分かりにくいんだよ
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パチパチとキーボードを叩く音だけが、夜のオフィスに響いていた。
時計の針は、定時を大幅に過ぎている。
昼間、文書庫に閉じ込められたロスタイムが響いたワケではないけれど、結局その日の処理が終わらず、私と国見君は居残りで残業をする羽目になっていた。
「あー、目が疲れたーっ!」
パソコンの画面から目を逸らし、椅子の背もたれに体を預けて大きく伸びをする。
フロアにはもう、私たち以外の行員の姿はない。
国見君は、相変わらず淡々と画面に向かっているけれど、そのタイピングの速度は心なしかいつもより少し遅くて、彼も疲れが溜まっているのが分かった。
リフレッシュを兼ねて、私は席を立った。
「国見君、コーヒー飲む?淹れてくるけど」
「……ブラックをお願いします」
画面を見つめたまま返ってきた、短くて素っ気ない返事。
だけど、私は小さく笑みをこぼしながら給湯室へと向かった。
以前ならコーヒーの誘いすらバッサリ断ってきたのに、今では当たり前のように頼んでくれる。
その変化が、なんだか少し嬉しかった。
ーーーー
給湯室のシンクの前。
マグカップを並べ、ドリップペーパーにお湯をトポトポと静かに注いでいると、香ばしい香りが狭い空間に広がった。
それと同時に、昼間の、あの薄暗い文書庫のことが、ふっと脳裏をよぎる。
「キスをしないと出られない部屋、か……」
我ながら、冗談にしてもふざけすぎてしまった。
思い出すだけで、恥ずかしくなる。
一歩間違えれば翌朝まで出られなかったかもしれない緊迫した状況だった。
それなのに、あんな呑気で不謹慎なことを言って、先輩として本当に情けない。
「はぁ……」
自己嫌悪でため息を吐いた、その時だった。
後ろの引き戸が、静かにガラリと開いた。
「あ、国見君。もうすぐ淹れ終わるから待ってて」
振り返りながら声をかける。
だけど、彼は入ってくるなり、背中でピシャリと引き戸を閉めた。
国見君は、カウンターに置かれたコーヒーには目もくれず、真っ直ぐに私との距離を詰めてきた。
逃げ場のないシンクの前に立つ私の、すぐ目の前。
昼間の文書庫よりも、さらに近い距離で彼が足を止めた。
「国見、く……ん?」
見上げる彼の目は、いつもより少しだけ暗くて、熱を帯びているように見えた。
「どこまでが本気ですか?」
「え……?」
「昼間のあれ」
国見君は、スーツのポケットに手を突っ込んだまま、少しだけ視線を落として私を見つめた。
「サクッとキスしたらってやつ。……あれ、どういうつもりで言ったんですか」
「そ、それは……ただの冗談っていうか、空気を和ませようとして……」
「僕は、全然和まなかったですけど」
遮るように言った彼の声は低く、少しだけ不機嫌そうだった。
「午後からずっと、そのことばっか考えて、仕事全然集中できなかった。ファイル開くたびに、◯◯さんの顔がチラつくし」
「えっ……」
まさか、あの国見君が、私のせいで仕事に集中できていなかったなんて。
驚いて言葉を失う私を置いて、国見君は私の真横のシンクの縁にポンッと手を突いた。
いわゆる壁ドンのような体勢になって、彼の体温がダイレクトに伝わってくる。
「あんまり、僕を煽るようなこと、軽々しく言わないでください」
「煽るだなんて、そんなつもり……っ」
「僕も男なんで。……いつまでも可愛い後輩のままだと思われたら、困ります」
国見君の言葉が、そこでフッと途切れた。
じっと私の唇を見つめる彼の瞳が、微かに揺れている。
「……ま、待って、ここ会社だし、誰か戻ってくるかも」
「誰も来ませんよ。鍵なら閉めました」
「え、どうやって……」
「今日の施錠担当、僕と◯◯さんですよ?忘れたんですか?」
淡々と言い放った彼に、心臓が跳ね上がるのを通り越して、頭が真っ白になる。
「……逃げられないようにしないと、◯◯さん、また冗談だって笑って誤魔化すでしょ」
国見君の顔が、ゆっくりと近付いてくる。
昼間、文書庫の扉を開けてくれた邪魔は、もう入ってこられない。
降参するように私がギュッと目を閉じると、唇に温かくて柔らかいものが触れた。
「……ん、」
驚いて顔を背けそうになったけれど、それを遮るように、国見君のひんやりとした指先が私の頬をそっと包み込む。
そのまま角度を変えて、さらに深く、確かめるように何度も重ねられる。
いつも澄まし顔な彼の、本性を垣間見た気がした。
頭がぼーっと痺れて、立っていられなくなりそうになる。
……。
…………。
どれくらいそうしていたか分からない。
ようやく唇が離れたとき、お互いの息が狭い給湯室にこだました。
薄っすらと目を開けると、至近距離にある国見君の瞳が潤んでいた。
彼は私の頬に触れたまま、切なそうに眉をひそめて、低く掠れた声で呟いた。
「……あの日、飲みに行った日。本当はこのご褒美が欲しかった」
「え……?」
「頭撫でられて寝ちゃいましたけど……本当は、全然満足してなかったです」
一気に溢れ出てきた彼の本音に、私は言葉を失う。
あの夜、彼が「もっと褒めてください」と頭を差し出してきた、あの甘えるような仕草の裏に、そんな欲が隠されていたなんて、想像すらしていなかった。
「国見、君……」
「お茶の誘い、繁忙期だからって遠慮してたのに、昼間あんなこと言うから……もう我慢するのやめました」
国見君は困ったように、だけど愛おしそうにフッと唇を緩めると、私の額に自分の額をコツンとぶつけた。
「……次のお休み、絶対空けてくださいね。もう逃がしませんから」
いつもの余裕のある表情はどこへやら。
クールさなんて微塵も感じさせない、少しだけ意地悪で、最高に甘い顔がそこにあった。
私の心臓は、もう二度と元のリズムには戻れそうにないほど激しく脈打っていた。
ーーFinーー
時計の針は、定時を大幅に過ぎている。
昼間、文書庫に閉じ込められたロスタイムが響いたワケではないけれど、結局その日の処理が終わらず、私と国見君は居残りで残業をする羽目になっていた。
「あー、目が疲れたーっ!」
パソコンの画面から目を逸らし、椅子の背もたれに体を預けて大きく伸びをする。
フロアにはもう、私たち以外の行員の姿はない。
国見君は、相変わらず淡々と画面に向かっているけれど、そのタイピングの速度は心なしかいつもより少し遅くて、彼も疲れが溜まっているのが分かった。
リフレッシュを兼ねて、私は席を立った。
「国見君、コーヒー飲む?淹れてくるけど」
「……ブラックをお願いします」
画面を見つめたまま返ってきた、短くて素っ気ない返事。
だけど、私は小さく笑みをこぼしながら給湯室へと向かった。
以前ならコーヒーの誘いすらバッサリ断ってきたのに、今では当たり前のように頼んでくれる。
その変化が、なんだか少し嬉しかった。
ーーーー
給湯室のシンクの前。
マグカップを並べ、ドリップペーパーにお湯をトポトポと静かに注いでいると、香ばしい香りが狭い空間に広がった。
それと同時に、昼間の、あの薄暗い文書庫のことが、ふっと脳裏をよぎる。
「キスをしないと出られない部屋、か……」
我ながら、冗談にしてもふざけすぎてしまった。
思い出すだけで、恥ずかしくなる。
一歩間違えれば翌朝まで出られなかったかもしれない緊迫した状況だった。
それなのに、あんな呑気で不謹慎なことを言って、先輩として本当に情けない。
「はぁ……」
自己嫌悪でため息を吐いた、その時だった。
後ろの引き戸が、静かにガラリと開いた。
「あ、国見君。もうすぐ淹れ終わるから待ってて」
振り返りながら声をかける。
だけど、彼は入ってくるなり、背中でピシャリと引き戸を閉めた。
国見君は、カウンターに置かれたコーヒーには目もくれず、真っ直ぐに私との距離を詰めてきた。
逃げ場のないシンクの前に立つ私の、すぐ目の前。
昼間の文書庫よりも、さらに近い距離で彼が足を止めた。
「国見、く……ん?」
見上げる彼の目は、いつもより少しだけ暗くて、熱を帯びているように見えた。
「どこまでが本気ですか?」
「え……?」
「昼間のあれ」
国見君は、スーツのポケットに手を突っ込んだまま、少しだけ視線を落として私を見つめた。
「サクッとキスしたらってやつ。……あれ、どういうつもりで言ったんですか」
「そ、それは……ただの冗談っていうか、空気を和ませようとして……」
「僕は、全然和まなかったですけど」
遮るように言った彼の声は低く、少しだけ不機嫌そうだった。
「午後からずっと、そのことばっか考えて、仕事全然集中できなかった。ファイル開くたびに、◯◯さんの顔がチラつくし」
「えっ……」
まさか、あの国見君が、私のせいで仕事に集中できていなかったなんて。
驚いて言葉を失う私を置いて、国見君は私の真横のシンクの縁にポンッと手を突いた。
いわゆる壁ドンのような体勢になって、彼の体温がダイレクトに伝わってくる。
「あんまり、僕を煽るようなこと、軽々しく言わないでください」
「煽るだなんて、そんなつもり……っ」
「僕も男なんで。……いつまでも可愛い後輩のままだと思われたら、困ります」
国見君の言葉が、そこでフッと途切れた。
じっと私の唇を見つめる彼の瞳が、微かに揺れている。
「……ま、待って、ここ会社だし、誰か戻ってくるかも」
「誰も来ませんよ。鍵なら閉めました」
「え、どうやって……」
「今日の施錠担当、僕と◯◯さんですよ?忘れたんですか?」
淡々と言い放った彼に、心臓が跳ね上がるのを通り越して、頭が真っ白になる。
「……逃げられないようにしないと、◯◯さん、また冗談だって笑って誤魔化すでしょ」
国見君の顔が、ゆっくりと近付いてくる。
昼間、文書庫の扉を開けてくれた邪魔は、もう入ってこられない。
降参するように私がギュッと目を閉じると、唇に温かくて柔らかいものが触れた。
「……ん、」
驚いて顔を背けそうになったけれど、それを遮るように、国見君のひんやりとした指先が私の頬をそっと包み込む。
そのまま角度を変えて、さらに深く、確かめるように何度も重ねられる。
いつも澄まし顔な彼の、本性を垣間見た気がした。
頭がぼーっと痺れて、立っていられなくなりそうになる。
……。
…………。
どれくらいそうしていたか分からない。
ようやく唇が離れたとき、お互いの息が狭い給湯室にこだました。
薄っすらと目を開けると、至近距離にある国見君の瞳が潤んでいた。
彼は私の頬に触れたまま、切なそうに眉をひそめて、低く掠れた声で呟いた。
「……あの日、飲みに行った日。本当はこのご褒美が欲しかった」
「え……?」
「頭撫でられて寝ちゃいましたけど……本当は、全然満足してなかったです」
一気に溢れ出てきた彼の本音に、私は言葉を失う。
あの夜、彼が「もっと褒めてください」と頭を差し出してきた、あの甘えるような仕草の裏に、そんな欲が隠されていたなんて、想像すらしていなかった。
「国見、君……」
「お茶の誘い、繁忙期だからって遠慮してたのに、昼間あんなこと言うから……もう我慢するのやめました」
国見君は困ったように、だけど愛おしそうにフッと唇を緩めると、私の額に自分の額をコツンとぶつけた。
「……次のお休み、絶対空けてくださいね。もう逃がしませんから」
いつもの余裕のある表情はどこへやら。
クールさなんて微塵も感じさせない、少しだけ意地悪で、最高に甘い顔がそこにあった。
私の心臓は、もう二度と元のリズムには戻れそうにないほど激しく脈打っていた。
ーーFinーー
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