胃袋を掴まれたら最後
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〜胃袋を掴まれたら最後〜
治君が高校時代の同窓会へ出かけた夜。
私は珍しく、1人静まり返った台所に立っていた。
結婚して以来、台所は完全に治君の聖域だ。
料理が壊滅的に苦手な私に代わって、彼は毎日栄養満点の食事を作ってくれる。
それはもう、涙が出るほど美味しい。
だけど、同窓会の日くらいは、私の食事を気にせず楽しんできてほしかった。
そんな経緯から、私は仕事から帰宅後、早速夕食の用意をするために台所に立ったのだ。
「えーっと……まずはご飯炊けばいいかな?」
最近の炊飯器はボタン1つで炊けるはず。
そう高を括っていた私は、次の瞬間、収納棚の前で立ち尽くした。
いくら探しても、炊飯器が見当たらない。
代わりに棚の奥から出てきたのは、ずっしりと重く、使い込まれた黒い土鍋だった。
「もしかして、いつもこれで炊いていたの……?」
流石に、土鍋は無理だ。
早々に諦めた私は、パックご飯を探すことにした。
だけど、保存食が置いてある棚にはそれらしいものはない。
考えてみれば当たり前だ。
食……特に白飯に対して異常なこだわりのある治君が、パックご飯を常備しているなんて考えが甘かったのだ。
ただ、ご飯が炊けなくても、おかずだけならなんとかなるはず……。
早々に白旗を上げた私は、冷蔵庫を開けた。
そこには、治君によって適切な方法で仕分けられた食材たちが、綺麗に並んでいた。
「鮭がある……!あ、でも、これ明日使う予定だったら……。治君、困るよね」
下手なことはしない方がいい……。
私は静かに冷蔵庫を閉じた。
結局、戸棚の奥にしまっていたスナック菓子の袋を1つだけ持ち、リビングへと移動することにした。
「治君、今頃楽しんでるかなぁ……」
テレビを適当に流しながら、スナック菓子を頬張る。
パリパリと乾いた音が響く。
久しぶりに1人で過ごす部屋が、やたら広く感じられた、その時だった。
ガチャッ
「ただいまー。……あー、飲みすぎた」
「えっ?!」
心臓が口から飛び出るかと思った。
聞き間違えるはずのない、少し眠たげな低音。
慌てて口の中のものを飲み込み、私は反射的にスナック菓子の袋を背後に隠した。
「ちょっ、今日帰り遅いって!」
「……なんや、その挙動不審な動き。なんか隠しとるな?」
「な、何も!何も隠してないよ!」
玄関から現れた治君は、怪訝そうに私を見る。
「口元、何かついとるで」
「え、嘘っ!」
慌てて手で拭う私を見て、治君の唇が意地悪く弧を描いた。
「嘘や。……ほら、隠しとるもん出しぃ」
治君は私の背後に手を回し、スナック菓子の袋を取り上げた。
彼はそれを見て、スッと目を細めた。
「はよ、帰ってきて正解やったわ。俺がおらんからって、こんなんで腹満たそうと思っとったん?」
「ごめん……。だって私、料理できないし、治君いないと何食べていいか分かんなくて……」
「……お前なぁ。できんのはしゃあないけど、これはあかん」
治君は呆れたように息を吐くと、上着を脱ぎ捨て、すぐさま台所に立った。
酔っているはずなのに、その動きには一切の無駄がない。
そして、収納棚から土鍋を取り出した。
それは、先ほど私が諦めた調理器具だった。
「いつも土鍋で炊いてるの?」
「せやで。知らんかった?」
「……うん」
土鍋で炊いているところを見たことはある。
だけど、毎日だとは思わなかった。
だって、ご飯は大抵よそった状態で配膳されているから。
「土鍋の方が旨いやろ」
治君は米を研ぎながら、職人の顔で振り返る。
「ほんまは吸水させなあかんのやけど、腹ペコの誰かさんが待っとるで、このまま炊くわ。堪忍な」
「どのくらいで炊けるの?」
「沸騰したら15分もあれば炊けるで。その間、おかずも用意できる」
ガスコンロの青い炎が土鍋を包み込む。
沸騰を待つ間、彼は冷蔵庫から卵を取り出し、慣れた手つきで出汁と合わせ始めた。
それから、玉子焼き器でクルクルと器用に巻いていく。
香ばしい醤油と出汁の香りが、部屋中に満ちる。
さらに、私が悩んで触れなかった鮭が、グリルの中でパチパチと音を立てて脂を弾かせた。
「そろそろ、ええかな」
治君が土鍋の蓋を外すと、真っ白な湯気が立ち上がる。
「ほら、できたで」
だし巻き卵、皮までパリッと焼けた鮭、作り置きの漬物、そしていつの間にかできていた豆腐とワカメの味噌汁。
食卓に並べられたおかずは、短時間で作られたクオリティとは思えなかった。
「美味しい……!」
「せやろ?スナック菓子もええけど、あれはその場しのぎにすぎん。やっぱ、飯はちゃんと食わなな」
一口食べるごとに、スナック菓子で誤魔化そうとしていたお腹が、満たされていく。
治君は私の隣に座り、食べている姿を満足げに眺めていた。
「……治君がいないと、私、本当にダメ人間になりそう」
「知っとる。やから俺が一生、●●の飯作ったる。その代わり……」
治君は私の頬についた米粒を指で取ると、それを自分の口に運んでニカッと笑った。
「隠れてコソコソ食うのは禁止な。食いたいもんあったら、俺が作ってやるから。な?」
完敗だ。
この胃袋を掴まれている限り、私は一生、彼から離れられない。
ーーFinーー
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