side story
【エンゼルフィッシュと迷い犬】
「俺のエンゼル一号が死んじまったんだよぉ……」
ずびずびと鼻を啜り、泣き腫らした目を擦りながらベルガーはそう零した。
「………そう」
話を聞きながら、エンゼル一号って誰だっけ、と彼女は眉を吊り上げる。
庭園の一角、白い丸テーブルと白い椅子に優雅に腰掛け、ティータイムと洒落込んでいた彼女の時間は、ベルガーの乱入によってぶち壊された。
世界帝軍基地の広大な庭園。その一角にアインスの花壇がある。ベルガーは、よりにもよってそこに死んだエンゼル一号の墓を作ろうとしていたらしい。日課の水遣りに来たアインスが現場を目撃し、ベルガーを現行犯逮捕。「花壇を荒らすな、掘り起こすな」とこっ酷く叱られたようだ。
「それは、あの人の大事な花壇に手を出した貴方が悪い。せめて許可を取るべきだったわね」
仮に申請したとしても許可など得られないだろうが、という感想は心に留めておく。
「だってよぉ…、きちんと弔ってやりたいじゃねぇか」
「今更なんだけど、エンゼル一号って誰?」
「俺の飼ってた淡水魚だよっ!!」
何でもっと早く聞かねぇんだ、今まで何だと思ってたんだ、とベルガーが騒ぎ出す。
「そういえば、貴方の部屋に水槽があったわね。そこで泳いでた魚のことかしら」
「エンゼルフィッシュだ」ベルガーはゴシゴシと目を擦り、はああと大きく溜息をつく。「俺だけのエンゼル……ぐす」
エンゼルフィッシュは、観賞用熱帯魚の代名詞とも言えるほどポピュラーな魚だ。背びれと尾びれ、尻びれが長く、特徴的な縦長の体型をしている。さまざまな品種改良が行われているため、その色や模様の種類は多岐に渡るという。
「残念だったわね」
彼女は、紅茶を飲みながらしれっとそう告げる。生き物が死んでしまったというのに、随分と冷淡な反応だ。
「なにそれ冷てぇ! 俺のエンゼルが死んじまったんだぞ、もっと悲しめよ! そして俺を慰めてっ!!」
「貴方が悲しむのは分かるけれど、私も一緒に悲しむ必要はないかと。第一、エンゼル一号のこと知らなかったし」
「マスターちゃんって、けっこードライなとこあるよな……」
「そう?」
「犬とか猫とか、生き物を可愛がろうとする気持ち、ちゃんとあんの?」
「さあ」
そんな事考えたこともない、興味もない。クールな表情の彼女は、しかし別の事を考えては目の色を変えて呟いた。
「美味しそうと思う時はあるわね」
「マスターちゃん、面食いなうえに食い意地まで……」
「エンゼルフィッシュも、実は揚げ物にしたいと考えていたの。あの尾びれとか、パリッとしてて美味しそう」
「鬼畜うううっ!!」
バンッと白テーブルを叩いて勢いよく立ち上がり、ベルガーはうわあああんと叫びながら帰って行った。
「淡水魚なんだから、川に還してあげたら?」
彼女のせっかくのアドバイスも、ベルガーの耳には届かない。
(ペットねぇ……)
ティーカップに紅茶を注ぎ直しながら、彼女は昔を思い出した。
幼い頃の彼女には、ちゃんと生き物を愛でる気持ちがあったのだ。
***
「捨ててこい」
この一言を聞いた時ほど、アインスの冷徹さを思い知ったことはない。
少女は基地内の庭園で、ちょまちょまと歩いている子犬を拾い上げた。
クリーム色の毛皮に垂れた耳、つぶらな瞳が愛らしいワンちゃん。とても可愛い。
今思えば、迷い犬だったのかもしれない。首輪はしていなかったが、毛並みの綺麗な上品な犬だった。どこかで大切に飼われていた子が、何かの拍子に逃げ出して、誤ってこんな辺鄙な場所まで迷い込んでしまったのだろう。
当時の彼女はそこまで考えが及ばず、純粋に子犬を可愛いと思い、この子を飼いたいと思った。そして、まずアインスのところへ向かう事にした。幼い彼女でも、自分に一番甘い貴銃士をちゃんと知っている。
既に女の狡さを兼ね備えている子供だった。
「お嬢」
アインスは、ジョウロの水を切り上げて、少女が抱えている生き物を見ては顔を顰めた。
「そいつはなんだ」
「向こうの芝生を歩いてたから、拾ってきたの」
「まさか、飼いたいなんて言うんじゃねぇだろうな?」
「飼いたい」
「ダメだ」
彼にしては珍しく、少女の我儘を一刀両断にする。これほどきっぱりと頼み事を断られた事は今までに無かったため、彼女は目をまん丸くして驚いた。
「どうせ迷い犬だろう。基地の外に捨ててこい」
「どうしてそんな事を言うの」
「嘘泣きしても、ダメなものはダメだ」
「………」
無言の非難。恨めしそうな大きな瞳で、彼女はアインスを睨みつける。
「私がお願いしてるのに。おまえそれでもアインスなの」
「俺の事何だと思ってやがる」甘やかし過ぎたなと今更反省し、アインスは深い溜息を漏らした。
「犬はダメだ。外で好き勝手にマーキングする上に用を足すだろう。俺の花壇で粗相をすることは絶対に許さねぇ」
「大丈夫よ、私がちゃんと見てるもの」
「とにかく却下だ」彼は苛ついたように凄んだ声で、言い放つ。
「その犬っころを捨ててこい」
「ケチ!」
彼女はべっと小さな舌を出して、子犬を抱えたまま走り去る。
(まったく……、子守りも楽じゃねぇな)
小さな後ろ姿を見送って、やれやれとアインスは独り言ちた。
「ま、俺が言わなくても、ファルの奴が許さねぇと思うんだがな」
アインスの次に貴銃士の中で権威のある者といえば、彼の補佐であるあの男だろう。
「ほう」
子犬を抱えてのこのことやってきた少女を、ファルは蔑むように見下した。
「つまり貴女様は、その子犬を飼いたいと仰るので?」
「…………」
いつも胡散臭い微笑みを浮かべているくせに、こんな時に限って彼は真顔である。もしかしたらアインスと同じように、犬が嫌いなのかもしれない。
「この世界帝府の権威ある軍事施設に、すでに貴女のような子供を野放しにしているのですよ。これ以上ペットを増やさないでほしいものですね」
ナチュラルに「ペット」と形容されたが、幼い彼女に彼の悪意を汲み取るほどの邪念はない。
「でも……、飼わせてほしいの……」
彼女が恐々とそう言うと、やれやれと彼は肩をすくめた。
「もっと淑女らしく言えないものですかね」
少女は小さな頭で有らん限りの知識を絞り出す。
「か……、飼ってもよくって?」
「は〜い、よく出来ました」
にっこりと微笑む彼に、ひっと喉を痙攣らせる。この男は、どんな表情をしていても怖い。絶対何か裏があるもの。
「お利口さんなお嬢様に、ご褒美を差し上げなくては。さて、何が良いでしょう」
彼女はぐるぐると必死で言葉遣いを考える。ただ子犬を飼いたいと伝えるだけなのに、何故これほど苦労しなければならないのか。
「そういえば、東洋には犬を鍋にして食べる国があると聞きます」
「えっ」
「ふふ。今夜は犬鍋にしましょうか?」
「っっ………!!?」
「お嬢様、ご心配なく。このファルが美味しく調理して差し上げますよ」
「ホクサイに差し出すのもアリですね。良い実験体になるでしょう」
「わああん! キチク! サディスト!!」
意味を解しているのかどうかは分からないが、少女の甲高い声が至極的確な言葉で彼の人間的欠陥を責め立てている。
「はは」
子犬の首根っこを片手で掴み、その子を返してと片脚にしがみついて泣きじゃくる少女を平気で引き摺り歩きながら、ファルは笑った。
「褒め言葉ですかねぇ」
・少女の後ろ姿を見送ったアインスと、通りすがりの89くん
「おい。泣くなよ」
「泣いてねぇ」
「別に嫌われてねーよ。あのガキだって明日にはけろっとしてるぜ、多分」
「マスターのご息女をガキなんて呼ぶな。今すぐ訂正しろ」
「突っ込むとこそこかよ。……やっぱ泣いてるじゃねぇか」
「こいつは汗だ」
「………これで汗拭けよ」
89が徐に差し出したハンカチを「すまん」とアインスは受け取った。
こんなんで仁義なきスナイパーのラスボスが務まるのだろうか、と89は心配になった。
「俺のエンゼル一号が死んじまったんだよぉ……」
ずびずびと鼻を啜り、泣き腫らした目を擦りながらベルガーはそう零した。
「………そう」
話を聞きながら、エンゼル一号って誰だっけ、と彼女は眉を吊り上げる。
庭園の一角、白い丸テーブルと白い椅子に優雅に腰掛け、ティータイムと洒落込んでいた彼女の時間は、ベルガーの乱入によってぶち壊された。
世界帝軍基地の広大な庭園。その一角にアインスの花壇がある。ベルガーは、よりにもよってそこに死んだエンゼル一号の墓を作ろうとしていたらしい。日課の水遣りに来たアインスが現場を目撃し、ベルガーを現行犯逮捕。「花壇を荒らすな、掘り起こすな」とこっ酷く叱られたようだ。
「それは、あの人の大事な花壇に手を出した貴方が悪い。せめて許可を取るべきだったわね」
仮に申請したとしても許可など得られないだろうが、という感想は心に留めておく。
「だってよぉ…、きちんと弔ってやりたいじゃねぇか」
「今更なんだけど、エンゼル一号って誰?」
「俺の飼ってた淡水魚だよっ!!」
何でもっと早く聞かねぇんだ、今まで何だと思ってたんだ、とベルガーが騒ぎ出す。
「そういえば、貴方の部屋に水槽があったわね。そこで泳いでた魚のことかしら」
「エンゼルフィッシュだ」ベルガーはゴシゴシと目を擦り、はああと大きく溜息をつく。「俺だけのエンゼル……ぐす」
エンゼルフィッシュは、観賞用熱帯魚の代名詞とも言えるほどポピュラーな魚だ。背びれと尾びれ、尻びれが長く、特徴的な縦長の体型をしている。さまざまな品種改良が行われているため、その色や模様の種類は多岐に渡るという。
「残念だったわね」
彼女は、紅茶を飲みながらしれっとそう告げる。生き物が死んでしまったというのに、随分と冷淡な反応だ。
「なにそれ冷てぇ! 俺のエンゼルが死んじまったんだぞ、もっと悲しめよ! そして俺を慰めてっ!!」
「貴方が悲しむのは分かるけれど、私も一緒に悲しむ必要はないかと。第一、エンゼル一号のこと知らなかったし」
「マスターちゃんって、けっこードライなとこあるよな……」
「そう?」
「犬とか猫とか、生き物を可愛がろうとする気持ち、ちゃんとあんの?」
「さあ」
そんな事考えたこともない、興味もない。クールな表情の彼女は、しかし別の事を考えては目の色を変えて呟いた。
「美味しそうと思う時はあるわね」
「マスターちゃん、面食いなうえに食い意地まで……」
「エンゼルフィッシュも、実は揚げ物にしたいと考えていたの。あの尾びれとか、パリッとしてて美味しそう」
「鬼畜うううっ!!」
バンッと白テーブルを叩いて勢いよく立ち上がり、ベルガーはうわあああんと叫びながら帰って行った。
「淡水魚なんだから、川に還してあげたら?」
彼女のせっかくのアドバイスも、ベルガーの耳には届かない。
(ペットねぇ……)
ティーカップに紅茶を注ぎ直しながら、彼女は昔を思い出した。
幼い頃の彼女には、ちゃんと生き物を愛でる気持ちがあったのだ。
***
「捨ててこい」
この一言を聞いた時ほど、アインスの冷徹さを思い知ったことはない。
少女は基地内の庭園で、ちょまちょまと歩いている子犬を拾い上げた。
クリーム色の毛皮に垂れた耳、つぶらな瞳が愛らしいワンちゃん。とても可愛い。
今思えば、迷い犬だったのかもしれない。首輪はしていなかったが、毛並みの綺麗な上品な犬だった。どこかで大切に飼われていた子が、何かの拍子に逃げ出して、誤ってこんな辺鄙な場所まで迷い込んでしまったのだろう。
当時の彼女はそこまで考えが及ばず、純粋に子犬を可愛いと思い、この子を飼いたいと思った。そして、まずアインスのところへ向かう事にした。幼い彼女でも、自分に一番甘い貴銃士をちゃんと知っている。
既に女の狡さを兼ね備えている子供だった。
「お嬢」
アインスは、ジョウロの水を切り上げて、少女が抱えている生き物を見ては顔を顰めた。
「そいつはなんだ」
「向こうの芝生を歩いてたから、拾ってきたの」
「まさか、飼いたいなんて言うんじゃねぇだろうな?」
「飼いたい」
「ダメだ」
彼にしては珍しく、少女の我儘を一刀両断にする。これほどきっぱりと頼み事を断られた事は今までに無かったため、彼女は目をまん丸くして驚いた。
「どうせ迷い犬だろう。基地の外に捨ててこい」
「どうしてそんな事を言うの」
「嘘泣きしても、ダメなものはダメだ」
「………」
無言の非難。恨めしそうな大きな瞳で、彼女はアインスを睨みつける。
「私がお願いしてるのに。おまえそれでもアインスなの」
「俺の事何だと思ってやがる」甘やかし過ぎたなと今更反省し、アインスは深い溜息を漏らした。
「犬はダメだ。外で好き勝手にマーキングする上に用を足すだろう。俺の花壇で粗相をすることは絶対に許さねぇ」
「大丈夫よ、私がちゃんと見てるもの」
「とにかく却下だ」彼は苛ついたように凄んだ声で、言い放つ。
「その犬っころを捨ててこい」
「ケチ!」
彼女はべっと小さな舌を出して、子犬を抱えたまま走り去る。
(まったく……、子守りも楽じゃねぇな)
小さな後ろ姿を見送って、やれやれとアインスは独り言ちた。
「ま、俺が言わなくても、ファルの奴が許さねぇと思うんだがな」
アインスの次に貴銃士の中で権威のある者といえば、彼の補佐であるあの男だろう。
「ほう」
子犬を抱えてのこのことやってきた少女を、ファルは蔑むように見下した。
「つまり貴女様は、その子犬を飼いたいと仰るので?」
「…………」
いつも胡散臭い微笑みを浮かべているくせに、こんな時に限って彼は真顔である。もしかしたらアインスと同じように、犬が嫌いなのかもしれない。
「この世界帝府の権威ある軍事施設に、すでに貴女のような子供を野放しにしているのですよ。これ以上ペットを増やさないでほしいものですね」
ナチュラルに「ペット」と形容されたが、幼い彼女に彼の悪意を汲み取るほどの邪念はない。
「でも……、飼わせてほしいの……」
彼女が恐々とそう言うと、やれやれと彼は肩をすくめた。
「もっと淑女らしく言えないものですかね」
少女は小さな頭で有らん限りの知識を絞り出す。
「か……、飼ってもよくって?」
「は〜い、よく出来ました」
にっこりと微笑む彼に、ひっと喉を痙攣らせる。この男は、どんな表情をしていても怖い。絶対何か裏があるもの。
「お利口さんなお嬢様に、ご褒美を差し上げなくては。さて、何が良いでしょう」
彼女はぐるぐると必死で言葉遣いを考える。ただ子犬を飼いたいと伝えるだけなのに、何故これほど苦労しなければならないのか。
「そういえば、東洋には犬を鍋にして食べる国があると聞きます」
「えっ」
「ふふ。今夜は犬鍋にしましょうか?」
「っっ………!!?」
「お嬢様、ご心配なく。このファルが美味しく調理して差し上げますよ」
「ホクサイに差し出すのもアリですね。良い実験体になるでしょう」
「わああん! キチク! サディスト!!」
意味を解しているのかどうかは分からないが、少女の甲高い声が至極的確な言葉で彼の人間的欠陥を責め立てている。
「はは」
子犬の首根っこを片手で掴み、その子を返してと片脚にしがみついて泣きじゃくる少女を平気で引き摺り歩きながら、ファルは笑った。
「褒め言葉ですかねぇ」
・少女の後ろ姿を見送ったアインスと、通りすがりの89くん
「おい。泣くなよ」
「泣いてねぇ」
「別に嫌われてねーよ。あのガキだって明日にはけろっとしてるぜ、多分」
「マスターのご息女をガキなんて呼ぶな。今すぐ訂正しろ」
「突っ込むとこそこかよ。……やっぱ泣いてるじゃねぇか」
「こいつは汗だ」
「………これで汗拭けよ」
89が徐に差し出したハンカチを「すまん」とアインスは受け取った。
こんなんで仁義なきスナイパーのラスボスが務まるのだろうか、と89は心配になった。