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side story

【紫煙】



エフは煙草が吸いたくなった。
殲滅作戦は止ん事無く完遂している。敵の姿は既に無く、残された住人を兵士達が嬲りに走る。この街に残っている者は、善良な市民でなければ非戦闘員でもない。数日前、空からビラをばら撒いて警告した筈だ。本日未明までに街に残っている者は、レジスタンスの戦闘員と見做し攻撃する、と。今この街に留まる住人たちは、女だろうが子供だろうが、全員もれなく戦闘員だ。痛めつけても罪にはならない。
弱者を甚振る暴力性は人間の本質の一部だが、エフには弱い者虐めの趣味は無い。むしろ、自分より力の強そうな、屈強な兵士を踏みつけて飼いならす事のほうが百倍楽しい。男を踏み倒し、罵り、首輪で繋いで調教する事こそ、最高の娯楽だ。
そういえば、マスターはどこへ行ったのかしら、と思い出す。
エフは彼女の護衛を命じられた貴銃士だ。だが、肝心の彼女を見失っている。わざと目を離したと認めてもいい。
そもそも、マスターは貴銃士に護られるほどのか弱い女ではない。
高慢で、気位が高く、高飛車な箱入り娘。
その辺で黙って犯される女とは訳が違う。
マスターの事は、安心して放っておきましょう。きっと彼女なら、自分が女である事を侮辱する行いをする者には、死をもって償わせる筈だ。わざわざ手を貸すまでもない。
ちょっと一服しようかしら、と落ち着ける場所を探しに路地裏へ回り込む。
甘い紫煙の匂いがした。
基地の喫煙所で嗅いだ事のある香りだ。
花の蜜に誘われるミツバチのように奥へと進む。
「あらあ」甲高い声を上げた。「マスターったら、こんなところでおサボり? 大胆ねぇ」
薄汚い煉瓦の壁に背中をつけ、煙草の煙を宙へ吐き出していた彼女が、エフを一瞥する。よく言うわ、とその口が開いた。
「貴方こそ、私の護衛をとっくに放棄したくせに」
「やあねぇ。そんな冷たいお顔で怒らないで。興奮しちゃうじゃない」
「誰が、何に興奮するのかしら」
「このアタシに言葉責め?」エフはウットリと目を細め、気怠げな溜め息を一つ、落とした。
「女なんて興味無いけど、アンタはイケる気がするわ」
この貴銃士は、銃身が熱くなり過ぎてすっかり興奮している。会話を断ち切るように、彼女は煙草を口に咥えた。
「何吸ってるの?」左隣にエフが並び、問いかけてくる。煙草の銘柄が気になるようだ。
左脚のニーハイブーツの隙間に突っ込んだ、潰れた黄色い箱。それを指先でとんと突いて、「これ」と目で合図した。
「やだアンタ。こんなタール値の高いやつ吸って大丈夫なの? 病気になるわよ」
「もう病気よ」煙を吐きながら彼女は呟く。「マスターっていう不治の病」
「卑屈ねぇ」うふっとエフは微笑んだ。今の彼女はいつもよりパンチがきいていて、素敵だ。
「これは戦場でしか吸わないって決めているから、心配ないわ。荒んだ場所だと、ガツンとくるものが欲しくなるでしょ?」
「それ、昔のアンタからは想像できない台詞よね〜。っま、今のアンタの方が断然好きだけど」
言いながら、エフはコートの懐から煙草の箱を取り出した。パッケージを見た彼女が、呆れた顔を向けている。その銘柄は、フィルターにラム着香が施され、ラム酒の仄かな甘みと辛味が美味しいと評判のものだ。そして、タール値が高い。彼女の呆れ顔は「人の事言えないわね」という非難の表れだ。
「マスター、こっち」
エフに呼ばれて、顔を逸らした彼女は再び左隣に首を回す。
彼の咥えた煙草の先端が、彼女の煙草の火に触れた。
コツン、とぶつかる小さな衝撃。
無意識のうちに息を吐く。
赤く燃え上がる炎。
彼が息を吸い込むと、咥えた煙草に火が移る。
シガーキス。
「上手くなったわね」
唇の端に煙草を咥えたまま、エフが小声で囁いた。
「……最近、貴方の私を見る目がいやらしいんだけど」
訴えてやろうかしら、と彼女は呟く。
美しい菖蒲色の瞳が、いつもよりずっと近くにあった。





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