Etude Dance*
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九月──
木製の開かずの窓から見える景色は、室内のセピア色の化石とは対照的に鱗雲は空に柔らかなヴェールをかけて街は黄金に輝きつつある。
「目付きの悪い彼とはうまくいってる?」
三ヶ月に一度の定期検診。先日ヒートが終わり抑制剤を貰いにきた。
いつものように大小様々な動物の脳から脊椎が納められたホルマリン漬けの瓶やら埃っぽい分厚い本に囲まれたハンジの診察室兼研究室に来ている。
数年前に建てられたバンクに隣接する今時珍しい木造建ての大学病院。年代物のこの建物は百年前に偉大な研究者がノーベル賞の賞金を投じて建てたそうだ。
「別に……普通です」
「うっそだー! ほら見てよ! ストレス数値が前よりかなり下がってる! 彼との電話楽しいんでしょ? そうなんでしょ? ねぇねぇ一体彼と何を話してるの? ハンジ先生にそこんとこ詳しく教えてくれよ〜!」
「急に元気にならないで下さいよ……プライベートの事ですから、それはちょっと」
「え~! ケチ~!」
好奇心旺盛な子供のように目をキラキラさせて聞いてくるハンジに喋ったら最後、この人は冗談抜きで人のプライベートを事細かに論文に書いて全世界に発表するに違いない。しかも悪気がないから更に厄介。考えただけでぶるりと寒気がした。
「そこを何とか頼むよ……高適合のアルファとオメガの日常会話なんて実に興味深い。もし何か解明できればバースタイプに支配された我々人類の長い歴史に一石を投じられるんだ。秘密は厳守する! 全人類を救うと思って教えてほしい! 一生のお願い!」
「そんな大げさな。別に大した話してませんよ」
「だからこそ知りたいんだよ~!」
ハンジは両手で自分の手を握りしめ懇願してくる。
この人の異常な好奇心と熱意は出会った頃から変わらない。そんなに熱心にやらなくてもアルファの研究者として将来安泰なのに、人の気持ちそっちのけで研究に没頭して、周りを振り回して、自分の健康も顧みずに時には何日も研究室に泊まり込んでいるのを、ずっと前から知っている。
「だから……」
「うんうん!」
「今日は何してた、とか……彼が撮った写真を送ってくれたり、とか……」
「えぇえ、ナニしてたとか聞いてくる上にエッチな自撮り写真を送ってくるの?! あいつすました顔してやることキモいな!」
「何でそれ見て数値下がってるんですか、おかしいでしょ」
「確かに! そうなると貴方は露出狂好きの痴女になってしまう! この場合お互い変態になってしまうよ!」
「もういいです」
クソ真面目に掌を拳で鼓を打つハンジを見ていると、馬鹿と天才は紙一重という言葉はあながち間違っていないと思う。凡人の自分には到底たどり着けない領域に彼女は到達してしまっている。こういう時は、もう諦めるしかなのだ。遠い目をして彼女が戻ってくるのを待っていると、ハンジがハッと我に返り申し訳なさそうに後頭部を手でなでつけた。
「ごめんごめん、昔から興奮してしまうと仮説がぶっ飛んでしまうんだ。悪い癖が出てしまったよ」
「先生の滾りは宇宙まで届きますからね」
「ハハ……次から気を付けるから許しておくれよ。そんなことよりさ! これを見てよ! 貴方もこれを見れば自分の体に起きている大きな変化を実感できるんじゃないかな」
ハンジが気を取り直して乱雑とした机の上をガサガサと探し、先ほど実施した血液検査の結果が書かれた一枚の紙を見せてきた。
グラフやら聞きなれない分泌物名がびっしりと書き連ねてあるそれは確かに三ヶ月前より良好を示している。ただ良好といってもまだまだ安定には程遠い数字。オメガの身体と心の繋がりは解明されていないことが多く、謎に包まれている。
「がんばったんだね」
「え?」
「ほら、前回の六月のデータなんかひどいもんだったじゃないか。折れ線グラフがこの世の終わりみたいにジグザグでさ、ここまで落ち着くまでに結構反動があったんじゃないかと思って」
「反動……」
「反発現象と言って心の急激な変化が起こる前に現れる身体の防衛反応だよ。ストレスに弱いオメガ性によく表れる。ごめんね、先に説明しなくて。これを言ったらあなたは彼との電話を辞めてしまうんじゃないかと思って……荒療治だったけれど、これしか方法が思いつかなかったんだ。今度こそ怒ったかい?」
申し訳なさそうにするハンジを見てもう怒りは湧いてこない。それは今の体調が過去一番安定していることと、今まで出会った医師の中で彼女のオメガ性への理解と知識が桁外れなことを知っているからだ。それに自分の事を真摯に考えて、全力でぶつかってくるような人はもう自分には彼女ぐらいしか居ない。
「いえ、ハンジ先生がそう考えたのならきっとそれが一番良い方法だったんだと思います。そのお陰で最近は起きるときにそんなに辛くないし、こんなに調子がいいのは初めてなんです」
「そうなのかい? よかった。抑制剤、一つ弱い物にしておくね。きっと次のヒートでは効きが全然違う事を実感できると思う。これからどんどん身体も心も楽になる」
ハンジが体調が良いと言った自分に安堵したように微笑みかけてから、検査結果を嬉しそうに眺め書類に埋もれがちのデスクトップパソコンに処方箋データの入力をしだした。
キーの上を軽やかに動くハンジの長い指を眺めながら、ふと、前回のヒートは予定もズレたし経験したことがないくらいに辛かったことを思い出す。それがハンジの言う反発現象で最近急に落ち着いてきた事に関係しているのなら、やはりその原因は……
「どうしたの? 他に何か気になることがある?」
「あ、いえ……何だったっけ……」
「来週から学会に出席するために不在になる。すぐに会えなくなるからなんでも遠慮なく言っておくれ」
入力を終え、データを送信したハンジがズイっと顔を覗き込んできた。急に距離を縮められて考えていたことが散らばってしまった。言葉がうまく紡ぎ出せなくて助けを求めるようにハンジのデスクに置かれた遺伝子模型を見つめる。
点と線が螺旋状に絡み合い重なりあった模型。学生の頃にDNAは体の設計図なんて教わった。そしてバースタイプもちろんこれに組み込まれている。
両親から半分づつ受け継がれたこのデータが二十三の染色体に纏められオメガの自分を作った。平凡なベータの両親の元に突然変異で劣勢オメガとして産まれてきた自分。
今でも覚えている。
十五歳の時に受けた検査結果は自分も両親も当然ベータだと思っていたから、崖から突き落とされたような気分だった。厳密に言うと、子供だった自分はいまいち状況を理解しておらず診断結果を見たときはあっけにとられただけだった。でも検査結果を知ったあの日の母親の姿を見て、自分はとんでもない過ちを犯してしまったのだと子供ながらに思ったのだ。
逆にベータからアルファが産まれてくることも稀にあるそうだが、こちらは砂漠からダイヤを見つけてしまったような感覚だろうか?
人生何が起こるか分からないとつくづく思う。
「何故番が存在するのかは解明されていない」
「え?」
「今から約百年前、アンヘル・アールトネン教授がアルファとオメガの細胞にだけ型があることを発見した。その型は一人一人違っていて、型がパズルのピースのように合わされば合わさるほど適合率は上がる。簡単に言えば相性だね、アルファとオメガであっても全然型が合わない場合もあるし、それらが番関係になったとしても関係が破綻しやすいと研究結果に出ている」
唐突に話し始めたハンジは自分が遺伝子模型を見ていたために番について考えていると思ったらしく、デスクの中央に見えやすく模型を持ってくると話を続けた。
「三種の中で繁殖率が一番低いオメガが優れた子孫を多く残す為に番という仕組みが出来上がったという仮説が今は一番有力だけど、立証されていない。番システムが無い方が母数が少ない我々にとって繁殖は効率的だしね。本当に不思議な関係だよね、私たちって。人は一人で産まれてきて一人で死んでいく。それなのに細胞レベルで運命の相手を求めてる。きっとひっつき虫みたいにくっついてないと不安なのかな? 困ったもんだ」
困ったもの──
命の重さは平等と言うが、生まれ落ちた時から決まっている格差にこれ程ぴったりとくる陳腐な台詞はない。
「ハンジ先生は、もしソウルメイトと出会ったらどうしますか?」
「え?」
「いや……あの、確率はかなり低いですけど先生と相性が良いオメガがこの世界のどこかにいるかもしれないんですよね? もしも、出会ってしまったら……私みたいに」
自分の言葉で、部屋の中の時が止まった気がした。
そして、時計の針は戻りだす。
棚に並べられている土色の標本たちは、今度はハンジや自分をとり残してみるみるうちに色鮮やかな元の姿へと戻っていく。締め切った部屋の隅に追いやられ少し元気がなかった観葉植物たちが葉をさわさわと音を立てて背が伸びる。標本になっていた世界一美しいと称されるモンフォ蝶が生い茂った葉の先に止まる。
そしてとうとう瓶の中で暴れていた雄のルリビタキが外に飛び出して、ハンジの肩にとまった。
「出会って、しまったら……」
ハンジが呟きながら差し出した指を、小指の爪程の嘴でルリビタキは愛らしく啄む。
今は瓶の中で眠る生き物たちが瑞々しく動いていた頃から、この問いを人類は繰り返している。永遠と繰り返すループの出口。毎日繰り返す彼との会話のその先──
ハッと我に返り、ハンジの方を見ると彼女の指を啄んでいた美しい鳥は元の埃を被った瓶の中に戻っていた。他の生き物たちも同じく、今の姿に。
「出会って、しまったら、か……」
ハンジは自分が投げかけた質問を復唱し、遺伝子模型の狂いない螺旋を見つめた。彼女のレンズ越しのブラウンの瞳が今まで見た事もないほどに困惑している。それもそうだ、初めて自分からバースの事で質問をしたのだから。でも言わなければよかったと早々に後悔をした。それはいつも陽気な彼女があまりにも真剣に黙り込んでしまったから。すぐにいつも天真爛漫な女医のプライベートに入り込み過ぎたと気がついた。
「先生すみません、今の話は忘れて下さい」
「いや、謝らないで。まさかあなたからそんな質問をされる日が来るなんて……研究者の端くれとして光栄に思うよ」
ハンジは大げさに睫毛を瞬かせた後に、それはそれは嬉しそうに笑った。これまでの二人の関係の変化をとてもよく表した反応だった。
「そうだね。何十億分の一の確率だけど、実際に目の前のあなたはその確率に遭遇している訳だし、バンクができて出会う確率は飛躍的に上がった。勿論私も普通に生活しているけど道端でばったり会っちゃうとか、患者さんとして来るなんてことも十分にあり得る。毎日普通に生活してるけど、他人事じゃない」
ハンジはキイキイとくたびれた椅子を鳴らしながら後頭部に両手を添えて考え出した。その姿は喋らなければとても様になる。彫刻のような筋の通った鼻筋に、バランスの取れた骨格と無駄がない筋肉で覆われた丈夫な肌。まるで上品なシャム猫のようだ。やはり自分とは遺伝子レベルから違うことを思わせた。
「あなたのように全然懐かない野良猫みたいなツンデレオメガなら、首輪をつけて監禁してモブリットと三人一つ屋根の下で住んでもいいかな。観賞用として可愛いじゃないか」
「え……」
「アハハ、ごめんごめんジョークだよ。毎度おなじみ世界を震撼させるアルファジョーク!」
「先生なら本当にやりそうで全然笑えないんですけど……」
「ハハ、これは余談だけどアルファのジョークは三種の中で一番つまらないって研究結果にしっかり出てるよ」
ハンジは面白いことを言ったとご満悦だがオメガの自分にとってはとてもじゃないが生生しくて笑えない。彼女がまだ一年目の女医で自分の担当医になったときはこんな事の繰り返しで話が全く噛み合わず、話の途中で帰った事もあったが今では彼女に助言を受けいれるまでになった。随分とよく飼い慣らされたものだ。
「ま、冗談はその辺にしてさ、質問は適合した者を選ぶか選ばないかだったよね。結論から言うと後者だね。私は選ばない。私が選ぶのはモブリットだ」
ハンジの答えは穏やかで、そして力強かった。
「え! モブリットってあのモブリットさん? 助手の?」
「そうそう、助手のモブリット。それ以外にそんな名前の人居ないでしょ。言ってなかったっけ? 私たちの事」
「は、初耳です……」
モブリットとはハンジの長年のベータの助手だ。やはり二人は恋人同士だったのか……何となくそんな気はしていたがハンジの口から直接聞いたのはこれが初めてだった。
「理性が焼き切れても私は彼を想う。彼の事を愛する気持ちは今この時、私の中に確かに存在している。それだけは不変の事実で、まやかし物じゃない、本物だよ。ずっと二人で共有してきた時間が証さ。私は彼を失望させたくないし関係を壊したくない。それに現在進行形でアルファが使う抑制薬も臨床試験中だ。これからも研究を続けていくよ、知性ある人が人らしく在るために。私が私らしく在るために。この無情な世界に抗う術はまず、己を知ることだからね」
「先生……」
驚いている内に続けられたハンジの言葉は、まるで心臓のように脈打っていた。
熱く、強く漲っている。
「アハハ、なんか熱くなっちゃって私らしくないな」
「そんなことないです。すごく先生らしい」
聡明で力強い答えだったと言い終わるのと前にバサバサと部屋の扉の向こう側で書類が盛大に落ちる音がした。それと分かり易い慌てる人影。
「「あ」」
「……どうしてくれるのさ、この後の空気」
「す、すみません……まさかこのタイミングで、こうなるなんて……」
「全くだよ。今度お茶でも奢ってもらおうかな」
申し訳なさそうにする自分を尻目にポリポリと頭をかきながらハンジは遺伝子模型をデスクの隅に戻した。彼女が体を動かした拍子にトレードマークの眼鏡が窓から差し込む秋の日差しに反射していつもの好奇心旺盛なブラウンの瞳を隠してしまった。
血色が秋晴れの空に映えたピンクの秋桜と同じだ。
この化石だらけの部屋の中で、今ハンジだけが艶やかな輝きを放っている。
「先生、なんだか今日はかわいいですね」
「なんっなんだよこの状況は! さっきの仕返しかい? 勘弁してくれよ!」
「ふふっ」
ハンジが混乱して頭を抱える。
人を愛し敬う気持ち。
それはこの歪んだ世界に確かに存在する尊い感情。
それを知る人は聡明で、とても美しかった。
「まぁさ、バースタイプなんて色眼鏡外して彼との会話を楽しめばいい。口は悪いし少々強引だけどオメガを物のように扱うような悪意は感じられない」
「そうでしょうか……イマイチ彼が何を考えているかよく分かりません。強引に話を進めるときもあれば、そうじゃない時もある」
「へぇ……あの男にもそんな事があるんだねぇ」
気を取り直したハンジはいつものハンジに切り替わり好奇心が行き過ぎてニヤニヤとしている。
「あれだけ強力なアルファだと、オメガを惑わすことも容易だ。それが出来るのに彼は一年対話する事を選んだ。番を強要しないと誓約書にまでサインをした。毎日の電話で嘘偽りをしていないのもあなたのデータ見れば一目瞭然。何か自分の中でも彼の存在が変化してきてるんじゃない?」
「まさかそんなこと……」
ふと、昨夜のリヴァイを思い出す。
仕事で使う掃除道具の事について聞いてきたリヴァイは、使用する業務用の薬品にまで熱心に自分の話に耳を傾けた。どうやら掃除が好きらしく、彼の掃除方法は普段自分が仕事でやる方法とそう大差なく個人でそこまでするのかと感心した。
そして、今日仕事が休みだったのでいつもより長く話をした。瞼が重たくなるまで。
それを思い出した瞬間、チリリとうなじに静電気のような刺激を感じて首に手を添えた。そういえば最近、こんなことが多い。
「フフ……あなた達、滾るねぇ」
「え?」
「心配しなくてもあなたの気持ちはあなたのものさ」
「三日ぶりか。病院はどうだった?」
「別に、いつもと変わらないよ。ねぇ、今どこにいるの? 最近行き先を言ってくれないじゃない」
「その方がおもしれぇだろ。何処だと思う?」
リヴァイは今日も世界のどこかに出掛けている。
「……アジア? オリエンタルなランタンが見える。周り凄い人ね」
「そうだ。今日は陰暦で祭りの日らしい。見たことあったか?」
「映画で似たようなものを見た。アニメの……名前は忘れたけど……知ってる?」
「アニメは見ねぇ」
リヴァイは相変わらず世界を彼女に見せ続けた。
彼女は世界を見せるとまるで少女のように無垢で、よく喋った。彼女はまだ自分の国から出たことがなかった。リヴァイは彼女のモノクロの世界に風穴を開けた。
液晶画面越しにだが、彼女と同じ世界を見たいと思ったからだ。これから先も、ずっとだ。
新婚で浮かれている知り合いのアルファのコーディネーターは男の一目惚れは長続きすると豪語している。アラフォーの男が派手に浮かれている。
少しずつ、少しずつ、距離を近づけたい。こんなこと焦れったいが、これが本来の人と人との心を通わせる自然な姿なのだと思う。
「何てお祭り?」
「コムローイと言うらしい。願いが叶うように皆空に飛ばしている」
「近くで見ると大きいのね」
「数人で上げねぇと出来ねぇみたいだな」
人と灯りで埋め尽くされた寺院。
リヴァイの声と微かに僧侶の祈りの声が入り交じる。リヴァイは人々の合間を縫うようにゆっくりと歩いていく。空に上げる前の大きなランタンは人の背ぐらいあるが、それでも夜空に高く昇ると星屑のように小さく儚い。
スマホの画面からでも舞い上がる無数のランタンはとても幻想的だった。時折目を細めて空を見上げるリヴァイの横顔は、ランタンの灯りで橙に色化粧されいつもより表情が柔らかく見えた。
「あなたはあげたの? あ……」
何気なく流れで聞いた。そして自分で気が付いた。
「リヴァイでいい」
「……リヴァイは、あげたの?」
「やっと俺の名前呼んだな」
「あなたがそれでいいって言ったんじゃない」
「そんなムキになるなよ、可愛げねぇな」
「前からこんな性格よ」
「そういやぁ会った時から気が強かったな。そんなところが悪くないと思ったんだった」
「……」
「ランタンはあげてねぇ、願いは自分の力で叶えるものだからな」
「そう……」
さらりと言われ慣れた口説き文句に何も反応できないでいると、スマートにリヴァイは話題を変えて、なんともアルファらしい野心ある答えを返してきた。
そしてふと思う。そういえば彼はこの世界の頂点に君臨する上位のアルファだった。彼の半ば命令のような形でこうして毎日電話をするようになって、半年後にもう一度会って番になるのを断らなければならない。
忘れていた。そんな約束。
リヴァイの声が鼓膜から脳に心地よいと信号を送る。いつからそう思うようになってしまったのだろう。電話が待ち遠しくて時間帯になるといつの間にかスマホを握りしめている。でも一回目のコールで出るのは待っていたようで恥ずかしいから、五回コール鳴らしてからいつもとるようにしている。
今では彼の事を考えただけでうなじはジリジリと日焼けしたように熱を持つ。
甘く、鋭利な痛みを期待するように。
リヴァイは寺院中央から寺沿いに流れている河川敷まで出て川沿いを歩いていた。川にも沢山の灯籠が流され細長く続く様はまるで鏡で映した天の川のようだ。
人々の無数の願い。空に昇れば星屑のようにちっぽけで見えなくなって、夜空は人々の願いを容赦なく吸い込んでいく。
(酷い趣味ね……)
全部叶える気などないのに、人の願いを悪戯に集めて神様は悪趣味だと思う。願いの重さなんて例え神でさえも計り知る事は出来ない。きっとそうだ。だって願いの重みを神が分かっているのなら、とっくの昔にバースなんて世界から消滅している。
「こっちのほうがよく見えるだろ」
リヴァイはいつの間にか高台を登っていたようで、少し画面が揺れた後、景色がよく見えるようにスマホを掲げてくれた。思っていたよりも寺院は広く、さっきよりもたくさんの人々が折り重なって見える。こんなにも空に願う人々は圧巻だった。
ふとある家族が目に留まる。ランタンを仲睦まじくあげている三人家族。両親とその娘だろうか。笑顔をたたえた少女の口元から白い歯が見え隠れする。暗闇でもそれがよくわった。何故かそれだけが。
「見えるか?」
「うん……」
少女と両親。三人で抱き合って、彼らは一つになって。この瞬間だけは、肉体も、魂も、目に見えない薄っぺらな膜を越えて繋がった。沸き上がる感情がさっきから自分の何かを震わせている。綺麗な場所だけれど、悲しい。本当は気がつきたくなかった。
此処はこの世で一番美しい世界の果てだ。
リヴァイを画面越しに追い掛けていたら、とうとうこんなところまできてしまった。はたして引き返せるだろうか。戻れる自信がない。だってもう、ランタンの灯は見えなくなってしまった。
二人を静寂が包み込む。祭りが終わりに近いのか、僧侶の祈りも聞こえない。灯した明かりはやがて徐々に小さくなり音もなく闇夜に消えた。
「なぁ」
「何?」
画面越しにリヴァイがこちらを見て立っているのが見えた。
彼は昼間のトムフォードのスーツではなく真っ白なティーシャツ姿で、いつも後ろに流している髪を下ろしていた。
強面のアルファとして武装していない本当の彼。自分はこんな青年とずっと今まで話をしていたのか。信じられない。でも、薄々気づいていた。
本当はそうなんじゃないかって。
「ルリ」
彼が私の名前を遠くで呼んでいる。不思議な気持ちだ。彼がこの世界で私を知っていることが本当に不思議でならない。私は錆びた鉄柵のある古ぼけたアパートの中に居たのに、毎日閉じこもっていたのに、彼はどうやって私の存在を知ったのだろう? どうやって私をここまで連れてきたのだろう?
「何か、気に障る様なことを言ったか?」
リヴァイは絞り出すように言葉を紡いだ。いつもの自信に満ちた彼ではない。何千キロの距離で隔てられていてもリヴァイは何かを感じ取っていた。アルファの感覚はまるで野生の狼のように研ぎ澄まされている。
「なんでもないよ、ただ、感動しただけ。とっても綺麗だったから」
「嘘はよせ」
嘘じゃない。本当に感動して、それで……
「おい、顔を見せろ。なんで何も喋らねぇ」
リヴァイの声が少しだけ動揺している。
「それはもう、できないよ……」
きっと私の願いを知ってしまったら、あなたは失望してしまうのでしょう。だから、どうかこのまま、何も話させないで。私の心は見透かさないで欲しい。
ねぇ、お願い。
今はうなじじゃない。
張り裂けそうに胸が痛いの。
「今すぐ会いたい」
「そんなの無理だよ……だって、こんなにも私と貴方は離れてる……」
「離れてなんかねぇだろ! 待て、切るな!」
リヴァイが怒ったように叫ぶ。必死に私を手繰り寄せている。今この電話が切れてしまったらまたは無いことまで、彼はわかってしまっているのだ。
「返事を、してくれ……頼む」
「……なに?」
「俺の名前を呼べ。いいから」
「……リヴァイ、ごめんね。私なんかが貴方のオメガで」
「っ、そんなこと、言うんじゃねぇよ」
早く閉じよう
私には眩しすぎた
貴方も、世界も