七種茨短編
漣ジュン
名前
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-玲明学園へ登校する為、自宅を出た名前は、自分を迎えに訪れた彼を目にして瞳を瞬かせた。車の窓から顔を覗かせニコニコと微笑みながら手を振っているのは、彼女の幼馴染みである巴日和だ。「名前は朝からぼくに会えてラッキーだね!いい日和!」と車に乗るように促された彼女。革張りの座席に座る彼らの距離は予想外な程にとても近かった。唐突に車の中で隣に座る彼に手を握られ、彼女は動揺のあまり彼を突き放すような言動をしてしまった。
「こういう事は許嫁としてよ。私にはジュンくんがいるんだから!」
「ぼくに許嫁が居ないのを知っていながらそういう事を言うなんて酷いね!」
「名前はぼくを嫌いになったんだね」としゅんとした様子で元気がなくなってしまった日和の機嫌を直すのは至極簡単な事だったが、この場面を恋人であるジュンに目撃されてしまったのは痛恨のミスだった。「嫌いなわけないでしょ」と車を降りてから彼と手を繋いであげた彼女は、どうしたら日和の機嫌が直るか、何を言えば彼が落ち込むかを熟知しているのである。幼い頃は何も考えずに彼と手を繋いでいたが、今はそうではない。それに異性とは言え、日和の事はあくまでも幼馴染みとしか見ていない。三年生の下駄箱の前まで日和を送っていった彼女はすぐに踵を返してジュンの向かった先へと赴いた。木陰で蹲っている彼を見つけ、声をかけようとするがその独り言を耳にして彼女は黙り込んでしまった。
「はぁ…。やっぱり、名前はおひいさんのことが…」
今すぐ否定したいのに、言葉が出てこない。あの光景を見られた後じゃ、何を言っても言い訳がましくなってしまう。考えあぐねていると、人の気配に顔をあげて振り向いたジュンと視線が絡んだ。その眼差しは、酷く傷付いたように揺れていた。「そりゃ、おひいさんは名前の幼馴染みだし、俺よりもよっぽど名前の事詳しい…っ」
その瞬間、ジュンは芝生の上で尻もちをついた。いても立ってもいられなくなった彼女がしゃがんだ体勢でジュンに飛び付いたのが原因だ。「勘違いしてるみたいだけど、さっきのは日和くんの機嫌を直す為に手を繋いだだけ」と、その台詞に続いてジュンの唇は唐突に奪われた。「こんな事、ジュンくんとしかしないよ」と口角を上げて笑う彼女はそのままジュンを見下ろす。現在、馬乗りの体勢で押し倒されている。形勢逆転とばかりに起き上がったジュンは芝生の上で名前を組み敷いた。咄嗟の出来事に驚いた彼女だが、大好きなジュンからの積極的な行為にうっとりとしたように瞳を細めている。
「名前にその気がなくても、おひいさんは絶対名前を好きですからねぇ」
自分を見下ろすその瞳は嫉妬心を孕んでいるものだった。いつもとは違う彼の様子に気後れしつつも彼を窘める言葉を囁く。「でもさ、私が日和くんの幼馴染みじゃなかったらジュンくんは私の事なんて眼中になかったでしょ?」と、その問いかけに彼は首を振って否定する。彼女を瞠目させた彼の発言は彼女は初めて知るものだった。「俺は、特待生の教室で名前と出会ってから、早い段階で惚れてたんすけどねぇ。鈍感っすね」と。「まぁ、そんな名前が好きなんすけど」と押し倒したままの状態で彼のほうから唇を重ねられた。普段は「好き」などとは言わない彼から怒涛のカミングアウトと濃厚な口付けに翻弄された彼女。真っ赤な顔で「離れて」と告げるが、密着してきた彼にぎゅっと抱きしめられ口を噤んだ。
-先日もあんな勘違いがあったばかりなのにも関わらず、今回はもっと質が悪いと彼女は保健室のベッドの上で頭を抱えた。元はと言えば、生理痛が酷くなり、保健室のベッドで寝ていた自分が悪いのかもしれない。しかし、そこへ顔を出した日和が熱を測ろうと顔を近付けてきたなんて予測できるわけもなく。目を覚ました瞬間に偶然唇が触れてしまったのである。しかも、またもやその現場を、見舞いに来たジュンに目撃されてしまったのだから大変だ。手を繋いだ以上に事態が深刻だ。所謂事故チューなのだが、彼が納得してくれるかどうかが問題だ。近頃のジュンは自分と日和の仲を怪しんで自己嫌悪に陥ったりしているように感じるし、どうすれば波風立てずに彼との交際が上手くいくのだろうか。
「日和くんはあっけらかんとしてるけど、ジュンくんは相当気にしてるだろうしなぁ…」
保健室の先生は不在なので、この独り言は他の誰に聞かれるわけでもなく消えていった。だが、彼女の心に鬱積しているものが消えたわけではない。目を閉じるとジュンの顔が浮かんでくる。それくらい彼を深く愛しているのに、この想いをどう伝えればいいのだろう。いくら考えても明確な答えに辿り着けない。眠って起きれば全て夢だったなんて事にならないだろうか。と、そんな願いを胸に彼女は眠りに落ちていった。
だが、寝て起きても現状が変わるわけがなく。彼女が教室に戻ると、ジュンは目も合わせてくれなくなっていた。いつもならば、「もう体調は大丈夫なんすか?」と訊いてくれるであろう彼が何も言ってくれない。自分達の関係性が音を立てて崩れていくような気がして泣きたくなる。彼は今何を思っているのだろう。と、後ろからその背中を見つめるが、胸が締め付けられているように息苦しい。「人を好きになる事がこんなに苦しいなんて…」とぼんやり考えながら黒板に視線を移すが、何だか視界が滲んでぼやけて見える。そんな彼女は鞄から取り出したハンカチを目に当て顔を俯かせた。誰にもこんな顔を見られたくなかった。勿論、ジュンにも自分が泣いているなんて気付かれたくなかった-
To be continued…