隣人シリーズ
名前
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―「まさか、その袋の中の物が夕飯だとか言うんじゃないでしょうねぇ?」
エレベーターで一緒になった相手、瀬名泉は名前と同じマンションに住んでいる言わばご近所さんである。部屋が近い為、顔を合わせることが多い。そんな彼は彼女の持っているコンビニのビニール袋を一瞥して冒頭の台詞を放った。袋の中には味噌ラーメンのカップ麺が入っているのがよく分かった。「そのまさかですよ。疲れ果てて作る気力もありませんから」とその顔には疲労が現れていた。同じ階でエレベーターを降り、部屋に向かおうとすると泉に袖を引っ張られ名前は足を止めた。「瀬名さん、何かご用ですか?」と不思議そうな反応をした彼女はそのまま泉の部屋へと連れて行かれた。「その不摂生な食生活じゃ体壊すよ。今夜はうちで夕飯食べてきな」と彼は何の躊躇いもなく家に入っていくが、名前は戸惑って玄関先で動けずにいた。すぐに「なに遠慮してんの?早くしなよねぇ…」と泉の呆れたような声がかけられた。
「あの〜瀬名さん。私ごときが、人気アイドルであるあなたにそんなご迷惑かけられませんよ」
「アンタねぇ、人の厚意には甘えとけばいいの」
センス良く纏められたインテリア。椅子に座るように促され、まるで面接時のように「失礼致します」と言って座る彼女の様子に泉は苦々しく笑った。「なにそれ。社畜の習慣が染み付いちゃってるわけ?堅苦しいねぇ」と。キッチンからいい匂いがすると同時に彼が皿を運んできた。湯気のあがる美味しそうなラタトゥイユ。誰かの作ってくれた料理を食べるのは久しぶりで、その温かさと美味しさに涙が出そうになった。「瀬名さん、お料理上手なんですね」と呟けば、「こんなの普通でしょ」とあっさりとした返答をされ、彼女は小さく笑った。「俺は名前って呼んでるのに、アンタは未だに名前で呼んでこないんだね」と若干不満そうに泉が告げる。彼の中では、名前はゆうくんと同い歳という認識で覚えていた。
「私が泉さんて呼んだら、馴れ馴れしいかと思いますが…」
「考えすぎ。馴れ馴れしくないし」
アイドルと二人きりという状況が、どうにも緊張して落ち着かない彼女は早く去りたかったが、泉との会話が予想外に弾んだ為、そんなわけにもいかなかった。食事を食べ終え、冷たい水を飲んでも頬の火照りは引きそうになかった。涼しい顔をしている泉とは違い、名前は相当彼を意識していたのだ。「ところで、今日の昼はちゃんと食べたわけ?」と、その問いかけに彼女はぎくりと肩をビクつかせた。「うちの部署、人員不足で。今日のお昼はクラッシュゼリー流し込んですぐにオフィスに戻る感じでしたね」と彼女は歯切れ悪く説明するが、彼は深刻そうに顔を顰めた。「残業代は出てるし、ブラックではないんですけどね」と名前は言うが彼は全く納得していなかった。「名前がデキる女だっていうのは分かるけど、働きすぎでしょ?」と彼は続けて彼女を労う一言を告げる。
「倒れられても困るし、今日みたいな日はこれからもうちで夕飯食べればいいから。連絡先教えといて」
「こんな一般人と連絡先の交換なんてして大丈夫なんですか?事務所通してないのに…」
「俺が許可してんだからいいの。名前は余計な事考えない」
瀬名泉が雲の上の存在だと分かっていた筈だった。こんなにも歩み寄られると戸惑うのは普通の女性ならば当然のことだった。しかし、泉は意外と面倒見が良く、『今日は何時帰りなの?』といったような連絡を頻繁にしてくれた。「残業します」と返信すれば必ず『名前の分も多めに作ったから絶対寄ってきなよね』と返信があり、もう夕飯にジャンクフードを食べるようなことはなくなっていた。そんなある時。本屋で見かけたのは、モデルとしての瀬名泉が載っている女性向けのファッション雑誌。それを手に週刊誌コーナーの前を通り過ぎれば、何とも不穏な文字の羅列と共に瀬名泉の文字が。『瀬名泉、女性モデルと密会か』なんて見出しを目にし、足がすくんでしまった。そして唐突に背後から声がかけられた。「アンタまでこんなデマ信じるのやめてよねぇ。こんなの嘘っぱちだから」と現れたのは瀬名泉その人で。名前は驚きのあまり声が震えた。そしてその口が彼の手で覆われ言葉が途切れた。
「泉さん…。でも、こういう方のほうが泉さんに相応しいんじゃ…」
「馬鹿なこと言わないでよねぇ。それと、その雑誌…」
「これはその…。モデルの時の泉さんも見たくて…」
本人に知られてしまい、体裁悪そうにその雑誌を腕に抱えて隠すその姿が可愛らしくて泉は思わず微笑んだ。会計を済ませ、店を出ると「俺の出てる雑誌買ってくれると思わなかった。ありがとね」と彼女の肩をぽんと叩いて「今からうちに来な」と有無を言わさず名前の手を握った。「今日は残業帰りでもない上に、休日なのにいいんですか」と躊躇う言葉なんてお構いなしだ。「いいって言ってんだから、来ればいいの。アンタ、さっきの記事気にしてるみたいだし、はっきり言っておきたいの」むしろ名前に拒否権はなかった。ショックを受けていたような横顔、潤んだ瞳を目にしてから、彼はどうしても誤解を解いておきたかった。きっと、そうしなければ名前は今までの関係をなかったことにしようと言うに決まっている。名前と過ごす時間を失くすなんて考えただけで怖かった。それ程に、泉にとって名前は大事な存在になりつつあった。
END
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