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新館の正面玄関を抜け、突き当たりを右に。そのまま進み、左手に見えた階段を上る。1階分を登りきったらすぐに見える渡り廊下をさらに東に進めば、程なくしてその部屋は現れる。所狭しと一部屋に兵士が押し込められ廊下までもが人気 であふれていた旧南方司令部は、一部老朽化と拡張を理由に、新しい棟が増築された。完成してからは新しく建てられた棟を新館、以前のものを旧館と呼ぶのが一般に浸透した。比較的移動が楽な新しい隊が優先的に新館へと移動し、旧館に残った十数隊が旧館組などと呼ばれていたのは半世紀以上も前のことだ。今や旧館のほとんどの部屋は物置や資料室となっており、旧館組も皆異動や退役、殉職など様々な理由でここへ残ってはいない。
したがって人通りと言えば、週に1度の衛生と設備点検に来る掃除婦か、2週間に1度古い資料か備品を取りに来る兵士、そして現役唯一の旧館組である一隊に所属する者のみとなっている。
ドアノブを捻ればいつもの職場の風景の中に、いつものように部下よりも早く出勤をすませている上官が見えた。
「おはよう」と上官の女は言った。挨拶をする彼女の目線は手元から外されず、書類を持っていない右手は何かを探す素振りで机上の宙を彷徨っている。
「おはようございます、フィオーレ少将」と、今し方部屋に入ってきた男は言った。
「急ぎの書類ですか」
時計の針は午前8時30分を指していた。彼女がまだ始業時刻にも満たないような時刻から仕事に手を付けるのは珍しい。「そうだ。」とフィオーレ少将と呼ばれた女は言った。そして、掴もうとしていた何かがなかったのか物寂しげに宙を掻いた片手を頬に収めた。頬杖によって、ぷにと盛り上がる頬の柔肉には幼さを感じさせられる。
一呼吸程度の沈黙を経て、上官は再び口を開いた。
「さて、先週の騒動の件につきましては、管轄外にもかかわらず、貴隊に所属するキンブリー少佐には事態の一刻も早い沈静にご尽力頂き誠にありがとうございました」「……わざわざ御礼状をくださるとは、丁寧な方々ですね」働きがいのあるものです、と男、キンブリーは心にもない相槌を打った。それは、上官の手元に『南方司令部東D区内における強盗殺人犯の現行犯爆殺処置についての報告文書』と大見出しの付けられたレポートが見えたためであり、大方、あのビジネス文書の定型文の続きには、感謝とは程遠い言葉の数々が並んでいるであろうことは想像に難くないためであった。管轄外にもかかわらず、という文言からも東D区を管轄とする隊の者たちの嫌味が滲み出ている。
上官は書類からゆっくりと目線を上げた。その素振りと並行するように、キンブリーは自身に与えられた机から退勤管理シートを取り出す。上官が用意しているスタンド式のデータネームを所定の位置に押せば、勤務開始を示す公的な証明が完了する。時給制のアルバイトでもあるまいし、こんな紙切れ一枚が人事考課に影響を及ぼすなど馬鹿馬鹿しいと思わないと言えば嘘になるが、キンブリーは特段自身の身に不都合がないことへの反抗心は持ち合わせていない。
退勤管理シートを元あった机の抽斗に戻す。その間も感じる上官からの冷ややかな視線に答えるべく、彼はやれやれといった様子を滲ませながら部屋の隅にある簡易的な水屋へと足を進めた。
「手柄を上げた私の昇進推薦状でも書かれてるんですか」キンブリーは戸棚からコーヒー豆を取り出すと、2つのうちの黒いミルにコーヒースプーン1杯分の豆を入れた。
「…お前が血で描いてくれた、私の降格推薦状の取り下げ請願状だ」そう言って上官は、ぱさりと机の上に”感謝状”を放った。
「おやおや、心外ですね。私は目の前で危険に晒されている善良な市民を守ったというのに」ミルの取手を時計回りに回せば、コーヒー豆特有の良い香りが部屋に広がる。
「反省が見られなければ懲罰訓練の実施を検討されては如何でしょうかと続いているが」と上官は、ブラックコーヒーの苦味を堪えるような笑みを浮かべながら言った。彼女の味覚は容姿の年齢相応であるようで、ジャンクフードやスイーツを好むがブラックコーヒーや香辛料の類を好まなかった。
「懲罰訓練の実施ですか」
懲罰訓練とは、ある程度定期的に実施されている演習とは別に、主に軍の規律を乱した者に課せられる訓練の俗称である。法的な刑ではないために、司法を通さず上官の裁量で訓練内容が決定される。縦社会を体現したような悪しき習慣である。しかしながら、温室から士官学校を経て大学院を通過したような士官コースのエリート(素行がいい者だけとは言い切れないが)ではない、自身の名前を書き武器が扱えればそれで良しとされ、最下層の駒として扱われる者たちをまとめ上げるためには、致し方ない制度とも言える。言葉の通じない獣のしつけには折檻しかないというのは、些か前時代的とも思えるがここは教育機関ではない。上官の言葉を借りるならば、国家の犬小屋なのだ。
「ブリッグズ山にて1ヶ月のサバイバル訓練を実施、と書いて申請しておこう」と上官は悪戯な笑みを浮かべる。父の万年筆を隠して困らせる娘に、悪意のスパイスを3度振り足したような表情は、年齢相応とはとても言い難い。
「熊の餌になれと」そう言ってキンブリーは、細かく粉砕されたコーヒー豆をフィルターへかけた。
「なに、東D区と同じように爆殺してくれて構わんよ」水屋からマグカップを2つ取り出す。1つには計量スプーン1杯のココア入れる。小鍋へ水を入れ、鍋の底へ描かれた錬成陣に軽く手を添えれば、ほんの1,2秒程度でブクブクと沸騰を始めた。そのお湯をケトルへ注ぎ、円錐に押し込められたコーヒーの粉末へと注ぐ。
「熊なら誰も文句は付けんさ」作業台の下に置かれた小さな冷蔵庫からミルクを取り出し250mlほどの量を小鍋へ移す。
「私は寒い所は好みませんね」そして、鍋の底へ手を添え、先程と同じ要領で錬成する。目分量でもマグカップ1杯分のミルクを測り取れてしまう程度には、キンブリーはミルクココアを作り慣れてしまっていた。それは新兵としての最初の任務であり、定常業務の一部に組み込まれた作業であるからだ。右手でケトルのお湯を注ぎながら、左手でホットミルクをマグカップへ注ぎ切る。
ホットココアを手渡すと、邪気のない小さな微笑みを浮かべる上官は、レポート用紙の最後のページを指した。
「…ブリッグズ旅行延期の旨、そこにサインしておけよ」
「わかりました」と、キンブリーは短く返事をした。上質な紙に、上質な万年筆を走らせる。ちらりと見えた若いページには、如何にも正義であると主張するような小綺麗な言葉がつらつらと並んでいた。
こんな紙切れ1枚で命の処理が済むとは、なんと馬鹿らしいことか。万年筆が紙を滑る。
ふと、頭に浮かんだ紙切れという言葉に、キンブリーは何故管轄外にも関わらず東D区に出かけていたかを思い出した。
「そういえばタブリスからの…国境付近駅への切符を取ってありますよ」
キンブリーは、南方司令部の最寄り駅であるタブリスからの乗車券と座席券とともに領収書を手渡す。従軍を示す制服とともに、上官が少将ともなれば話は早く、窓口ではなんの滞りもなく領収書を発行してくれた。ただでさえ国家錬金術師として給料とは別に破格の研究費用を受け取っているにも関わらず、公務となればきっちりと交通費が支給されるあたり、侵略戦争を繰り返す軍事国家の財源には驚かされる。
降車駅の名前は駅員が調べてくれたために忘れてしまったが、兎に角国境付近にある基地の最寄り駅に用事があるらしい事のみキンブリーは承知していた。
1人分の乗車券と座席券、そして領収書を受け取った上官は眉をひそめた。
「キンブリー少佐」
「何でしょう」と、キンブリーは言った。何でしょうと言ってはみたが、その理由は分かりきっていた。
「お前は本当に余計なことを…」上官は小さく声を漏らした。その手にある動物のキャラクタが描かれた、やけに可愛らしいデザインの座席券には、幼児席の3文字がしっかりと印字されていた。
「節約ですよ」そう言ってニコリと笑うキンブリーに、上官は小さな溜息を吐き出した。上官には、この部下を持ってから、今までにない程に溜息の数が増えたと思えて仕方がなかった。
「こんな数千セントを節約する前に、2ヶ月で爆破する建物の数を半分に減らすことを強くおすすめする」
「やはり削れるところから削るべきかと思いまして」
言外に爆破を自重する気はさらさらないという部下に漏れかけた溜息を飲み込み、サインが書き込まれたレポートを受け取った。
時刻は午前9時になるところだ。鳩時計が始業を合図する音が鳴る。
南方司令部最後の旧館組フィオーレ分隊分隊長リファ・フィオーレ少将と、直属の部下ゾルフ・J・キンブリー少佐の活動記録を以下に示す。
したがって人通りと言えば、週に1度の衛生と設備点検に来る掃除婦か、2週間に1度古い資料か備品を取りに来る兵士、そして現役唯一の旧館組である一隊に所属する者のみとなっている。
ドアノブを捻ればいつもの職場の風景の中に、いつものように部下よりも早く出勤をすませている上官が見えた。
「おはよう」と上官の女は言った。挨拶をする彼女の目線は手元から外されず、書類を持っていない右手は何かを探す素振りで机上の宙を彷徨っている。
「おはようございます、フィオーレ少将」と、今し方部屋に入ってきた男は言った。
「急ぎの書類ですか」
時計の針は午前8時30分を指していた。彼女がまだ始業時刻にも満たないような時刻から仕事に手を付けるのは珍しい。「そうだ。」とフィオーレ少将と呼ばれた女は言った。そして、掴もうとしていた何かがなかったのか物寂しげに宙を掻いた片手を頬に収めた。頬杖によって、ぷにと盛り上がる頬の柔肉には幼さを感じさせられる。
一呼吸程度の沈黙を経て、上官は再び口を開いた。
「さて、先週の騒動の件につきましては、管轄外にもかかわらず、貴隊に所属するキンブリー少佐には事態の一刻も早い沈静にご尽力頂き誠にありがとうございました」「……わざわざ御礼状をくださるとは、丁寧な方々ですね」働きがいのあるものです、と男、キンブリーは心にもない相槌を打った。それは、上官の手元に『南方司令部東D区内における強盗殺人犯の現行犯爆殺処置についての報告文書』と大見出しの付けられたレポートが見えたためであり、大方、あのビジネス文書の定型文の続きには、感謝とは程遠い言葉の数々が並んでいるであろうことは想像に難くないためであった。管轄外にもかかわらず、という文言からも東D区を管轄とする隊の者たちの嫌味が滲み出ている。
上官は書類からゆっくりと目線を上げた。その素振りと並行するように、キンブリーは自身に与えられた机から退勤管理シートを取り出す。上官が用意しているスタンド式のデータネームを所定の位置に押せば、勤務開始を示す公的な証明が完了する。時給制のアルバイトでもあるまいし、こんな紙切れ一枚が人事考課に影響を及ぼすなど馬鹿馬鹿しいと思わないと言えば嘘になるが、キンブリーは特段自身の身に不都合がないことへの反抗心は持ち合わせていない。
退勤管理シートを元あった机の抽斗に戻す。その間も感じる上官からの冷ややかな視線に答えるべく、彼はやれやれといった様子を滲ませながら部屋の隅にある簡易的な水屋へと足を進めた。
「手柄を上げた私の昇進推薦状でも書かれてるんですか」キンブリーは戸棚からコーヒー豆を取り出すと、2つのうちの黒いミルにコーヒースプーン1杯分の豆を入れた。
「…お前が血で描いてくれた、私の降格推薦状の取り下げ請願状だ」そう言って上官は、ぱさりと机の上に”感謝状”を放った。
「おやおや、心外ですね。私は目の前で危険に晒されている善良な市民を守ったというのに」ミルの取手を時計回りに回せば、コーヒー豆特有の良い香りが部屋に広がる。
「反省が見られなければ懲罰訓練の実施を検討されては如何でしょうかと続いているが」と上官は、ブラックコーヒーの苦味を堪えるような笑みを浮かべながら言った。彼女の味覚は容姿の年齢相応であるようで、ジャンクフードやスイーツを好むがブラックコーヒーや香辛料の類を好まなかった。
「懲罰訓練の実施ですか」
懲罰訓練とは、ある程度定期的に実施されている演習とは別に、主に軍の規律を乱した者に課せられる訓練の俗称である。法的な刑ではないために、司法を通さず上官の裁量で訓練内容が決定される。縦社会を体現したような悪しき習慣である。しかしながら、温室から士官学校を経て大学院を通過したような士官コースのエリート(素行がいい者だけとは言い切れないが)ではない、自身の名前を書き武器が扱えればそれで良しとされ、最下層の駒として扱われる者たちをまとめ上げるためには、致し方ない制度とも言える。言葉の通じない獣のしつけには折檻しかないというのは、些か前時代的とも思えるがここは教育機関ではない。上官の言葉を借りるならば、国家の犬小屋なのだ。
「ブリッグズ山にて1ヶ月のサバイバル訓練を実施、と書いて申請しておこう」と上官は悪戯な笑みを浮かべる。父の万年筆を隠して困らせる娘に、悪意のスパイスを3度振り足したような表情は、年齢相応とはとても言い難い。
「熊の餌になれと」そう言ってキンブリーは、細かく粉砕されたコーヒー豆をフィルターへかけた。
「なに、東D区と同じように爆殺してくれて構わんよ」水屋からマグカップを2つ取り出す。1つには計量スプーン1杯のココア入れる。小鍋へ水を入れ、鍋の底へ描かれた錬成陣に軽く手を添えれば、ほんの1,2秒程度でブクブクと沸騰を始めた。そのお湯をケトルへ注ぎ、円錐に押し込められたコーヒーの粉末へと注ぐ。
「熊なら誰も文句は付けんさ」作業台の下に置かれた小さな冷蔵庫からミルクを取り出し250mlほどの量を小鍋へ移す。
「私は寒い所は好みませんね」そして、鍋の底へ手を添え、先程と同じ要領で錬成する。目分量でもマグカップ1杯分のミルクを測り取れてしまう程度には、キンブリーはミルクココアを作り慣れてしまっていた。それは新兵としての最初の任務であり、定常業務の一部に組み込まれた作業であるからだ。右手でケトルのお湯を注ぎながら、左手でホットミルクをマグカップへ注ぎ切る。
ホットココアを手渡すと、邪気のない小さな微笑みを浮かべる上官は、レポート用紙の最後のページを指した。
「…ブリッグズ旅行延期の旨、そこにサインしておけよ」
「わかりました」と、キンブリーは短く返事をした。上質な紙に、上質な万年筆を走らせる。ちらりと見えた若いページには、如何にも正義であると主張するような小綺麗な言葉がつらつらと並んでいた。
こんな紙切れ1枚で命の処理が済むとは、なんと馬鹿らしいことか。万年筆が紙を滑る。
ふと、頭に浮かんだ紙切れという言葉に、キンブリーは何故管轄外にも関わらず東D区に出かけていたかを思い出した。
「そういえばタブリスからの…国境付近駅への切符を取ってありますよ」
キンブリーは、南方司令部の最寄り駅であるタブリスからの乗車券と座席券とともに領収書を手渡す。従軍を示す制服とともに、上官が少将ともなれば話は早く、窓口ではなんの滞りもなく領収書を発行してくれた。ただでさえ国家錬金術師として給料とは別に破格の研究費用を受け取っているにも関わらず、公務となればきっちりと交通費が支給されるあたり、侵略戦争を繰り返す軍事国家の財源には驚かされる。
降車駅の名前は駅員が調べてくれたために忘れてしまったが、兎に角国境付近にある基地の最寄り駅に用事があるらしい事のみキンブリーは承知していた。
1人分の乗車券と座席券、そして領収書を受け取った上官は眉をひそめた。
「キンブリー少佐」
「何でしょう」と、キンブリーは言った。何でしょうと言ってはみたが、その理由は分かりきっていた。
「お前は本当に余計なことを…」上官は小さく声を漏らした。その手にある動物のキャラクタが描かれた、やけに可愛らしいデザインの座席券には、幼児席の3文字がしっかりと印字されていた。
「節約ですよ」そう言ってニコリと笑うキンブリーに、上官は小さな溜息を吐き出した。上官には、この部下を持ってから、今までにない程に溜息の数が増えたと思えて仕方がなかった。
「こんな数千セントを節約する前に、2ヶ月で爆破する建物の数を半分に減らすことを強くおすすめする」
「やはり削れるところから削るべきかと思いまして」
言外に爆破を自重する気はさらさらないという部下に漏れかけた溜息を飲み込み、サインが書き込まれたレポートを受け取った。
時刻は午前9時になるところだ。鳩時計が始業を合図する音が鳴る。
南方司令部最後の旧館組フィオーレ分隊分隊長リファ・フィオーレ少将と、直属の部下ゾルフ・J・キンブリー少佐の活動記録を以下に示す。