side story
【蝶々結び】
「マスター」
背後からそっと声を掛けられて、彼女ははっと振り返る。
目元に包帯を巻いた顔が近くに迫っていて、ぎょっとした。あまりにも距離が近い。
「ミカエルったら……脅かさないで!」
どきどきと高鳴る鼓動を自覚しながら、彼女は一歩後退し、ミカエルと適度な距離をとる。この貴銃士は、人との物理的な距離感を違えている。これが飛行中の戦闘機であったら、即座に撃ち落とされている。
「驚いたわ。全然気配が無いんだもの……」
「君のこと、方々探し回ったよ」やっと見つけた、と彼の形の良い唇が微笑む。
探し回ったと言う割には、切羽詰まった様子でもない。むしろ、余裕すら感じられる。ミカエルの纏う雰囲気は、いつも優雅でお上品だ。彼が焦っているところなど、見たことがない。だから、探し回ったなどと言われても、きっと大した用事では無いのだろうと、高を括ってしまうのだ。
「さあ。僕にこれを結んでおくれ」
そう言って彼が差し出したのは、黒のリボンタイだった。
「まあ、ミカったら」彼女はそれを手に取り、ビロードの生地を指先で撫でながら、くすりと微笑む。「わざわざこんな事のために、私を探しに?」
やはり、大した用事ではない。
彼女の父親が貴銃士たちのマスターであった頃、ミカエルはマスターに倣い、その首元をループタイで飾っていた。
ある時、まだ幼かった彼女は、お気に入りの人形の首元にリボンを結んでやった。それは、少女が初めて成功させた蝶々結びだった。彼女は嬉しくなり、その場に居合わせていたミカエルに、自慢げに人形の首元を見せた。そうして、ミカエルにもやってあげるね、と少女は彼の首にリボンを通した。小さな手を懸命に動かし、彼女は再び蝶々結びを成功させた。といってもその結び目は、左右の羽のバランスが悪く、ひどく不恰好だった。
上手にできなくてごめんね、と少女はミカエルに謝った。構わないよ、と彼は穏やかな声で応える。上手にできるようになるまで、何度でも練習すればいい、と。
ミカエルは少女にリボンを結ばれて、その結び方が「蝶々結び」というものであることを初めて知った。そうして、その結び目を気に入った。ループタイより頑丈で、ネクタイほど締めがきつくない。片方を引っ張るだけで結び目が解けるところも、楽で良い。結ぶのは少々面倒だが、誰かにやらせれば事は済む。
「僕、これからはリボンタイをつけることにするよ」ほんの気まぐれで、ミカエルは少女にそう言った。
「蝶々結びの練習がしたいなら、いつでもおいで。僕のタイを、君に結ばせてあげよう」
やはり、こうして彼女にタイを結ばれるのは、気持ちが良い。
いつもは手近な兵士にやらせるのだが、彼らの無骨な手で扱われるのは、どうにも心地が悪い。彼女にリボンタイを結んでもらう日は、特別に良い旋律が浮かんできそうだ。
触り心地の良いビロードの生地を指先で撫でつけ、左右の羽のバランスを確認する。
「上手にできたね」
首元のリボンタイは、美しく均衡のとれた形を成していた。
「いやだわ。私、もう子供じゃないのよ」
僕の台詞が可笑しかったようだ。マスターは、ふふっと笑っている。
「貴方のお陰で、私、蝶々結びの達人になっちゃった」
視覚によって彼女の姿を認識できない僕は、たまに、彼女が大人なのか、それともまだ子供なのか、分からなくなる。だが、こうして彼女にリボンタイを結んでもらうと、それが分かる。
彼女は大人になったのだ。
僕の首を優しく締めつける蝶々結び。
その美しい結び目が、その証。
「どうか明日も、君が結んでおくれ」
明日も明後日も、その次の日も変わらずに、解けぬように結んでほしい。
僕は、マスターに結んでもらう蝶々結びのリボンタイを、気に入っている。
「マスター」
背後からそっと声を掛けられて、彼女ははっと振り返る。
目元に包帯を巻いた顔が近くに迫っていて、ぎょっとした。あまりにも距離が近い。
「ミカエルったら……脅かさないで!」
どきどきと高鳴る鼓動を自覚しながら、彼女は一歩後退し、ミカエルと適度な距離をとる。この貴銃士は、人との物理的な距離感を違えている。これが飛行中の戦闘機であったら、即座に撃ち落とされている。
「驚いたわ。全然気配が無いんだもの……」
「君のこと、方々探し回ったよ」やっと見つけた、と彼の形の良い唇が微笑む。
探し回ったと言う割には、切羽詰まった様子でもない。むしろ、余裕すら感じられる。ミカエルの纏う雰囲気は、いつも優雅でお上品だ。彼が焦っているところなど、見たことがない。だから、探し回ったなどと言われても、きっと大した用事では無いのだろうと、高を括ってしまうのだ。
「さあ。僕にこれを結んでおくれ」
そう言って彼が差し出したのは、黒のリボンタイだった。
「まあ、ミカったら」彼女はそれを手に取り、ビロードの生地を指先で撫でながら、くすりと微笑む。「わざわざこんな事のために、私を探しに?」
やはり、大した用事ではない。
彼女の父親が貴銃士たちのマスターであった頃、ミカエルはマスターに倣い、その首元をループタイで飾っていた。
ある時、まだ幼かった彼女は、お気に入りの人形の首元にリボンを結んでやった。それは、少女が初めて成功させた蝶々結びだった。彼女は嬉しくなり、その場に居合わせていたミカエルに、自慢げに人形の首元を見せた。そうして、ミカエルにもやってあげるね、と少女は彼の首にリボンを通した。小さな手を懸命に動かし、彼女は再び蝶々結びを成功させた。といってもその結び目は、左右の羽のバランスが悪く、ひどく不恰好だった。
上手にできなくてごめんね、と少女はミカエルに謝った。構わないよ、と彼は穏やかな声で応える。上手にできるようになるまで、何度でも練習すればいい、と。
ミカエルは少女にリボンを結ばれて、その結び方が「蝶々結び」というものであることを初めて知った。そうして、その結び目を気に入った。ループタイより頑丈で、ネクタイほど締めがきつくない。片方を引っ張るだけで結び目が解けるところも、楽で良い。結ぶのは少々面倒だが、誰かにやらせれば事は済む。
「僕、これからはリボンタイをつけることにするよ」ほんの気まぐれで、ミカエルは少女にそう言った。
「蝶々結びの練習がしたいなら、いつでもおいで。僕のタイを、君に結ばせてあげよう」
やはり、こうして彼女にタイを結ばれるのは、気持ちが良い。
いつもは手近な兵士にやらせるのだが、彼らの無骨な手で扱われるのは、どうにも心地が悪い。彼女にリボンタイを結んでもらう日は、特別に良い旋律が浮かんできそうだ。
触り心地の良いビロードの生地を指先で撫でつけ、左右の羽のバランスを確認する。
「上手にできたね」
首元のリボンタイは、美しく均衡のとれた形を成していた。
「いやだわ。私、もう子供じゃないのよ」
僕の台詞が可笑しかったようだ。マスターは、ふふっと笑っている。
「貴方のお陰で、私、蝶々結びの達人になっちゃった」
視覚によって彼女の姿を認識できない僕は、たまに、彼女が大人なのか、それともまだ子供なのか、分からなくなる。だが、こうして彼女にリボンタイを結んでもらうと、それが分かる。
彼女は大人になったのだ。
僕の首を優しく締めつける蝶々結び。
その美しい結び目が、その証。
「どうか明日も、君が結んでおくれ」
明日も明後日も、その次の日も変わらずに、解けぬように結んでほしい。
僕は、マスターに結んでもらう蝶々結びのリボンタイを、気に入っている。