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自然と目が醒めた。
息を止めて状況を確認する癖がついてしまった体から、ワンテンポ遅れて体温と同化した息が唇の隙間から漏れる。部屋の中の温度を象徴するように、とても白い靄だった。
窓の外を見ると、室内よりもツートーンほど明るい。何も無ければ、あと数刻でこの壁の中にも静かに火は灯るだろう。
隣に寝ている兵長を起こさぬように、細心の注意を払って爪先を冷たい床におろした。寒い日は唯でさえ硬い皮のブーツが更に硬くなるからあまり履きたくない。少し迷って、これ以上体温を奪われないようにつま先立ちで床に散らばった二人分の服の上を水溜りを避けるみたいに跳んで椅子にかけられたブランケットを素肌に纏った。
その足で部屋の奥まったところにあるちょっとした作業台に向かい、常備しているカラフェの中の水を音を立てないようにそっとケトルに入れる。マッチを一本すって簡易コンロの下の青白い燃料に向かってふっと短い息を吹きかけると火は簡単に広がってくれた。
兵長が起きたときにちょうど温かい紅茶が飲めるように用意していたい。そう思って水音すら立てないようしていたのにふいに背中に重みを感じた。
「背中がガラ空きだ」
落ち着きある低音から、続けて「おはよう」と左頰に体温の低い唇が触れた。
「おはようございます。すみません、起こしてしまいましたね。」
「いや…」
兵長は優しく否定して、一呼吸置いたあと「一瞬どこに居ったかわからなかった」とぽつりと呟いた。心なしか抱きしめる力をいつもより強く感じる。
「…私は、いつも兵長のお側に居ますよ。」
「そうか…それならいい」
闇に映えるのはブランケットからスラリと伸びた白い脚と細いうなじ。それはただの農村の女かもしれないし、貴族の娘なのかもしれないし、兵士かもしれないし。日が昇らないとよく分からない。でもこの時間帯だけは別にそれでいいと思う。珍しく憂わしげなあなたに紅茶をいれるだけのただの女で在りたいと思う。
「早く服を着ねぇと風邪をひく」
「平気です。じきに湯が沸きますから」
「朝から誘ってんのか?それも悪くねぇが」
「…ふふ、くすぐったい」
「は…」
そんな甘い囁きも、今は無邪気さがほんの少しだけ勝っている。湯が沸く間、ブランケットごと包まれた腕の中でじゃれ合いながら昨日の余韻を二人で楽しむ。兵長は私の肩に顎を乗せてどちらともなくユラユラ揺れた。お世辞にもうまいとは言えない下手なダンスだった。
最近のこの時間は予定をお互い口に出さない。言ったら兵士としての朝を迎えてしまうから。
優しい揺れの中でコンロの火を見ていたら、ある記憶とシンクロした。巨人が闊歩する地と成り果ててしまった故郷の祭り。ずっと忘れていた暖かいセピア色の記憶。もう顔は思い出せないが、たくさん着飾って初恋の男の子と手を繋いでポールの周りをドキドキしながら踊った。
「細ぇな」
遠い記憶に思いを馳せていたら、いつの間にか兵長の手がうなじ辺りを捉えていた。その乾燥気味の指先はとくとくと聴けるはずもない細胞の鼓動を感じとろうとしている。
兵長の言葉の意味を嫌でも感じ取る。
きっと、呼吸する皮膚や触れた温もりがただの肉塊になる無情さを兵長は私に重ねているのだ。穏やかな日々はあと数日で終わり、また壁外調査の日がやってくるから。
うなじからスルリと移動して、剥き出しの肩に置かれた兵長の手はとても温かい。手のひらからじんわりと伝わってくる繊細な感情。
私がもっと強ければ少しは和らげる事ができたのだろうか。私が言われたとおりもっと早く兵士を辞めていれば…。決意と後悔が湯に交じる茶葉の色の様に複雑に入り交じる。せめてもの救いだと、ケトルからの温かな湯気が私達を優しく包んでくれていた。
「沸いたみてぇだ」
「あ…」
「俺がやる」
肩に置かれていた兵長の右手が前に伸びてきて、ケトルを傾けてゆっくりとポットに湯が注がれてゆく。注ぎ終わったタイミングで耳に押し付けられた唇から囁かれた愛の言葉。言葉が詰まって私はただただ涙を堪らえて兵長に頰を寄せて頷くしかなかった。
あなたの大好きな紅茶のかぐわしい匂い。
この狂おしいほどに切なく幸せな一瞬も一秒過ぎれば暖色の美しい記憶に変わっていく。忘れないように、あなたと共に過ごした日々が確かにあった事を。すでに捧げてしまった心臓の片隅にそっと秘めたこの日の事を。