚いて声も出ない彼女が、目を見開いて彼を見上げる。
端整な男の顔には、いつもの不気味な笑顔が無い。表情が無い。眼鏡の奥の両の瞳だけが、非道く冷たい光を宿している。睨むのとはまた違う。しかしこの瞳と目が合うと、少女の足は動かなくなる。
「火傷はありませんね」
ようやく彼は口を開く。淡々とした響きで、感情を伴う抑揚は無い。
「この私を本気で怒らせたのは、貴女が初めてです」
少女が抱えたトレイとティーポットも床に投げ打ち、「来なさい」と強く手首を掴んで彼女を引っ張る。
彼の尋常ではないその力に、彼女は怖くなって大声で泣きだした。
***
「ふぁああぁぁん。ぅえあぁあああ」
「泣いてばかりでは伝わりません。貴女には立派なお口があるでしょう。早くアインスに謝りなさい」
「ごべ、……なざいいぃ」
「聞こえませんね」
「……ファル。もういい」
えぐえぐと泣き噦る少女を前にして、アインスは彼女を気の毒そうに見つめる。ファルが執務室に戻ってきたと思ったら、大泣きしている彼女を引き摺って来たものだから驚いた。
「お嬢もファルに叱られて懲りただろう。反省しているならそれで良い」
「だそうですよ。お嬢様」ファルは腕を組み、隣でグズグズと泣いている彼女を冷たく見下ろす。
「お許しを頂いた事に感謝なさい」
「アインスぅ……、ありがとぉ」
「ああ」
これでお説教は終わりかと思いきや、「では次です」と彼女の腕を掴んでファルは執務室を後にする。
「ふえぇぇえん。どこ行くのぉ」
「貴女が悪戯を仕掛けた全員に謝りに行きます。あとはどなたです。言いなさい」
「っえぐ……ベルガー……ホクサイ……」
最後に消え入りそうな声でゴーストと呟き、彼女は鼻を啜る。
可哀想で見ていられん、とアインスは眉間に皺を寄せた。
***
「……たかがガキの悪戯だろ」
そんなに怒る事ねぇじゃん、意味分かんねぇ、とベルガーは顔を顰める。彼にして見れば、ここまで少女を怯えさせるファルの方が悪者に思えた。
「別に俺は怒ってねーよ。本当にションベンだったらさすがにキレるけどよ」
「貴方は彼女と同類でしたね」ファルは蔑むようにベルガーをひと睨みし、やれやれと呆れた様子で溜息を漏らした。
「貴方のような素行の悪い貴銃士がいるから、お嬢様が悪影響を受けるのです」
「あ? 俺のせいかよ」
「お嬢様、散々泣いて気は済みましたか。彼は放っておいて、他をあたりましょう」
「何で俺が叱られたみたいになってんの?」
納得のいかないベルガーだが、ファルに引っ張られて背を向けた彼女が振り向き、「ごめんなさい」と呟くと、おうと片手を上げて応えた。
「もうすんなよー、娘ちゃん」
***
「もう、食べ物でイタズラしません……」
泣き腫らした目を擦り、ずびずびと鼻を啜りながら反省の色を見せる彼女に、「ウン」とホクサイは頷いた。
「まだですよ。彼にお許しを貰っていません」
実験室の簡素なパイプ椅子に脚を組んで座り、米神に指を当てたファルはそう冷たく言い放つ。
「お許しを頂くまで謝りなさい」
「ふえぇぇ……、ごめ……ごめんなさい……」
彼女がヒイヒイと再び泣き出し、ホクサイは慌てて口を開いた。
「大丈夫、ボクちゃん怒ってないから。お嬢ちゃんがもうしないならそれでいいよ。だから泣かないで〜、ねっ? 飴食べる〜?」
「ホクサイ」ポケットを弄って彼女に飴を与えようとした彼の親切を、ファルがピシャリと跳ね除けた。「お嬢様を甘やかすのはやめてください。お説教の意味が無いので」
「……ハイ」ホクサイは泣く泣く飴を仕舞う。
「お許しを貰えたのでしたら、もうよろしい」
ファルは組んだ脚を直し、しゃきっと椅子から立ち上がる。
「お手間を取らせて申し訳ございません。貴方は実験に戻っていただいて結構です」
「……ウン」
ホクサイは引き攣った笑みを浮かべる。この人お嬢ちゃんに対してこんなに怒れるんだ。ボクちゃんドン引き。
「さ、次へ参りましょう」
実験室を後にするファルの背中を小走りに追いかけ、彼女はえぐえぐと泣きながら彼について行く。その小さな左手は、彼のスーツの袖をしっかりと掴んで離さなかった。
***
「…まあ、確かにタチの悪い悪戯やったけど」
「もうしません」腫れた目でしばしばと瞬きをして、酷い顔をした少女がゴーストにそう告げる。
「せやなぁ、あれはアカンわぁ。いくら嬢ちゃんでも、さすがのワイも腹立ったわ」
「うぇええぇぇん」
「何で急に泣くん!?」
またファルに厳しく説教をされると思った彼女は、反射的に涙をボロボロと零す。そんな彼女の後ろに佇んでいるファルは、もう怒っていないようだ。それどころか、この状況を愉しんでいるように小さく微笑んでいる。モノホンの鬼畜やわ、とゴーストは身震いした。こんなちっさい女の子を怯え泣かして、何が楽しいねん。
「あ〜〜〜嬢ちゃん、頼むから泣かんとって〜。ワイ、もう怒っとらんで。二度とせぇへん言うなら、それで十分や」
「二度どじまぜん……っ」うっうっと嗚咽を漏らしながら彼女は何とかそう言った。
ゴーストがちらりとファルの様子を伺うと、彼は今にも吹き出しそうな様子で笑いを堪えている。こいつ、良心は痛まんのか。変態め。
「お嬢様、よく出来ました」ファルはにっこりと微笑み、彼女の左手をしっかりと握り締める。「まだどこか行くの?」と彼女の濡れた瞳が怯えたように彼を見上げる。
「お仕置きの最後の仕上げです。今回の事件を、貴女の口からマスターに直接報告なさい」
「うわああああん。鬼いいいい」
「どうぞ何とでも」
言いながら、ファルと少女は手を繋ぎながらマスターの部屋へと歩き出す。その後ろ姿を見ていると、大層仲睦まじい兄妹のように見えなくもない。
ファルがお説教と称した今日の行いは、彼の趣味にひどく偏ったお仕置きだ。彼女もよく逃げ出さず付き合うものだ。
(あの二人、お互いに貶し合ってるけど、ほんまは仲ええんとちゃう?)
心配するのが阿呆らしくなってきたわ、とゴーストはこっそり肩を竦めた。
「私の娘をここまで打ちのめす事ができるのは、おまえくらいだ」
彼女のすっかり泣き腫らした顔を見ると、マスターである彼女の父親は呆れたように溜息をつく。
「滅相もない」
そう謙遜して微笑む男は、この日以来、教育係として少女を躾ける事となった。
「いつも遊んでもらっているお礼に、美味しいハーブティーをあげたいの」
マスターが聞いたら娘の健気さに涙が出そうになるだろう。ミカエルはそんな温かな気持ちで、「いいよ」と少女の頼みを快諾した。
7歳の彼女は悪戯盛りのじゃじゃ馬姫だが、今日は何とも素直で愛らしい。普段彼女に振り回されている貴銃士たちのために、ハーブティーを振る舞いたいのだと言う。本当はお茶会でも開いてきちんと招待したいのだが、雅を解さない自由奔放な彼らが、茶会などに顔を出すわけもない。なので、ティーポットとティーカップをトレイに乗せ、一人一人を訪ね回ってお茶を振る舞うことに決めたらしい。
「ミカエルはハーブに詳しいって、お父様が言ってたの。だから、貴方に美味しいハーブティーを作って欲しいの」
たまにミカエルがご馳走するハーブティーを、マスターは大変気に入っている。その評判が愛娘にもきちんと伝わっているようだ。光栄な事である。
「いつもマスターにご馳走している特製ブレンドを、今日だけは特別に用意させよう。君の為だからね」
ミカエルは少女の頭を優しく撫で、手近な兵士に茶葉とティーセットを持ってくるよう言いつける。兵士が言われた通りの道具を持ってくると、茶葉の種類とその割合まで細やかに指示し、その場で兵士に調合させる。
「はい。お嬢様」ミカエルは、ソファーに座って茶葉の調合を待っていた彼女の頭に手を置いた。「特製ブレンドのハーブティーが完成したよ」
「ありがとう。ミカエル」
ソファーをぴょんと飛び降りて、少女はミカエルの腰に抱きつく。彼女は、いつも穏やかで優しい雰囲気のミカエルに甘える事が大好きだ。彼の前では良い子でいよう、と常に心掛けている。彼に悪戯を仕掛けるなんて、彼女には考えられない事だ。
「ミカエルにはこれあげる」
「チョコレートかい?」
「そうなの」銀紙で包まれた正方形の小さなチョコレートを三つ、彼女は差し出す。ミカエルは鼻が良いから、見なくてもすぐに分かるのだ。「ハーブティーのお礼よ」
どうもありがとう、と彼はそれを片手で受け取る。彼の掌にチョコレートを乗せた彼女は、「行ってくるね」と声を弾ませた。
「トレイは一人で持てるかい?」
「兵士さんがね、危ないから代わりに持ってくれるって」
「うん。それが良いね」
兵士さんとは、ミカエルに言われて茶葉の調合を行っていた者のことだ。
「転ばないように気をつけるんだよ」
自室のドアを開け放ち、ミカエルは少女と兵士を見送った。
「はぁい」
彼女は甲高い声で返事をして、むふふと含み笑いを浮かべる。
ポットとカップを乗せたトレイを持ちながら、お嬢様はまた悪戯を仕掛ける気だな、とお付きの兵士はウンザリする。
こんな事に巻き込まれて、今日は厄日だ。
***
「アインス疲れてるから、休憩して」
事務処理に追われていたアインスは、兵士を連れて執務室を訪ねて来た少女の言葉に、思わず真顔になる。これは、「可愛いじゃねぇか」とにやけそうになる顔を必死に堪えた結果だ。訪ねて来たのが少女だけならばともかく、兵士がいるのであれば、普段の冷徹な姿勢を通す必要がある。軍の士気に関わるのだから。
「ミカエルにお願いして、お茶を用意してもらったの。これを飲めば元気が出るわ」
兵士がティーポットを持ち上げ、カップに並々とお茶を注ぐ。ソーサーの端を両手で持った彼女は、書類の散乱するアインスの机にそれを置く。
「はい。召し上がれ」天使の微笑み。
だめだ俺、と真顔のままアインスは少女の愛らしさに胸を撃たれる。冷徹なんて投げ打って、犬にでも食わせてやろうか。
「アインス、怒ってる?」さっきからずっと真顔で黙り込む彼を、彼女はしゅんと眉垂れた顔で見上げる。「お仕事の邪魔だった? ごめんなさい」
「いや、そうじゃねぇ。お嬢の言う通り、少し疲れてるみたいだ。頂こう」
何とか平生の自分を保ち、彼はカップを持ち上げる。
「良い香りだな。ハーブティーか?」
「うん」
「味も悪くねぇ。そこの兵士が淹れたとは思えねぇくらい上出来だ」
「良かった!」
少女はテーブルの淵に手を掛けて、コクコクとハーブティーで喉を潤すアインスを見上げては、楽しそうに笑い出した。
「それね、私のおしっこなの」
ぶぼごっと真っ青な顔で液体を吐き出したアインスと目が合い、兵士は「あ」と我に返る。
「逃げましょう!」
少女は兵士にそう声を掛け、全速力で執務室を後にする。その小さな体で、大した脚力だ。そんな呑気な事を考えている場合ではない。
あの貴銃士は狙撃手だ。離れた場所からでも正確に獲物を仕留められる。しかし「生きたい」という生存本能によって、反射的に兵士は少女の後に続く。律儀にトレイを両手で抱えて。
「自分、今日死ぬわ」と兵士は思った。
***
少女の悪戯は容赦なく続いた。
アインスの他に、ベルガー、ホクサイ、ゴーストが止む無く餌食となった。
「俺猫舌だからあっついお茶とか飲めねぇんだけど、娘ちゃんがふーふー冷ましてくれたら飲んでみよっかな〜」
「ハーブティー? へぇ、キレイな液体だね。ボクちゃん的には青いともっと嬉しかったけど。いただくよ〜、ありがとう」
「嬢ちゃん、みんなにハーブティー振る舞ってるとか、どんだけ良い子なん。涙出てくるわ……」
そう口々に感謝と労いの言葉を並べる彼らの喉を、こきゅっとハーブティーが通った瞬間、決まってあの台詞は発せられる。
「それ、私のおしっこなの」
その後彼らがどんな反応を寄越したのかは、想像に難くない。
***
「お茶あげる」
トレイにポットとカップを乗せた少女が、スーツの男を間近で見上げる。
お茶を零したなどと言って重要な作戦の資料を汚してしまったアインスに呼び出され、ファルはつい先程まで執務室に居た。
誤って書類をシュレッダーに投入してしまう事態なども想定し、アインスに渡す重要書類は無限に予備を作ってある。まさかお茶を零されるとは思っていなかったが、今回はその予備が役に立った。備えあれば憂いなしだ。
しかし不思議な事に、茶を零した経緯や、そもそも執務室にティーセットなど無いのに、ソーサーとティーカップで本格的にティータイムを行えたのは何故なのか、彼は詳細を話さずお茶を濁すのだ。お茶だけに。
それが今、執務室を後にして自身の仕事場へ戻ろうと廊下を歩いていると、向かいから歩いてきた少女と遭遇し、「お茶あげる」などと言われる始末。
「……ほう?」
ファルは、アインスお茶零し事件にはこの少女が関わっているとほぼ確信した。
「珍しい。貴女がこの私を労うなんて」
「お礼なの」少女は大きな瞳に彼の姿を映し出し、小さな唇を持ち上げる。「たまにはお茶でも飲んで、ゆっくり休んで欲しいの」
「有難きお言葉」ふふっとファルは優雅に微笑む。「では、貴女の好意に甘える事と致しましょう」
トレイに乗せられたティーカップを、ソーサーごと持ち上げる。注いでから時間が経ってしまったのか、湯気は立たない。すっかり冷めてしまっている。
「ハーブティーですかね」液体の色味と、口に含んだ時に広がる仄かな香りを頼りに推測する。「レモングラス、カモミール、……ジンジャーでしょうか」
「それ、私のおしっこなの」
ハーブティーを味わうファルを見上げて、彼女は悪戯に微笑んだ。
ファルは口を付けようとカップを持ち上げる手を止めて、目の前の少女を見下ろした。
「驚いた?」
きゃっと小さな歓声を上げて彼女は笑う。無邪気な笑顔。
「……………」
殺す相手の首を捻るように手首を動かし、ティーカップをひっくり返す。
パシャリと中のハーブティーが少女の顔を濡らす。
ティーカップとソーサーを床に投げ打ち、パリンとガラスの破片が飛び散る。
少女が声を上げる暇も与えず、ファルはトレイの上のティーポットを持ち上げ、蓋を開け、弧を描くように中身を振り撒く。
バシャリと少女は髪まで濡れる。
「………」
驚いて声も出ない彼女が、目を見開いて彼を見上げる。
端整な男の顔には、いつもの不気味な笑顔が無い。表情が無い。眼鏡の奥の両の瞳だけが、非道く冷たい光を宿している。睨むのとはまた違う。しかしこの瞳と目が合うと、少女の足は動かなくなる。
「火傷はありませんね」
ようやく彼は口を開く。淡々とした響きで、感情を伴う抑揚は無い。
「この私を本気で怒らせたのは、貴女が初めてです」
少女が抱えたトレイとティーポットも床に投げ打ち、「来なさい」と強く手首を掴んで彼女を引っ張る。
彼の尋常ではないその力に、彼女は怖くなって大声で泣きだした。
***
「ふぁああぁぁん。ぅえあぁあああ」
「泣いてばかりでは伝わりません。貴女には立派なお口があるでしょう。早くアインスに謝りなさい」
「ごべ、……なざいいぃ」
「聞こえませんね」
「……ファル。もういい」
えぐえぐと泣き噦る少女を前にして、アインスは彼女を気の毒そうに見つめる。ファルが執務室に戻ってきたと思ったら、大泣きしている彼女を引き摺って来たものだから驚いた。
「お嬢もファルに叱られて懲りただろう。反省しているならそれで良い」
「だそうですよ。お嬢様」ファルは腕を組み、隣でグズグズと泣いている彼女を冷たく見下ろす。
「お許しを頂いた事に感謝なさい」
「アインスぅ……、ありがとぉ」
「ああ」
これでお説教は終わりかと思いきや、「では次です」と彼女の腕を掴んでファルは執務室を後にする。
「ふえぇぇえん。どこ行くのぉ」
「貴女が悪戯を仕掛けた全員に謝りに行きます。あとはどなたです。言いなさい」
「っえぐ……ベルガー……ホクサイ……」
最後に消え入りそうな声でゴーストと呟き、彼女は鼻を啜る。
可哀想で見ていられん、とアインスは眉間に皺を寄せた。
***
「……たかがガキの悪戯だろ」
そんなに怒る事ねぇじゃん、意味分かんねぇ、とベルガーは顔を顰める。彼にして見れば、ここまで少女を怯えさせるファルの方が悪者に思えた。
「別に俺は怒ってねーよ。本当にションベンだったらさすがにキレるけどよ」
「貴方は彼女と同類でしたね」ファルは蔑むようにベルガーをひと睨みし、やれやれと呆れた様子で溜息を漏らした。
「貴方のような素行の悪い貴銃士がいるから、お嬢様が悪影響を受けるのです」
「あ? 俺のせいかよ」
「お嬢様、散々泣いて気は済みましたか。彼は放っておいて、他をあたりましょう」
「何で俺が叱られたみたいになってんの?」
納得のいかないベルガーだが、ファルに引っ張られて背を向けた彼女が振り向き、「ごめんなさい」と呟くと、おうと片手を上げて応えた。
「もうすんなよー、娘ちゃん」
***
「もう、食べ物でイタズラしません……」
泣き腫らした目を擦り、ずびずびと鼻を啜りながら反省の色を見せる彼女に、「ウン」とホクサイは頷いた。
「まだですよ。彼にお許しを貰っていません」
実験室の簡素なパイプ椅子に脚を組んで座り、米神に指を当てたファルはそう冷たく言い放つ。
「お許しを頂くまで謝りなさい」
「ふえぇぇ……、ごめ……ごめんなさい……」
彼女がヒイヒイと再び泣き出し、ホクサイは慌てて口を開いた。
「大丈夫、ボクちゃん怒ってないから。お嬢ちゃんがもうしないならそれでいいよ。だから泣かないで〜、ねっ? 飴食べる〜?」
「ホクサイ」ポケットを弄って彼女に飴を与えようとした彼の親切を、ファルがピシャリと跳ね除けた。「お嬢様を甘やかすのはやめてください。お説教の意味が無いので」
「……ハイ」ホクサイは泣く泣く飴を仕舞う。
「お許しを貰えたのでしたら、もうよろしい」
ファルは組んだ脚を直し、しゃきっと椅子から立ち上がる。
「お手間を取らせて申し訳ございません。貴方は実験に戻っていただいて結構です」
「……ウン」
ホクサイは引き攣った笑みを浮かべる。この人お嬢ちゃんに対してこんなに怒れるんだ。ボクちゃんドン引き。
「さ、次へ参りましょう」
実験室を後にするファルの背中を小走りに追いかけ、彼女はえぐえぐと泣きながら彼について行く。その小さな左手は、彼のスーツの袖をしっかりと掴んで離さなかった。
***
「…まあ、確かにタチの悪い悪戯やったけど」
「もうしません」腫れた目でしばしばと瞬きをして、酷い顔をした少女がゴーストにそう告げる。
「せやなぁ、あれはアカンわぁ。いくら嬢ちゃんでも、さすがのワイも腹立ったわ」
「うぇええぇぇん」
「何で急に泣くん!?」
またファルに厳しく説教をされると思った彼女は、反射的に涙をボロボロと零す。そんな彼女の後ろに佇んでいるファルは、もう怒っていないようだ。それどころか、この状況を愉しんでいるように小さく微笑んでいる。モノホンの鬼畜やわ、とゴーストは身震いした。こんなちっさい女の子を怯え泣かして、何が楽しいねん。
「あ〜〜〜嬢ちゃん、頼むから泣かんとって〜。ワイ、もう怒っとらんで。二度とせぇへん言うなら、それで十分や」
「二度どじまぜん……っ」うっうっと嗚咽を漏らしながら彼女は何とかそう言った。
ゴーストがちらりとファルの様子を伺うと、彼は今にも吹き出しそうな様子で笑いを堪えている。こいつ、良心は痛まんのか。変態め。
「お嬢様、よく出来ました」ファルはにっこりと微笑み、彼女の左手をしっかりと握り締める。「まだどこか行くの?」と彼女の濡れた瞳が怯えたように彼を見上げる。
「お仕置きの最後の仕上げです。今回の事件を、貴女の口からマスターに直接報告なさい」
「うわああああん。鬼いいいい」
「どうぞ何とでも」
言いながら、ファルと少女は手を繋ぎながらマスターの部屋へと歩き出す。その後ろ姿を見ていると、大層仲睦まじい兄妹のように見えなくもない。
ファルがお説教と称した今日の行いは、彼の趣味にひどく偏ったお仕置きだ。彼女もよく逃げ出さず付き合うものだ。
(あの二人、お互いに貶し合ってるけど、ほんまは仲ええんとちゃう?)
心配するのが阿呆らしくなってきたわ、とゴーストはこっそり肩を竦めた。
「私の娘をここまで打ちのめす事ができるのは、おまえくらいだ」
彼女のすっかり泣き腫らした顔を見ると、マスターである彼女の父親は呆れたように溜息をつく。
「滅相もない」
そう謙遜して微笑む男は、この日以来、教育係として少女を躾ける事となった。
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