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side story

【「私をカジノに連れてって」】



サングラスをかけた小柄な女性が店の前に立った時、セキュリティースタッフの男はひどく訝しい顔で彼女に幾つか質問をした。きっと子供が年齢を偽って入店しようという魂胆だと思われたのだろう。しかし、同行しているアインスが軍の特別幹部だと分かると、男は慌てて支配人を呼びに走り、彼女を易々と店の中へ招き入れる。
「どうもありがとう」
サングラスを外し、男に礼を言う。
駆けつけた支配人は、ようこそお越しくださいましたと労をねぎらい、アインスの指定した特別室へと二人を通す。VIPルームにはいつくか種類があるが、この部屋は謂わばカジノ本来の目的から外れた用途に用いられる。女性とお酒を嗜む遊び場であったり、えげつない商談をしたり、それはまあ大人の穢さが蔓延った部屋であるため、彼女をこの部屋に招く事は躊躇われた。しかし、この裏カジノでゲームもせずただ二人きりになれる場所を、アインスはこの部屋しか知らない。苦肉の策である。
特別室には、スロットやルーレットなどカジノらしい物は一切なく、テーブルとソファーしか置いていない。部屋を入って左手は全面ガラス張りで、これはマジックミラーだ。中からは外を伺えるが、外から部屋の中は伺えない。この部屋は地下の中二階に位置し、賭け事に興じる紳士淑女の有象無象が見下ろせた。
「人がゴミのようね」彼女は興奮して呟く。
「何だそれは」アインスは怪訝な顔をする。彼が日本の国民的アニメを解するわけもない。彼女はひっそりと肩をすくめた。
「特別室だと言うから、専用の遊び場かと思ったのに。ここは何も無くて退屈ね」
彼女はマジックミラー越しに外を眺めて溜息をつく。
「まさかカジノでゲームでもするつもりだったのか」
「いけない?」
「お嬢にはまだ早い」
この部屋から店の様子を眺めて、カジノの雰囲気だけでも楽しんでいけ、とアインスは窘めた。何だそれは、と彼女は唇を尖らせる。それではわざわざ来た意味がない。こんなミラー越しに外を眺めるのは、普段の生活と何ら変わり映えしない。ただ少しばかり外の景色が変わるだけだ。安泰な鳥籠の中で一生を終える小鳥と同じ。
冗談じゃない、と彼女は意を決した。
「シャンパンが欲しいの」
マジックミラーから離れ、ソファーに腰掛けた彼女は、小首を傾げて優雅に微笑む。
「持ってきてくれない?」



アインスが飲み物を持ってくると言って部屋を出て行き、彼女は一人取り残される。
バッグを開けて手持ちの護身用具を確認する。小型の催涙スプレーがあったが、大声を出されては困る。
「やはりここは、正攻法でいきましょう」
誰も聞いていないのにわざわざ声に出して、彼女は立ち上がった。自分に言い聞かせるためだ。
カツカツとハイヒールの靴音を響かせ、ガチャリとドアを開ける。先程部屋まで案内してくれた支配人が、ドアの側に立っていた。アインスに頼まれて見張りでもしていたのだろうか。ご苦労な事だ。
見張りがセキュリティースタッフでなくて良かった、と彼女は安堵する。彼らは屈強な体格なうえに武術の専門家だ。女性というハンデを背負った自分には分が悪い。
「お手洗いはどこかしら」彼女はとっておきの笑顔で支配人に尋ねた。
「ああ。でしたら部屋の奥に…」
鳩尾に拳を喰らわせる。
彼の身体が折れたところで、首の後ろに強烈な一撃を加えて気絶させる。
「運のない方ね」倒れた男をそっと床に寝かせ、気の毒そうに彼女は呟く。
しかし、反省も後悔もない。
冒険に犠牲は付き物なのだ。


***


『またお嬢様がやらかしましたか』
開口一番、挨拶代わりに携帯から飛び出す彼の声。
「ああ」アインスは、想定外の事態が起こると直ぐにファルを頼ってしまう悪癖を自覚して、溜息混じりに相槌を打つ。「よく分かったな」
『経験則から判断しました。貴方が突然連絡を寄越すのは、殆どが彼女絡みのトラブルに起因します』
間違いない、とアインスは頷く。自分の欠点を補う彼の明晰さに、動揺していた心が少々落ち着く。
「お嬢が居なくなった」アインスは、ファルに詰められる前に事態を白状した。
『あの歳で迷子ですか。お嬢様は』
言葉足らずだったようだ。それとも、冗談を言っているのだろうか。電話口では判断しかねる。
『貴方、今何処です』
繁華街の裏カジノだと告げると、なるほど、とファルは一人で納得している。特に驚いた様子は無い。
アインスはファルに事態の深刻さを訴えるため、これまでの経緯を事細かに説明した。自分が彼女をカジノに連れて行く羽目になった理由は、都合良く省いた。今の時点ではそこはさして問題ではない。
『わざわざ足を運んだのに、貴方が閉じ込めるものだから怒ったのでは? 貴方を困らせたいのでしょう。いつもの悪戯ですよ』
「見張りを頼んでいた支配人が気絶していた。悪戯にしてはやり過ぎだ」
『そうですか? お嬢様ならやりかねないと思いますが』
ファルの話す声を聞きながら、マジックミラー越しに必死で彼女の姿を探す。広々としたホールに蠢く人々の群れ。彼女の姿は見当たらない。
「誘拐という可能性は?」
最も避けたい最悪の事態だが、あり得ない事もない、とアインスは内心気が気でない。
相変わらず心配性ですね、とファルはどこか感心したように呟いている。
『本当に誘拐なら、犯人から世界帝に何かしらコンタクトがあるでしょう。それが無いという事は、つまり杞憂です』まあお嬢様は一度誘拐でもされた方が大人しくなって良いでしょう、という鬼畜発言が後に続いた。
「早くお嬢を連れ帰らねぇと。マスターに知れたら大変な騒ぎになる」
『そうですね。確かにあの方に知れると厄介です。やはりここは、彼に人肌脱いでいただきましょう』
「誰のことだ」アインスは眉を顰める。ファルに相談しているのに、お前は人肌脱がないのか。
『貴方や私がお嬢様を見つけたところで、どうせ彼女は次の手を打って我々を出し抜くに決まっています』
ファルは彼女を微塵も信じていないらしい。その言い分は酷いものだが、きっと十数年彼女の教育係を務め上げて、我儘放題に懲りたのだろう。
『我々よりも彼女にガツンと言ってやれる貴銃士が居るのです。彼をそこに向かわせますので、貴方は安心して待てばよろしい』
ファルはそう鼻で笑って、アインスの返事も待たずに通話を切った。


***


サングラスをかけた彼女が、シャンパンを片手にひっそりと佇んでいる。妖しく煌めく大人の社交場は、彼女にとって何もかもが刺激的だった。
お酒の味と煙草の煙。
すれ違うマダム達から薫る香水。
テーブルを叩くコインの音。
賭け事に一喜一憂する人々の騒めき。
それらを体感して眺めながら、危険な賭け事に興じる男性は怖いもの知らずでカッコイイ、と彼女は評価する。
思えば、現代銃たちにリスキーな手段を好むような猛者は居ない。
アインスはああ見えて根が真面目だから、献身的で堅実だ。主人を危険に晒すような賭けは好きではないらしい。ファルは頭の回転が早いから賭け事も得意かもしれないが、危険な手は好まない。安全・確実・迅速に事を進められる手段の方を選ぶのだ。ベルガーは常にリスキーだが、あれは思慮に欠けるだけだ。考え無しに行動し、口を開き、欲望のままに生きている。嫌な事も次の日には忘れるそうだ。羨ましい。
唯一ナインティは危険を顧みないタイプかも、と彼女は思った。彼は意外と勝負強いところがある。あの食い意地がカジノで役立つかどうかはまた別の問題だが。
とにかくあの子たちには冒険心が足りない、と彼女は認識を改める。
この私を見習った方が良い。
今頃アインスは心配しているだろうか、という一抹の不安が胸を過ぎった。
「マダム。シャンパンはいかがでしょう」
持っているグラスが空になったからだろう。ふいに隣からウェイターらしき男に話しかけられる。彼女はサングラス越しに彼の顔を眺めては、その瞳を輝かせた。屈託のない笑顔が素敵な男性だ。
「いただくわ」空のグラスをウェイターが持っているトレイに乗せ、新たなグラスを手に取って彼女は微笑む。「ありがとう」
「お一人ですか?」ウェイターは辺りを見回す。一人よ、と彼女は答えた。
「それはいけませんね。エスコートが必要では? 」
願っても無い申し出を、彼女は快諾する。
「ゲームの種類が沢山あって、迷ってしまって。途方に暮れていたところなの。助かるわ」サングラスをしていては失礼だと思い、外してウェイターに微笑みかけた。
彼女の素顔に、ウェイターは目を丸くする。
「どこの貴婦人かと思ったら、こんな子猫ちゃんだったなんて。驚いたよ」
子猫ちゃん、だって。彼女は擽ったそうに笑う。女性をそのように表現する場面は、映画や小説の中でしか見たことがない。
「マダムなんて言って、失礼だったかな」
「いいの。大人に見られて、嬉しかったから」
それよりゲームのルールを教えてほしいの、と彼女はサングラスをかけ直す。ウェイターはにっこりと愛想良く微笑み、「オーケー」と歩を進めた。



カジノゲームは、テーブルゲームとゲームマシンに分類される。
前者は、ルーレットやトランプなどテーブルで行うゲームの事だ。後者は、スロットマシンやビデオポーカーといった、個人で機械を相手に行うゲームの事を言う。
テーブルゲームの場合、店の従業員であるディーラーが、一つのテーブルに一人付いている。彼らは客と一対一、時には複数の客を同時に相手してゲームを進行する。
「俺の馴染みのディーラーを紹介するよ」
ウェイターはそう言ってあるテーブルに近づき、ヘイと声を掛けた。彼女はサングラスを外し、思わずそのディーラーを凝視する。
「おや。これはこれは」ウェイターの馴染みのディーラーは、彼女を見つめて穏やかに微笑む。片眼鏡が大変似合う物腰柔らかな紳士だった。「随分と可愛らしいお客様ですね」
今日の彼女の男運は怖いくらいに絶好調だ。
このディーラーといいウェイターといい、良い男にも程がある。
世界帝軍の貴銃士たちも良い男揃いだが、目の前の二人はまた違った、クラシカルな雰囲気が魅力的だ。万人に愛されるタイプだろう。ウチの貴銃士たちはアクが強いのだな、と彼女は改めて思い知った。そんな一癖も二癖もあるところが、彼らの魅力でもあるのだが。
「彼女、カジノゲームは初めてなんだってさ。だから俺が案内してるところなんだ」
「バカラやブラックジャックに興味があるのだけど、ウェイターさんに止められてしまって」
「英断です」手元のトランプを切りながら、ディーラーはウェイターの手柄を褒め称えた。「貴女が興味を持つそれらは、報酬が大きい代わりに損失も莫大です」
「ビギナーズラックに賭けているの」彼女は小首を傾げて微笑む。
「クールだろう?」ウェイターは可笑しそうに笑った。
「恐ろしいお嬢さんですね」
ディーラーは困ったように肩をすくめる。ふいにその仕草にファルの面影を見る。今頃奴は慌てたアインスから連絡を受け、何かしら手を打っているに違いない。だが、今日はタダでは帰らない。せっかくここまで来たのだから、徹底的に遊び尽くす。
「バカラやブラックジャックで、ビギナーズラックに見舞われては敵いません。どうかご勘弁を」
「分かりました。止しましょう」彼女はディーラーに微笑みかける。イケメンを困らせるのは楽しい、と思った。「では、他に面白いトランプゲームは?」
「レッドドッグがお薦めです」トランプをシャッフルし終えたディーラーは、朗らかな笑みで彼女に答える。
「美味しいシャンパンもあるよ」飲み物を注ぎに行っていたウェイターが、新たなグラスをトレイに乗せて戻ってきた。



「見つけた」
テーブルゲームに興じる彼女の腕を掴む。
楽しげに笑っていた彼女は、彼の登場に驚いて目を丸くする。
「ミカエル?」どうして貴方がここに、という台詞は彼の言葉によって掻き消された。
「アインスさんがひどく心配している。戻ろうか」
「でも、まだゲームの途中なの」
「構いませんよ」片眼鏡のディーラーは、彼女に迎えが来たことにほっとした。こんな年頃のお嬢さんが、一人でカジノに来てはいけない。悪い大人に遊ばれてしまう。
「やっぱり一人じゃなかったんだ」ウェイターも、ディーラーと同じく安堵の微笑みを浮かべていた。
「邪魔したね」
ミカエルは短い言葉で二人の男に断り、いつもより強い力で彼女の腕を引っ張る。人混みの中で肩を打つけながら、どんどん先へ進んで行く。
彼女には、情報伝達の経路が手に取るように分かった。
彼女の失踪により気が動転したアインスが、ファルに連絡。事情を聞いたファルは、自身が迎えに行っても彼女が素直に言う事を聞かないと判断。ここまでは予想通りだったが、まさかミカエルという刺客を送り込んでくるとは思わなかった。迂闊だった、と彼女は唇を噛み締める。元教育係め、この私をよく分かっているではないか。
「待ってミカエル」これだけは聞いてほしいの、と彼女は声を上げた。「さっきのウェイター。彼にお礼を言いたいの」
「お礼?」ミカエルは立ち止まり、振り返る。「どうして」
「勝手が分からない私のために、色々と親切にしてくれたの。もしかしたら、悪い人が近寄らないよう、見張っていてくれたのかも。お願い。少しだけ、時間をくれない?」
「分かった」ミカエルは、意外にもあっさりと彼女を解放する。何か思うところがあったようだ。「ここで待ってる。行っておいで」
「ありがとう」
ミカエルの寛大さに感謝して、彼女は振り返る。
先ほどのディーラーのテーブルには、既に別の客が着席していた。接客中の彼に話しかけるのは難しそうだ。残念ながら、お礼は言えそうにない。レッドドッグは単純ながらとても楽しいゲームだったから、薦めてくれた彼にその礼を伝えたかった。
辺りを見回し、ウェイターの姿を探す。
ピンク色の鮮やかな長髪を一つに括った後ろ姿。
華があるのですぐに分かった。
彼女は彼に近づき、らしくもなく深呼吸。お礼を言いに行くだけなのに、緊張していた。
「やあ、子猫ちゃん」再び戻ってきた彼女を、可笑しそうに彼は見つめる。
「王子様が迎えに来たね。お兄さんかい?」
彼女は首を横に振り、微笑む。「デートだったの」
ひゅうと器用に口笛を鳴らしたウェイターは、クールだ、と言って笑った。
「貴方のおかげで楽しめました。どうもありがとう」
彼女は、ウェイターの胸ポケットに小さく折り畳んだお札を一枚入れようとした。チップのつもりだった。しかし彼はそれを片手で制して、「ダメだよ」と片目を瞑った。
「君と俺の出会いは、そんなお金じゃ替えられない」
「まあ」
面白い人、と彼女は笑う。またこのウェイターに会いたくなった。
「貴方、お名前は?」
「俺はスターだよ」
「スター? 変わった名前ね」そう茶化してしまったが、失礼だったかしらと思い直す。「また遊びに来ます。貴方に会いに」
「オーケー」ウェイターは少し寂しそうに微笑んだ。
「またね。オマセな子猫ちゃん」



ミカエルがひどく怒っている事が分かった。
「ごめんなさい」兵士が運転する車の後部座席で、彼女は泣きそうな声で謝る。「嫌いにならないで」
「僕に嫌われるのが嫌だから謝っているのなら、それは大きな間違いだ」彼女の隣に座っているミカエルは、片足を組みながらゆっくりと発言した。「まずは、アインスさんに無用な心配をかけた事を謝った方がいい」
「アインス。急に居なくなって、ごめんなさい」無言で助手席に座るアインスに、彼女はそう謝る。
「まあ、そうだな。一時はどうなる事かと思ったが、お嬢が無事で何よりだ」
彼の方は、怒りを通り越してむしろ安堵の方が大きいらしい。叱れないほど本気で心配をかけた事が申し訳なく思えた。
「帰ったら、ファルさんに礼を言うと良い。僕にこの事を教えてくれたのは彼だから。あの人の判断のおかげで、大事にならずに君は基地へ帰れるのだからね」
「…………」
「返事は?」
あの人に礼を言いに行くなど、こんな屈辱はなかなか無い。しかし、これ以上ミカエルの機嫌を損ねたくは無い。彼女は、子供の頃から優しく穏やかな彼が大好きで、彼の前では「良い子」になれた。ミカエルは、「良い子」な彼女が好きなのだ。彼の心の目からして見れば、今の彼女は大変「悪い子」に映るのだろう。
「ファルに礼を言いに行くわ」覚悟を決めた彼女は、ハッキリと言い切った。
「さっきのウェイターにお礼を言いに行った君なら、できるはずだよ」ミカエルの態度が柔らかくなる。声に優しい響きが戻る。
「そうね」
彼女は、つい先程まで隣で笑ってくれていた、あのウェイターの事を思い出した。
名前を聞いたら、スターだと答えてくれた。 今思えば、本名かどうかも疑わしい。あんな所で働いている身だ。何か後ろめたい事情があるのかも。
だけどそれは、私も同じね。
ファルに礼を言えるような大人にならなければ、と彼女は溜息をついた。


どこかでもう一度あの人に出会えたら、
今日のお礼をもう一度伝えよう。
今度は子猫ちゃんではなく、
貴婦人となった私を彼に見てほしい。



____
後日談
・片目を瞑って


カジノで出会ったウェイターが、別れ際に片目を瞑る仕草をしていた事が印象的だった。初めて見る挨拶だった。あれはどういう意味なのだろう。
「片目を瞑る」で検索をかけると、あれはウィンクなのだと彼女は理解した。ウィンクとは、好意のある異性の気を引くために行う仕草らしい。求愛行動の一種だろうか。
私に好意を示してくれたのね、と彼女は嬉しくなる。
うちの貴銃士たちにも、早速やらせてみよう。


***


「ねえゴースト。ウィンクして」
「何でやねん」
おやつの時間にアイスを楽しんでいたゴーストは、スプーンを咥えながら怪訝な表情を浮かべる。
「嬢ちゃん、この前ミカエル君に叱られたばかりやろ。もう何か企んどるんか」
「悪戯じゃないわ。ただ見てみたいだけなの」
「訳分からん」
言いながら、ゴーストは片目を瞑ろうとした。これがなかなか難しい。そもそもウィンクなんてした事がない。こんな仕草、一体どんな時に使うのだ。
「ゴースト……」彼女は彼の顔を見つめて、心配そうに呟いた。「大丈夫?」
ウィンクというか、「冷たっ。アイスが歯に沁みるわ〜」という顔に見えたと彼女は語った。


***


「ウィンクって何?」
実験器具に囲まれながら、振り返りもせずホクサイは尋ねる。また新たな研究に情熱を注いでいるようだ。
「好意のある異性の関心を引くための求愛行動」実験室のパイプ椅子に腰掛け、彼の背中に彼女は微笑む。「おまえ、私に好意があるでしょう。やってご覧なさい」
「そうだね」
心ここに在らずな物言い。
「ねえ。話聞いてた?」
「お嬢ちゃんはこの前やらかしたばっかりなんだから、少し大人しくした方がいいよ」
彼は振り返り、呆れた様子で口を開く。邪魔なんだけど、という顔だ。
「ホクサイってほんとワガママ」彼女はそう言ってむっと頰を膨らませる。「気まぐれで自分勝手よね。図々しいんだから」
「君に言われたくないね」
そう真顔で言い返された。


***


「私のために争わないで!」
そう言って飛び出してきた彼女に、言い争いをしていたベルガーと89は「「はあっ!?」」と同時に声を上げる。息ぴったりだ。まったく、仲良いんだから。
「冗談よ。言ってみたかっただけ」両手を頰に添えて、うふふと恥ずかしそうに彼女は微笑む。
「そんな事より貴方たち。ウィンクして」
「んなもん誰がやるかよ」89にバッサリと断られる。「つーか、何だよ急に」
「あ〜〜〜成る程。ドーテー君はウィンクもできねぇんだな〜。さすがだわ」ぷっと吹き出して揶揄うベルガーは、彼女にちらりと目配せする。ナイスアシスト、と彼女も微笑み返した。ベルガーは、彼女の意図を良く汲んでいる。さすがは悪友だ。
「ドーテーは関係ねぇだろ」
「じゃあやってみろよ」
「ふざけんな。お前がやれ」
「二人同時にやってみれば?」彼女はそう提案する。「どちらのウィンクが上手だったか、私が審判しましょう」
上手いこと勝負に持ち出して、89を誘導することに成功した。後でベルガーにコークを奢ってあげよう、と彼女は思う。
「せーのと言ったらウィンクよ。準備は良い?」
「あったりめぇよ」ベルガーは得意げな顔だ。よほど自信があるらしい。
「ぜってぇ負けるか」89は完全にムキになっている。
「ではいきます。せーのっ!」
ばちん、と二人は両目を瞑る。
堪えきれずに彼女は吹き出す。
「アレ?」おかしいな、と怪訝な顔でベルガーは目を瞑っている。片目だけ閉じたいのに、どうしても反対の目がつられる。「何だこれ。結構むずいな」
「……ちっ」舌打ちをしながら何度も挑戦するが、やはり両目を瞑ってしまう89。
なんて和やかな光景だろう。平和だわ、と彼女は微笑む。


もうあのウェイターの事など忘れてしまった。
正統派では無いけれど、やはりウチの子が一番可愛い。





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