七種茨短編
七種茨
名前
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-「ねぇ、茨くん。今度の花火大会…一緒にいこぉ?」
わざとらしく媚びた甘ったるい声に、名前は顔を引きつらせた。秀越学園の三年生の凛子という女子生徒は彼女にとって先輩ではあるが、実力だけで言えばEdenのプロデュースを任されている名前の方が断然上だ。それにも関わらず、その女は頻繁に茨と接触してくる。今も、わざわざ二年の教室のある階まで出向いているくらいだ。「相変わらずお美しい!」と彼の褒め殺しを真に受けている様子の凛子を愚かにも感じる。その会話に耳を澄ませるが、トイレに行く途中だった為、身を翻して彼らに背を向けた彼女は歩き去る。「花火大会か…」と、そういえば、そんなポスターを通学路で見かけたな。と思い出し、誰にも聞こえない程の小さな声で独りごちた。教室に戻れば、何事も無かったように席に居る茨をちらりと一瞥するも、すぐに視線を逸らして席についた名前は彼が自分に視線を向けていたなんて露ほども気付かないのだった。
-「名前は、来週の花火大会の事をご存知でしたか?」
「うん。まぁ、なんとなく」
本日の授業が終了してレッスン室に行こうとしていた彼女が足を止めたのは、彼から唐突な問いかけがあったからだ。「凛子さんと行くなら勝手にすればいいじゃない」と口をついて出た言葉に過剰な反応を示した彼は思わず「待った」をかけたくなったがそれは不可能だった。「私はジュンくんと行くからさ」と、この台詞はただの対抗心であり本当はそんな約束はしていない。「ジュンなんかと行くんですか。人選ミスなのでは?」と苛立ちを押し殺している彼の言葉には、いつもの切れ味がなかった。そんな事で呼び止めないでよ。と言わんばかりに鞄を肩にかけて教室を出て行こうとする彼女は、またしても彼によって阻まれることになった。
「自分は、最初から名前を誘う予定だったんですよ」
掴まれた腕は振りほどく事だって容易であるにも関わらず、抵抗しない自分の気持ちは自覚していた。しかし、彼女はその事実を認めたくなかったのである。茨と一緒に花火大会に行きたい。茨もそう思ってくれていたのが何よりも嬉しい。感情とは裏腹にそんな素直な心情を明かすことが出来ない。「本当はね、花火見に行く予定もないし、ジュンくんとも約束してないんだ。茨は楽しんできてね」と、顔だけを振り向かせた彼女の一言には何の感情も篭っていなかった。
-「一体、なんだっていうの?」
花火大会当日…休日ということもあり、自宅でダラダラと過ごしていた彼女は急な来客に驚かされるはめになった。「着付けが出来る広さの部屋に案内してください」と色々な荷物を運んできたスーツ姿の女性は名前と視線を合わせるとにっこり微笑んだ。「待ち合わせの時間は19時だとお聞きしましたので、早速始めさせて頂きますよ」とドレッサーの前に座らされ、メイクとヘアーセットが着々と進められていく。出来上がりは上々。艶やかなメイクと浴衣に合いそうな花の簪を差し込んだアップヘアーのスタイルに思わず賛嘆の溜め息が零れる。そして「着付けもこちらでしますので」と促され「下着も外すんですか?」と戸惑う彼女の声は聞きいられる事はなく、紺色に白い牡丹の模様の浴衣を着せられた。自分を手入れしてくれている女性は忙しそうなので、詳しい事を訊ねられずに支度は進んでいった。「これでバッチリね」と全身鏡の前に立つ彼女の横で満足そうに頷いたその女性がついに種明かしをする。「七種さんも喜んでくださるでしょうね」と。
「もしかして…七種茨に依頼された業者の方ですか?」
「えぇ。名前さんに浴衣を着せて会場に向かうように伝えてくれとの話でしたが」
茨の奴、先輩と花火大会行くんじゃないの?何を考えてるの?と一人悶々と悩み始めた彼女を後押ししたのは業者の女性である。「浴衣とても似合ってるんだから、自信を持って」と勇気付けられ、巾着を握り締めた彼女は足早に歩いていく。濃紺に染まった空を見上げ、前を見据えると同じ方向に歩いていく人混みが目に映る。家族連れやカップル…浴衣を纏った楽しげな人々を横目に、自分はそんな気分になれないや。と自嘲的な溜め息をついて橋の上を通り過ぎようとする彼女の前に立ちはだかったのは、黒地の浴衣を着こなしている茨だ。「何故逃げようとするんですか」と方向転換して去ろうとした名前は人波から離れる為に肩を引かれ橋の欄干を背に立ち、茨と向かい合う姿勢となった。どうしてこんな事をしたの?と訊きたい事はいくらでもあるのに、目の前の彼の姿に気後れして何も言えない。祭りの喧騒と橋の下を行き交う車の音が響く。そんな時、耳元に唇を寄せた彼は囁く。「その浴衣姿、とても似合ってますね。麗しい」と。
「せっかくの花火の日に、私と居て楽しいの?」
「この期に及んで、まだそんな言い草をするんですか」
「名前って可愛くないですね」とでも言ってくれれば、こんなにも動揺させられることもなかっただろうに。目の前で笑う眉目秀麗な彼の言動はいつもの慇懃無礼なものではなく。「自分は、浴衣姿の名前を独り占めしたかったんですよ」と、それに続く台詞はとても甘いもので、名前は彼の腕の中で身動きがとれなくなった。見上げれば、真摯な眼差しで自分を見つめる彼と視線が重なる。「名前…自分の、」彼女の耳に届いたのはここまでだった。ドンと花火の破裂音に掻き消され、彼の言葉は最後まで聞こえなかった。花火が上がっている方向に振り向き、茨に肩を抱かれた状態で空を見上げる。次々に打ち上げられる花火を見て、恍惚とした表情の彼女の横顔をじっと見つめる茨の眼差しは、花火を楽しむというよりは名前の反応を見て楽しんでいると言ったほうが正しいであろう。
「茨、見てるとこ違うよ」
「これが自分の楽しみかたなんです」と事も無げに言いのける彼は後ろから彼女を抱き竦めると、もう一度告げる。幸い、花火にはインターバルがあった。「名前。自分の恋人になってください」と。彼女の返答を待たずして、再び花火が打ち上げられていく。あの茨が、私なんかに告白するだろうか。と彼の一言が荒唐無稽すぎて受け入れられなかった彼女は、現実から目を背けるように、ハート型の花火を指さしながら茨のほうへ視線を移す。音で聞こえないならば、こちらから行動で伝えればいい。そう気付いた名前は腕を伸ばして彼の胸に飛び込んだ。本当はあの時、焼きもちを妬いていた。茨の本音を聞けて幸せになった。その想いを伝えるようにぎゅっと抱きついたまま、遠くの音に耳を澄ませる。夏の思い出を刻み込むように瞳を閉じると、頬を包まれ、唇が重なりあった。彼らの背後では大輪の花火が豪快な音と共に花開くが、それには目もくれず、二人の口付けは深くなっていった-
END