乙狩アドニス
名前
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―想いを寄せていた彼と、晴れて恋人になれたというのに名前はどこか満たされない気持ちを抱えていた。彼女の恋人、乙狩アドニスは付き合う前と変わらず優しく、大切にしてくれている。それは事実なのだが、その優しさは自分だけに向けられているものではなかった。そんな事は分かり切っていた筈だったのだ。しかしある日、彼があんずと親しげに話している姿を垣間見て、その感情は不満と嫉妬心へ変化してしまったのだ。その日のUNDEADのプロデュースの担当は彼女ではなかった。その為、差し入れを持っていきがてらアドニスに会おうと思っていた。それだけだったのだが、彼女はそのまま踵を返して部屋を出ていこうとする。それにいち早く気付いたのは、恋人の彼ではなく先程起きたばかりの朔間零だった。
「これこれ、名前の嬢ちゃん。アドニスくんに用があったんじゃないのかえ?」
零に促されるままに楽器庫の中に入っていく彼ら。名前が何か悩んでいることなどお見通しだったのだ。軽音部で使っている楽器を横目に、壁を背にして立つ彼女の前に零が立ち、「話せる事なら吾輩に相談しておくれ」と彼が彼女の頭にぽんと手を置く。「アドニスくんがあんずちゃんと仲良くしてるの見て嫉妬しただけです…」と憂いを帯びた表情で明かしたのを聞いて、零は「よしよし」と名前の頭を撫でた。アドニス以外の男性に触れられた事などなかったが、おじぃちゃんのような言動をする彼の包容力に安心感を抱きなんだか泣きたくなった。「アドニスくんは名前の嬢ちゃんにこんなに想われて幸せ者じゃのう。羨ましいわい」と彼は微笑ましげに瞳を細めて笑った。このように、べつにやましいことは何も無かったわけだが、自分の彼女と朔間零が個室に入っていくのを目撃していたアドニスはもやもやとした想いを募らせていた。それは昨日も同様の出来事があったのだ。
―「神崎は名前と何を話していたんだ?」
「それは、名前殿と我の秘密である」―
席が近いこのふたりが親しげに喋っている姿を見かけ、アドニスは颯馬に問いかけるも有耶無耶な返答をされた。自分の彼女と友人が秘密の話をしていたと聞けば、誤解を招くことになるものだが名前自身は全く気付いていなかった。それもその筈。差し入れするにあたって適した料理のレシピを颯馬に訊いていただけだったのである。颯馬が料理上手だということはアドニス経由で知っていただけに彼に相談したにすぎなかった。「それならば、おからどーなつはいかがであろう」と彼からの薦めでアドニスへの差し入れメニューが決定した。おからドーナツを差し入れすることは彼には内緒にしていたことだった。颯馬と名前の秘密とはこの事だったが、アドニスは完全に誤解していた。自分に向けられるものとは違った彼女の笑顔。自分ではなく、神崎といるほうが楽しそうだ。と、実際はどうであれ彼は多少なりともそう感じていた。
「アドニスくんや。そんな鋭い視線で睨まないでおくれ。我輩は名前の嬢ちゃんの相談にのっておっただけじゃよ」
楽器庫から出てきたふたりに鋭い視線が向けられた。彼女の綻んだ顔を目にして、自分ではなく朔間さんに相談事をしたなんて、自分は頼りにされていないのではないか。と彼は人知れず自己嫌悪に陥ってしまった。しかし、自分のもとに駆け寄ってきて腕を絡ませる名前を可愛いと感じるのも事実。つまり、彼女を想うあまり、強い独占欲が現れ始めていた。こんなに嫉妬深い男は名前には相応しくないと感じ、呟かれた彼の言葉で彼女は深く傷付いた。「俺は、名前には相応しくない…」と。一方的に差し入れだけを置いて、彼女は防音練習室を飛び出していった。その顔は今にも泣きだしそうだった。
―確かにアドニスは優しいけれど、付き合って数ヶ月経つのに未だに手を出してこない。前々から気がかりだったことだ。その日の朝、通学路で鉢合わせた彼女は彼の愛情を試すような言動で彼を翻弄することにした。「ねぇ。おはようのチューしてくれないの?」「こんな公然の場でするわけないだろう」と、寡黙な彼は動揺する素振りもなく、すたすたと歩いていってしまう。すぐに横に並んだ名前のほうから手を握る。大きくて無骨な手に、前ならば安心感を抱いていたのだが「学院の近くだから誰かに見られるかもしれないだろう」と素っ気ない反応をされて気持ちが萎えてしまった。それと同時に、あんずにはこんな対応しないのでは?という考えが頭を過ぎり、繋いでいた手を離してしまった。そんな経緯を経て、現在アドニスは酷く焦燥していた。「名前には俺よりも相応しい相手がいるだろう。無理して俺と付き合ってくれなくていい」「無理して付き合ってくれてるのはアドニスくんのほうでしょう?」と、誰もいない朝の教室で言い争ってから、名前は教室に戻ってこなくなってしまった。誰も彼女の姿見ていないらしく手掛かりのないまま、彼は登校してきた颯馬に事の経緯を説明した。そしてあの日、颯馬と名前が楽しげに会話していた理由を知り、彼は後悔の念に苛まれた。颯馬に後を押され、まだ戻って来ない彼女を探しにアドニスは教室を飛び出した。大切にしなければ…と思うあまり手を繋ぐ事すら躊躇っていた。身体を重ねる事はおろかキスだって数える程しかしていない。自分ではなく他の男のほうがいいのではないか。何度も自問自答を繰り返していた。だが、最終的に行き着くのは名前を手放したくないという結論だ。自分の手をぎゅっと握る小さな手、細い指。抱き締めたら壊してしまうのでは?と思うくらい華奢な肩。思い出すと胸がキュッと甘く締め付けられた。
「探しに来なくてもよかったのに…どうして?」
ホームルーム開始のチャイムが鳴り響く音を耳に、彼は学院の屋上に訪れていた。この時間なら誰もいないであろうこの場所に彼女がいると推測し、それが的中した。アドニスの姿を目にした途端に切なげに瞳を揺らして名前はそう問いかけてきた。アドニスにとっては愚問だった。どうしてもなにも彼女の心を傷付けてしまったのは他でもない、恋人である自分だった。寒さで冷えてしまった彼女の頬が両手で包み込まれ、薄紅色の唇に彼のものが重ねられた。涙の滲む目尻に、そっと触れて彼は耳元で告げる。「無理して一緒にいるわけじゃない。あんな事を言ってしまったが、俺はもう名前を手放してやれない。それくらいお前を愛している」
「アドニスくん…っ」
再び泣き出してしまった彼女は強く抱き竦められ、震える小さな身体はすっぽりと彼の腕の中に収まった。「あの日、あんずと喋っていたのも、名前のことを相談していたんだ」と彼女の誤解を解くために彼は事の真相を明かす。「うちの姉達は人使いも荒いし我儘を言うが、名前は俺に我儘を言わなさすぎる。と」「あんずが言うには名前は俺に不満がないから。ということらしいが、本当のことを言ってくれ」と彼は真摯な眼差しで名前と視線を絡めた。「不満がないのは本当だよ」と微笑んだ彼女はぎゅっと抱きついて彼を見上げる。「だけどね…ちょっとだけ我儘を言わせて」とどんな我儘なのかと身構えたアドニスだが、それは肩透かしを食らったような可愛すぎる我儘だった。「もう少しだけこうさせて。あと、そろそろキス以上のこともしたいな」と。上目遣いで懇願してくるその姿を見て理性が抑制出来るものか。と触れるだけでは足りないと言うように熱い舌を絡ませた濃厚な口付けが彼女を翻弄させた。唇が離れると、とろんとした瞳で自分を見つめる彼女と目が合い、これが背徳的というものなのか。と、彼はいけないことをしている気分になり羞恥のあまり遠くに視線を逸らした。
END