熟年夫婦初心者
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〜熟年夫婦初心者〜
「◯◯、英語の教科書忘れたから貸して」
気だるげな声と共に教室に入ってきたのは、付き合って6年になる彼氏、松川一静だった。
長い付き合いのせいか、彼は挨拶もそこそこに私の席へと歩み寄る。
「ん」
私は短く応え、机の奥から教科書を取り出した。
差し出そうとした瞬間、彼の制服の袖口のボタンが取れかかっていることに気が付いた。
「ちょっと待って」
教科書を一度机に戻し、私は鞄から簡易裁縫道具を取り出した。
「ボタン取れそうだから腕出して」
「おう、悪い」
無造作に差し出された、骨張った男らしい手首。
その袖口を手に取り、手慣れた手つきでボタンを補強した。
一針一針丁寧に。
松川は無言で、そんな私の手元をじっと見下ろしている。
「……はい、できた」
「サンキューな。あと、教科書も」
淡白な礼。
彼は私の手から掠め取るように教科書を奪うと、一度もこちらを振り返ることなく教室を後にした。
手元には、白い糸の切れ端が虚しく残されている。
まるで、私の心情を表しているかのよう。
……でも、今日は大丈夫。
だって、今日は週に一度の松川の部活のオフの日。
久しぶりに彼と2人で帰る約束をしているから。
……。
…………。
授業が終わり、私は鞄に教材を入れて帰りの支度をしていると、勢いよく教室の扉が開けられた。
そこには急いでいる様子の松川がいた。
「◯◯、悪い。急遽ミーティング入った。今日、無理だわ」
彼は申し訳なさそうに眉を寄せる。
「……分かった」
「悪いな」
「今に始まったことじゃないでしょ。ほら行った行った」
そう、今に始まったことではない。
今日みたいに、どちらかに用事ができてダメになることなんて、多々ある。
私はわざとおどけたように、手のひらでシッシッと彼を追い払う仕草をした。
「サンキュ」
松川は一言だけ残し、嵐のように去っていく。
彼が謝る時、本当に悪いと思っているのか、それとも単なる社交辞令なのか。
最近の私にはもう判別がつかなかった。
そんな彼の背中を、やれやれという気持ちで見送った。
「アンタらって本当に熟年夫婦みたいだよね」
横で一部始終を見ていた友達のチヒロが、心底感心したように言った。
「束縛も嫉妬もしない。お互い自由っていうか。理想的」
「そう?慣れだよ、慣れ」
私は無理やり口角を上げ、乾いた笑みを浮かべる。
だけど、心の中は嘘で塗り固められていた。
唯一、彼を独り占めできるはずだった月曜日。
それすらも、最近は確保できていない。
“熟年夫婦”
周囲が私たちをそう呼ぶ理由は分かっている。
私が「会いたい」とも「寂しい」とも言わず、彼の忙しさを物分かり良く受け入れてしまうから。そのため、友達いわく、言葉を交わさずとも伝わっている、そんな雰囲気が出ているらしい。
……果たして、そうだろうか。
本当は、今すぐあの大きな背中にしがみつきたかった。
名前を呼んでほしかった。
子供みたいに甘えて、髪に触れて、馬鹿みたいに「好きだよ」って言い合いたかった。
大人びた松川に釣り合う女になりたくて、必死に背伸びをして、クールな仮面を被り続けた。
その結果がこれだ。
雑に扱われても怒らない女。
約束を破られても笑っている女。
優先順位が低くても、おとなしく待ち続ける女。
ねえ、松川、知ってる?
私、今でもアナタにときめいてるんだよ。
ボタンを縫った時に触れた手首。
その熱に、今も胸が苦しい。
私だけが、6年前から抱いている恋心に首を絞められている。
この関係は、もう、潮時なのかもしれない。
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