side story
【暇を持て余した慇懃無礼系貴銃士の遊び】
「お嬢様。どうぞ私の頰を打ってください」
さあ早く、やるからには思い切り、と今か今かと打たれるのを待っているのは、あの男。
「………」
彼女は、黙示録のラッパ吹きという、この世の終末をカウントダウンする天使のラッパを思い出した。第一から第七の、全てのラッパが吹き終わる頃、この世界は破滅を迎える。
今まさに彼女の世界で、第一のラッパが鳴り始めているようだ。
「ファル、貴方。ついに頭がおかしくなったの」
彼女は眉間に皺を寄せ、米神を押さえて目を瞑る。それともこの私が疲れていて、可笑しな幻影が視えているのかしら。彼女は目の前の光景が幻であることを願い、目を開ける。しかしそこには、彼が変わらず右頬を差し出して微笑んでいる。ああなんてこと、こんな現実は直視しがたい、と彼女は再び目を瞑った。
「いいえお嬢様。ファルは通常運転でございます」
「貴方きっと疲れているのよ。有給休暇を差し上げますから、ゆっくり休んできなさい。そして二度と戻ってこなくてよろしい」
「なんて優しいお言葉」
彼女の背筋にぞぞっと悪寒が走る。だめだわ、目を瞑っているのも怖い。
彼女は止む無く目を開けて、受け入れがたい現実と向き合うことにした。
「どういう風の吹き回し?」
「お嬢様、小さい頃からこの私を殴りたいと仰っていたではありませんか」
果たしてそんな事言っただろうか。殴りたいとは常々心に思っているので、もしかしたら口に出してしまった事があるかもしれない。
「ですので、私の気が向いた機会に、お嬢様に頰を打たせようかと」
「ちょっと待って、間が抜け過ぎてる。一体貴方に何が起きたの」
「イエスも言われたではありませんか。『だれかがあなたの右の頰を打つなら、左の頰をも向けなさい』」
「ええ言ったわね。でも私は、貴方の右頰も左頰も打ったことはなくてよ」
「では今から打てばいいのです」ファルは清らかな微笑を浮かべ、さあどうぞと再び右頰を差し出す。だめだわこの人、私の話なんてさらさら聞く気ない。
「あーーーっ! 娘ちゃん見ーーっけ!!」
間が悪いというか、丁度良いところにと言うべきか。ベルガーがフードのウサギ耳をひょこひょこ跳ねさせながら呑気に歩いて来る。
「ファルせんせーも一緒じゃん。またせんせーに小煩く言われてんの?」ぶくくと面白そうに頰を膨らませて笑いながら、ベルガーはにんまりと目でも笑ってみせた。
「娘ちゃん、気苦労耐えなくてカッワイソーな。あひゃひゃひゃ」
「ベルガー」
彼女は右頰を差し出す男から素早く視線を逸らし、彼を指差してさらりと告げる。
「ファルが貴方に殴られたいって」
「なにそれキモチワルッッ!!!」
「ははっ」
ファルはベルガーの驚嘆を一笑して、どこからともなく手にした本体の銃口をガツンとベルガーの口に突っ込んだ。
「そんな稚拙な悪口を口走るのは、このお口ですかな?」
逃げ足だけは早いベルガーの後ろ姿を見送って、彼女はすうと遠い目をする。良い生贄が見つかったと思ったのに、またふりだしに戻ってしまった。
「この私としたことが、あんな汚物に本体の一部を突っ込んでしまいました」
言いながら、ファルは自身の銃口をタオルでふきふきと拭き取る。拭き終えるとタオルをこれまた汚物のように投げ捨て、「さて」と朗らかな声を上げ、振り向いた。
この男、どう足搔いても頰を打たれるまで立ち去らないつもりだな。
「ええ分かったわ。打てばいいのでしょう」
彼女は覚悟を決めて、はあーと深く息を吐き出す。こうなったらもうヤケだ。彼の思惑は闇の彼方だが、せっかくの機会なのだから、積年の恨み晴らさせてもらおう。
「どうかお手柔らかにお願いします」
もうその笑顔ヤメテ。
お願いだから。
「っこの鬼畜!!」うおおおと覇気を込めて、彼女は左手を思いっきり振り上げた。
「変態! ドS! 腐れ外道っ!!」
思いつく限りの言葉で詰り、その手を振り下ろさんとするものの。
「お嬢様。手が止まっておりますが」
ファルは右頰を差し出したまま、振り上げたままの左手をプルプルと震わせている彼女を一瞥する。「これではただの言葉責めです」
「やっぱり駄目…!」彼女はあっさりと左手を下ろし、苦悶の表情を浮かべて首を横に振った。
「私、面食いだから。貴方の顔を打つなんて無理。出来るわけない」
「はい?」
「ファル、自分の顔は大切になさい。貴方から顔を奪ったら、何の取り柄もなくなるわ」
「お嬢様…」
ファルはもう頰を差し出していない。しかし今度は、神妙な面持ちで彼女を見つめていた。
「容姿をお褒めにいただき大変恐縮なのですが……、そんな面食いでこの先結婚できるので?」
「誰のせいだと思ってるのよ」
貴銃士とは、絶対高貴を追い求めて戦う「美しき若者たち」。
彼等に囲まれて育った彼女の目が肥えてしまうのは、必然である。
***
「っこの鬼畜!!」
「変態! ドS! 腐れ外道っ!!」
「………」
何やってんだアイツ。
89は、ファルに罵声を浴びせているマスター娘の後ろ姿を遠目に捉えて唖然とする。何と言うか、今までに見たことのない珍妙な構図である。あれもファルの彼女に対する嫌がらせの一種なのだろうか。
くだらねぇ、と89は目を逸らし、さっさと足早に立ち去ろうとした。あんな訳の分からねぇ事件に巻き込まれるのはご免だぜ。
「引き返すぞ、ミカエル」
彼は、隣を歩いている馴染みの貴銃士に声を掛ける。
「おや。今の罵声はお嬢様かな?」
耳の良いミカエルは、彼女の声を拾って興味深そうに呟いた。彼女があんな風に誰かを詰るなんて、幼少期以来ではないかな、と。
「ああ。よく分かんねーけど、あの女、ファルの奴にそう叫んでる」
踵を返しながら89が答えると、ミカエルは少なからず驚いたようだ。
「ファルさんに?」
「不気味だよな、まったく…。ありゃ一体何のフラグだよ」
89はブツブツ言っている。ミカエルは彼の後ろについて歩きながら、ふぅんと意味深に呟いた。
「ファルさんが羨ましいね」
「ッ…………!!!?」
(文化の……違っ……!???)
「やあ89クン! 今日は見事に真っ青な顔色だね〜!!」
引き返した道すがら、89の顔色を伺ったホクサイがそう声を弾ませて笑った。
「お嬢様。どうぞ私の頰を打ってください」
さあ早く、やるからには思い切り、と今か今かと打たれるのを待っているのは、あの男。
「………」
彼女は、黙示録のラッパ吹きという、この世の終末をカウントダウンする天使のラッパを思い出した。第一から第七の、全てのラッパが吹き終わる頃、この世界は破滅を迎える。
今まさに彼女の世界で、第一のラッパが鳴り始めているようだ。
「ファル、貴方。ついに頭がおかしくなったの」
彼女は眉間に皺を寄せ、米神を押さえて目を瞑る。それともこの私が疲れていて、可笑しな幻影が視えているのかしら。彼女は目の前の光景が幻であることを願い、目を開ける。しかしそこには、彼が変わらず右頬を差し出して微笑んでいる。ああなんてこと、こんな現実は直視しがたい、と彼女は再び目を瞑った。
「いいえお嬢様。ファルは通常運転でございます」
「貴方きっと疲れているのよ。有給休暇を差し上げますから、ゆっくり休んできなさい。そして二度と戻ってこなくてよろしい」
「なんて優しいお言葉」
彼女の背筋にぞぞっと悪寒が走る。だめだわ、目を瞑っているのも怖い。
彼女は止む無く目を開けて、受け入れがたい現実と向き合うことにした。
「どういう風の吹き回し?」
「お嬢様、小さい頃からこの私を殴りたいと仰っていたではありませんか」
果たしてそんな事言っただろうか。殴りたいとは常々心に思っているので、もしかしたら口に出してしまった事があるかもしれない。
「ですので、私の気が向いた機会に、お嬢様に頰を打たせようかと」
「ちょっと待って、間が抜け過ぎてる。一体貴方に何が起きたの」
「イエスも言われたではありませんか。『だれかがあなたの右の頰を打つなら、左の頰をも向けなさい』」
「ええ言ったわね。でも私は、貴方の右頰も左頰も打ったことはなくてよ」
「では今から打てばいいのです」ファルは清らかな微笑を浮かべ、さあどうぞと再び右頰を差し出す。だめだわこの人、私の話なんてさらさら聞く気ない。
「あーーーっ! 娘ちゃん見ーーっけ!!」
間が悪いというか、丁度良いところにと言うべきか。ベルガーがフードのウサギ耳をひょこひょこ跳ねさせながら呑気に歩いて来る。
「ファルせんせーも一緒じゃん。またせんせーに小煩く言われてんの?」ぶくくと面白そうに頰を膨らませて笑いながら、ベルガーはにんまりと目でも笑ってみせた。
「娘ちゃん、気苦労耐えなくてカッワイソーな。あひゃひゃひゃ」
「ベルガー」
彼女は右頰を差し出す男から素早く視線を逸らし、彼を指差してさらりと告げる。
「ファルが貴方に殴られたいって」
「なにそれキモチワルッッ!!!」
「ははっ」
ファルはベルガーの驚嘆を一笑して、どこからともなく手にした本体の銃口をガツンとベルガーの口に突っ込んだ。
「そんな稚拙な悪口を口走るのは、このお口ですかな?」
逃げ足だけは早いベルガーの後ろ姿を見送って、彼女はすうと遠い目をする。良い生贄が見つかったと思ったのに、またふりだしに戻ってしまった。
「この私としたことが、あんな汚物に本体の一部を突っ込んでしまいました」
言いながら、ファルは自身の銃口をタオルでふきふきと拭き取る。拭き終えるとタオルをこれまた汚物のように投げ捨て、「さて」と朗らかな声を上げ、振り向いた。
この男、どう足搔いても頰を打たれるまで立ち去らないつもりだな。
「ええ分かったわ。打てばいいのでしょう」
彼女は覚悟を決めて、はあーと深く息を吐き出す。こうなったらもうヤケだ。彼の思惑は闇の彼方だが、せっかくの機会なのだから、積年の恨み晴らさせてもらおう。
「どうかお手柔らかにお願いします」
もうその笑顔ヤメテ。
お願いだから。
「っこの鬼畜!!」うおおおと覇気を込めて、彼女は左手を思いっきり振り上げた。
「変態! ドS! 腐れ外道っ!!」
思いつく限りの言葉で詰り、その手を振り下ろさんとするものの。
「お嬢様。手が止まっておりますが」
ファルは右頰を差し出したまま、振り上げたままの左手をプルプルと震わせている彼女を一瞥する。「これではただの言葉責めです」
「やっぱり駄目…!」彼女はあっさりと左手を下ろし、苦悶の表情を浮かべて首を横に振った。
「私、面食いだから。貴方の顔を打つなんて無理。出来るわけない」
「はい?」
「ファル、自分の顔は大切になさい。貴方から顔を奪ったら、何の取り柄もなくなるわ」
「お嬢様…」
ファルはもう頰を差し出していない。しかし今度は、神妙な面持ちで彼女を見つめていた。
「容姿をお褒めにいただき大変恐縮なのですが……、そんな面食いでこの先結婚できるので?」
「誰のせいだと思ってるのよ」
貴銃士とは、絶対高貴を追い求めて戦う「美しき若者たち」。
彼等に囲まれて育った彼女の目が肥えてしまうのは、必然である。
***
「っこの鬼畜!!」
「変態! ドS! 腐れ外道っ!!」
「………」
何やってんだアイツ。
89は、ファルに罵声を浴びせているマスター娘の後ろ姿を遠目に捉えて唖然とする。何と言うか、今までに見たことのない珍妙な構図である。あれもファルの彼女に対する嫌がらせの一種なのだろうか。
くだらねぇ、と89は目を逸らし、さっさと足早に立ち去ろうとした。あんな訳の分からねぇ事件に巻き込まれるのはご免だぜ。
「引き返すぞ、ミカエル」
彼は、隣を歩いている馴染みの貴銃士に声を掛ける。
「おや。今の罵声はお嬢様かな?」
耳の良いミカエルは、彼女の声を拾って興味深そうに呟いた。彼女があんな風に誰かを詰るなんて、幼少期以来ではないかな、と。
「ああ。よく分かんねーけど、あの女、ファルの奴にそう叫んでる」
踵を返しながら89が答えると、ミカエルは少なからず驚いたようだ。
「ファルさんに?」
「不気味だよな、まったく…。ありゃ一体何のフラグだよ」
89はブツブツ言っている。ミカエルは彼の後ろについて歩きながら、ふぅんと意味深に呟いた。
「ファルさんが羨ましいね」
「ッ…………!!!?」
(文化の……違っ……!???)
「やあ89クン! 今日は見事に真っ青な顔色だね〜!!」
引き返した道すがら、89の顔色を伺ったホクサイがそう声を弾ませて笑った。