七種茨短編
漣ジュン
名前
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―「こんなにはりきって…馬鹿みたい」
キッチンには甘い匂いが広がり、エプロン姿の名前は粗熱の取れたスポンジケーキにホイップクリームを盛り付けていた。しかし、ふとした瞬間に酷く虚しい気持ちに押し潰されそうになった。こうして毎年、誕生日ケーキを作っている。それこそ、幼い頃はもっと仲が良かった筈だ。皿の上の苺とブルーベリーが涙で滲んで見える。あとはこれをバランスよく並べて、出来栄えは上々。すると、静まった空間にひとつの足音が聞こえる。彼女はその主には気付かずにケーキと向き合っている。そして、唐突に名前の腰が抱き寄せられた。驚いてびくりと反応した彼女の前に現れたのは、幼馴染みの漣ジュンで。困惑したように瞳を揺らす名前とは正反対に、ジュンは明るく微笑む。「呼んでも返事がなかったから、心配したんすよ」と。昔はこれくらいの距離感なんて意識しなかったが、今はそうはいられない。腰に回された彼の腕を一瞥して、「ジュンくん。距離感おかしいんじゃないのー?」と彼女がおどけた口調で文句を言う。
「これくらいで照れてるんすか?」
「ジュンくんなんかに照れたりしないよ。自惚れるのはやめてよね」
彼女の照れ隠しの仕方は分かりやすく、彼はくすくすと笑う。身を捩り、腕の中から抜け出そうとするが、ジュンの腕は解けなかった。正確に言えば、ジュンには解く気がなかったのだ。馴れ合いすぎて腐れ縁のような関係になってしまった名前。今年は祝ってもらえないかと思っていたが、それは杞憂にすぎなかったようで。綺麗に作られたケーキに目を落とす。彼の手でエプロンの紐が解かれた。「名前ってほんとに素直じゃないっすよねぇ」と呆れたようなジュンの言動に、何も言えずにケーキをテーブルの上へと運んだ。二人きりの誕生日会。向かい合って「誕生日おめでとう」と告げる。ジュン相手にこんなにドキドキするようになったのはいつからだろうか。「昔みたいに、食べさせてくれないんすか?」「そんなの幼稚園の頃の話でしょ」そう…あの頃はジュンのことが大好きで、「私が食べさせてあげるね」とおままごとの延長の如くじゃれあっていた。だが、純粋だったあの頃にはもう戻れないと名前は悟っていた。
「ねぇ。なんで口開けてくれないの?」
「乗り気じゃなかったくせに。名前の気まぐれには勘弁してほしいっすね」
口元に運んでいったケーキは彼がぱくりと口にして、フォークを持った手はジュンの手に掴まえられた。「名前の作るケーキ、毎年美味しいっすね」と幸せそうに微笑む彼と視線が重なり、一気に顔が熱くなるのを感じた。ケーキを頬張る彼の前で、決して悪態をつくことは忘れない彼女は呟く。「どうせユニットメンバーに誕生日祝ってもらったくせに。ファンからプレゼントだって届いてるんでしょ?」と、私の作ったものなんて大した事ない。と寂しげに表情を曇らせる名前を見て、ジュンはいてもたってもいられなくなった。紅茶のおかわりを取りに行こうと席を立った彼女を抱き竦めたのだ。先程までのようにからかうような仕草ではなく、まるで恋人にするかのような抱擁に名前は身を固くした。何だか雰囲気が違う。そう察していた。だからこそ、抵抗しなかった。「ねぇ、ジュンくん。こんなの幼馴染みにすることじゃないよ?」
「俺が…名前のこと、只の幼馴染みとしてなんて見てないとしたら、どうします?」
「それから、誕生日は名前に祝ってもらえることに意味があるんすよ」と、彼は続ける。中々笑顔を見せてくれない彼女の前で彼は悪戯っぽく微笑んで名前にとっては荒唐無稽な台詞を告げる。「あんまり不貞腐れた顔してると、唇奪っちまいますよ」と顎を掬われた。「からかうのはやめてよ」とせめてもの抵抗として名前はキッとジュンを鋭い視線で見据えるが、内心期待しているのは紛れもない事実だった。やがて…ジュンの方からほんの少し触れるだけの口付けが落とされた。彼女は信じられないというように瞳を瞬かせ呟く。「冗談かと思ったのに…本当にキスするなんて」
「ガキの頃、名前にファーストキス奪われましたからねぇ」
「そんな大昔のこと、私覚えてないんだけど」
END