面影
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冷え切った体を芯まで温めたかったけれど、湯船に浸かるのは諦めた。
彼が消えてしまうかもしれないという焦燥感が、シャワーを急がせる。
髪を洗い、肌を流し、浴室を後にした。
部屋着のボタンを留めながらリビングへ戻ると、そこには意外な光景が広がっていた。
彼はソファに長く足を投げ出し、私の携帯ゲーム機を手にしていた。
まるで最初からそこに住んでいたかのような、あまりに自然な寛ぎ方。
「早かったな」
ゲーム画面を見つめたまま、彼は低く呟いた。
「なんのゲームしてるの?」
隣から覗き込むと、彼は本体に挿しっぱなしだったソフトで、勝手に新しいセーブデータを作って進めていた。
ふと、画面の隅にあるプレイヤーネームに目が留まる。
「とむら……?」
「あー……そう言えば、そんなの付けたっけ」
「アナタの名前?」
「ああ。それより、アンタも髪を乾かせば?」
ぶっきらぼうな物言いに、少しだけ戸惑う。
いつもなら洗面所の鏡の前で済ませるけれど、今日は勝手が違った。
ドライヤーを探して視線を彷徨わせていると、いつの間にかゲームを置いた彼が、片手にドライヤーを携えていた。
そして、彼が座っていた場所のすぐ隣を、ポンポンと軽く叩いた。
「お邪魔します……」
「ああ」
腰を下ろすと、すぐに温かい風が首筋を撫でた。
大きな手が、私の髪の間に指を通す。
その手付きは驚くほど優しく、そして丁寧だった。
人に髪を乾かしてもらうのが、こんなに心地いいなんて、知らなかった。
悪くないかもしれない。
「アンタの髪、俺とは違うな」
「ふふっ」
同じことを思ったことに、つい笑みが溢れた。
そういえば、まだ自分の名前を言っていなかった。
いつまでもアンタと呼ばれているのは、なんだか良い気がしない。
「●●」
「あ?」
「私の名前。良かったらアンタじゃなくて、名前で呼んでくれると嬉しいな」
「そうか」
彼は短く応じるだけで、それ以上の言葉はなかった。
ドライヤーの音だけが、静かなリビングに響き続ける。
……。
…………。
「こんなんでいいか」
不意に風が止まった。
なんだ、もう終わっちゃったのか。
名残惜しさを隠しながら髪に触れると、湿り気は完璧に消えていた。
「ありがとう、弔君」
「それじゃあ、俺は帰るから」
「え……ご飯は?作るよ」
引き止める言葉が、反射的に口から出る。
「これ以上、迷惑をかけるワケにはいかない」
迷惑なんて概念が彼の中にあることに、少しだけ驚いた。
彼は立ち上がり、一度だけ部屋を見渡してから、意地悪く口角を上げた。
「それとも、体でお礼すればいいのか?」
「……」
「冗談だ。顔真っ赤だぞ」
彼は背を向け、出口へ向かおうとする。
その後ろ姿に、またあの子の面影が重なった。
今行かせてしまったら、もう二度と会えない。
そんな予感に背中を押されて、私は震える声を出した。
「……いいよ」
「……は?」
「いいよ。体でお礼してよ、弔君」
彼は足を止め、信じられないものを見るような目で私を振り返った。
「正気かよ」
「自分でもそう思う」
長く恋人がいなかったけれど、欲求不満だと思ったことなんて一度もなかった。
これは、ペットを失った喪失感を埋めるための代償行為なのだろうか。
それとも、ただ単に人肌が恋しかったのだろうか。
どちらにせよ、今夜の私は自分でも制御できない。
「……後で後悔しても、知らないからな」
赤い瞳が、熱を孕んで細められる。
「うん……」
私は自分から彼の手を握りしめた。
ささくれだらけの荒れた手。
だけど、温かいその手を引いて、私たちは暗い寝室へと足を踏み入れた。
彼が消えてしまうかもしれないという焦燥感が、シャワーを急がせる。
髪を洗い、肌を流し、浴室を後にした。
部屋着のボタンを留めながらリビングへ戻ると、そこには意外な光景が広がっていた。
彼はソファに長く足を投げ出し、私の携帯ゲーム機を手にしていた。
まるで最初からそこに住んでいたかのような、あまりに自然な寛ぎ方。
「早かったな」
ゲーム画面を見つめたまま、彼は低く呟いた。
「なんのゲームしてるの?」
隣から覗き込むと、彼は本体に挿しっぱなしだったソフトで、勝手に新しいセーブデータを作って進めていた。
ふと、画面の隅にあるプレイヤーネームに目が留まる。
「とむら……?」
「あー……そう言えば、そんなの付けたっけ」
「アナタの名前?」
「ああ。それより、アンタも髪を乾かせば?」
ぶっきらぼうな物言いに、少しだけ戸惑う。
いつもなら洗面所の鏡の前で済ませるけれど、今日は勝手が違った。
ドライヤーを探して視線を彷徨わせていると、いつの間にかゲームを置いた彼が、片手にドライヤーを携えていた。
そして、彼が座っていた場所のすぐ隣を、ポンポンと軽く叩いた。
「お邪魔します……」
「ああ」
腰を下ろすと、すぐに温かい風が首筋を撫でた。
大きな手が、私の髪の間に指を通す。
その手付きは驚くほど優しく、そして丁寧だった。
人に髪を乾かしてもらうのが、こんなに心地いいなんて、知らなかった。
悪くないかもしれない。
「アンタの髪、俺とは違うな」
「ふふっ」
同じことを思ったことに、つい笑みが溢れた。
そういえば、まだ自分の名前を言っていなかった。
いつまでもアンタと呼ばれているのは、なんだか良い気がしない。
「●●」
「あ?」
「私の名前。良かったらアンタじゃなくて、名前で呼んでくれると嬉しいな」
「そうか」
彼は短く応じるだけで、それ以上の言葉はなかった。
ドライヤーの音だけが、静かなリビングに響き続ける。
……。
…………。
「こんなんでいいか」
不意に風が止まった。
なんだ、もう終わっちゃったのか。
名残惜しさを隠しながら髪に触れると、湿り気は完璧に消えていた。
「ありがとう、弔君」
「それじゃあ、俺は帰るから」
「え……ご飯は?作るよ」
引き止める言葉が、反射的に口から出る。
「これ以上、迷惑をかけるワケにはいかない」
迷惑なんて概念が彼の中にあることに、少しだけ驚いた。
彼は立ち上がり、一度だけ部屋を見渡してから、意地悪く口角を上げた。
「それとも、体でお礼すればいいのか?」
「……」
「冗談だ。顔真っ赤だぞ」
彼は背を向け、出口へ向かおうとする。
その後ろ姿に、またあの子の面影が重なった。
今行かせてしまったら、もう二度と会えない。
そんな予感に背中を押されて、私は震える声を出した。
「……いいよ」
「……は?」
「いいよ。体でお礼してよ、弔君」
彼は足を止め、信じられないものを見るような目で私を振り返った。
「正気かよ」
「自分でもそう思う」
長く恋人がいなかったけれど、欲求不満だと思ったことなんて一度もなかった。
これは、ペットを失った喪失感を埋めるための代償行為なのだろうか。
それとも、ただ単に人肌が恋しかったのだろうか。
どちらにせよ、今夜の私は自分でも制御できない。
「……後で後悔しても、知らないからな」
赤い瞳が、熱を孕んで細められる。
「うん……」
私は自分から彼の手を握りしめた。
ささくれだらけの荒れた手。
だけど、温かいその手を引いて、私たちは暗い寝室へと足を踏み入れた。
