Etude Dance*
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灰色の空。冬の雲は誰かが怒って殴り書きしたようなグラデーションで、落っこちてくるんじゃないかと思うぐらい不安定だ。そしてあわせ鏡になった広場は、聖堂をキレイに閉じ込めてしまった。
「リヴァイは濡れなかったの?」
「あぁ。昨日から警報が出てたから、最初のサイレンを聞いてすぐにホテルに戻った」
電話口からは、アクア・アルタの発生状況を報せる何段階目かのサイレンが遠くの方で聞こえている。今年は異常気象のせいで、平年なら年に数回しか起こらない冬の風物詩はもう既に十回を超えているという。
「幻想的ね……まるで鏡の世界に閉じ込められたみたい」
「観光客からすればな。住民は毎回浸水してたまったもんじゃねぇだろうな」
リヴァイの視線の先には観光客が濡れずに歩く為に高く作られた木の板を必死に設置する人々や、テラス席の椅子を高く積み上げているレストランのスタッフが見えていた。
アクア・アルタとは高潮の事。
冬になると何度も何度も押し寄せて、ベネチアの街を冷たい水の中に沈め込む。水の都とは綺麗な呼び名だが、住民達からしてみれば全く迷惑な現象なのだ。リヴァイはホテルの窓辺に立っているらしく、窓から覗く景色をいつものようにスマートフォンのカメラから私に見せてくれている。
避難し忘れたのか、それともあえてそうしているのか、浸水した広場の真ん中を水面に映った大聖堂を揺らめかせながらコートを着た一人の男が水に浸かりながら歩いていた。
「災難なこったな、ここ迄なるとは思わなかったんだろう」
リヴァイも広場をずぶ濡れで歩く男に気づいたらしく、言葉とは裏腹に全く憐れんでいない調子で呟いた。
「わざとそうしているのかも」
「わざと膝から下を濡らして高そうなスーツ一着無駄にしてるのか?」
「分からないけどああやって歩いていると、自分を認識するのにはうってつけだもの」
バンクのルームのように、この世界では時折己を認識する事はとても重要だ。この世に二つの性を持って生まれ、複雑に理性と本能が絡み合った混沌とした世界で生きていくという事。星の瞬きのように一瞬のようで、実は割と長く感じてしまう一生だから。その中で人々は何度も自問自答を繰り返す。人を愛するということを。
二人が静かに見つめる中、男は黙々と歩いていつの間にか広場の中心に辿り着いていた。
「辿り着くと、嫌でもわかっちまう事もある」
「あ」
男の足取りが早くなった。バシャバシャと白い水飛沫が大きくなる。
その先に、人影があった所まで微かにみえたが、リヴァイがカメラを辞めてただの通話に戻してしまったので男のその先の行動を知る事はできなかった。
「リヴァイ」
「何だ」
「もう、あなたの顔を見ることは出来ないの?」
いつの間にか高潮を報せるサイレンも止んでいて、静寂の中に二人でとり残されていた。
あの日、
リヴァイは抑制剤を打った直後に意識を失った。タイミングよくハンジから電話があって状況を説明すると、急いでモブリットと駆け付けてくれた。
その後はハンジの大学病院に運ばれて、二人とも数日間入院を余儀なくされた。リヴァイの意識は三日後に戻ったが、会うことは許されなかった。
「リヴァイは?」
「昨日目を覚ました。体調は特に問題ないよ、テスト段階の抑制剤を使っても副作用も何も出ないなんてびっくりさ。
血液検査の結果、自分の身体には確かにあの時ヒートが起きていた。摩訶不思議な短時間のヒート。適合率の高いアルファとオメガの症例は殆ど無く、流石のハンジも何故こんなことが起こったのか驚きを隠せないようだった。
「全ては私の責任だ。あなた達の繋がりを軽んじた。自分の判断があなたを危ない目にあわせた」
「先生、そんな自分を責めないで下さい。彼を呼んだのも、扉を開けたのも私です」
唇を噛み締めて辛そうな顔をしているハンジを見ているとこちらまで辛くなってくる。詰め寄るリヴァイに万が一何かあったときにと抑制剤を渡したし、物理的に距離もあった。それに、ヒートの時期でもなかった。誰がこうなることを想像できただろう。
抑制剤無しのヒート状態のオメガに遭遇したアルファはリミッターが外れたように制御が効かなくなる。助けに来たハンジでさえもヒート状態の自分を見ていたらどうなっていたのか分からないという。強いアルファは帰巣本能も特に強い。それなのにリヴァイは、自我を取り戻し自分を守った。
「あの、私とリヴァイはこれからどうなるんですか?」
「彼も自分の犯した事にひどくショックを受けている。まだお互い不安定だから当分連絡を取り合う事は避けたほうがいい」
「そんな……」
後日、リヴァイの方から謝罪とこの関係を解消する申し出がエルヴィンを通してあったが、あれほどリヴァイを拒んでいたが、その申し出を今度は頑なに拒否をした。仲介役のエルヴィンに泣きながら期日の春まで待ってほしいと懇願し、当初の約束通り二人の電話は続いている。
「見せれる訳ねぇだろう……俺がお前に何をしたのか……深く、傷つけた。取り返しのつかない事をした」
「リヴァイがやってない」
「俺がやったんだ。この手で俺が……今でもこの手で、お前の首を絞めた感触は残ってる」
「待って! 切らないで!」
「俺達はよく考えねぇといけねぇ。近すぎるんだ、俺たちは」
その声は初めて会ったときのような力強さはなかった。不安と、恐れ、そして孤独な静けさを孕んでいる。
それは今のリヴァイにとても馴染んでいた。
これまでに、きっとリヴァイは幾度となくこの類を経験してきているのだろう。そして今もまた、ひどく傷ついて、絶望している。
迫りくる冬の水が、人の心に蝕む闇をすべて抱き清め洗い流してくれるのなら。
「リヴァイ……私から離れないで……」
最後の振り絞るように出した言葉は救いを求めている彼に聞こえたのだろうか、その電話を境にリヴァイからの連絡はなくなった。
春
「こちらでお待ちください」
「ありがとう」
受付のスタッフに連れられて、バンク中央の応接広間に案内された。人が少ない平日の午後だからか、フロアを利用しているのは自分だけだった。高そうな椅子に腰かけてみたが、どうも落ち着かない。そういえば、リヴァイはバンクは落ち着かないから嫌いだと言っていた。なんとなくその気持ちが分かる気がする。
どんなに用意された型にはめ込もうともしても、それは不可能だ。私たちは私たち。自分たちだけの道を歩いていく。
暫く椅子に腰かけて中庭を眺めていたが、ふと中庭に出れるガラス張りの扉を見つけドアノブを回してみる。鍵はかかっておらず、あっけなく外に出ることができた。
「満開ね」
一人で呟いた言葉は、春の風に乗った花びらと共に舞い散った。ここまでくる道のりでも、桜は各所に咲いていた。バンクの中庭の桜は今年も見事に咲き誇っている。
「この桜が咲いた頃、もう一度お前に番になるか聞こう」
一年前のあの日。初めて会った日の約束。忘れる訳がない。あの日から、時が止まっていた自分はリヴァイと出会ってゆっくりとまた動き始めた。
怖かった。嫌だった。また傷つくんじゃないかと。
人を愛することは恐ろしく、美しいものだから。
本能に任せれば、生を消費する事は簡単だ。けれどそれをしたくないと思う。季節が移り変わるようにゆっくりと変化していく心を、愛する人と共有する事の尊さを知ったから。
「咲いたな。随分と変わった。悪くねぇ」
懐かしい低音。その言葉だけで春風に舞い上げられた花びらのように心が踊る。
今日はいつものくだびれた服じゃない。煙草を辞めて浮いたお金で買ったワンピース。髪も手入れして、メイクも少しだけした。ちゃんとした服を買うなんて初めてで、よく分からなくて勇気を出してお店の人に相談した。今まで人と関わらないように生きてきて初めてこんなことをして、でも綺麗になった自分を見てもらいたいという単純な高揚感は、自分でも悪くないと思った。
彼の一言に単純に浮かれてしまったり、彼の事を考えながら服を選んだり、そしてやっと会えたこと。さっきからパシパシと火花のような暖色の刺激が巡っている。恋をする心はとても目まぐるしい。
「なんて面だ。俺が来ねぇとでも思ったのか」
リヴァイは私が今にも泣きそうな顔をするものだから、そんな風に茶化して声をかけてくる。久しぶりに見る彼はスーツを着ていなくて、やはりどこか幼く映った。
「だって、私から連絡しても全然出てくれないんだもん。もう会えないかと思った」
「悪かった、独りになってよく考える必要があった」
桜色に霞んでしまったリヴァイを、必死に涙を堪えて取り戻そうとする。もう離れないでほしい。掴んだ手を離さないで欲しい。
「あの時は……本当にすまなかった。直接会って謝らなきゃならねぇと、ずっと思ってた」
「もういいよ、リヴァイの気持ちは分かってる」
苦しい。ジグジグ痛む傷口みたいな、リヴァイの気持ち。
「あの時の俺も、今の俺も、俺に変わりない。結局俺は、全部受け入れるしかねぇんだ」
「うん……」
リヴァイは顔を切なそうに歪める。
彼にも今まで生きてきて、だからこそ知る葛藤がある。
「だが俺は絶対に、お前を傷つけない。だから……俺の側にずっと居てほしい」
桜色の中の灰色は補色でもないのにやけに映えていた。迷いないグレー。美しく複雑に折り重なった曖昧な色。それを隠さぬように、ひらひらと桜が舞い散る。
「リヴァイ私ね、リヴァイが側に居てくれたら、自分のことが少しだけ好きになれる気がするの」
ちょっと照れ臭そうに笑う私に、リヴァイは驚いたように目を見開いてそして嬉しそうに細まった。
だが手を伸ばして、自分の頬に触れようとしたが寸での所でリヴァイは思い留まった。同じ過ちを繰り返してしまうのではないかという不安が過ぎったのだと直ぐに気がついた。
その手に優しく触れる。ピクリと神経質に揺れたリヴァイの手を自分の手と重ねて頬に寄せた。リヴァイが今日の為に危険を承知でハンジに抑制剤を自ら打つと言った事を私は知っている。
「温かくて優しい手。怖くなんかない。貴方に出会えた事が運命だとしたら、それが本能だとしたら、オメガである自分を嫌いになれる訳がない。どんなあなたでも、嫌いになれる訳がない。ちょっとずつだけど、きっと優しくなれる」
導いてくれた運命を自分たちが信じなくて誰が信じてくれるというのだろう。
貴方と一緒なら、どんな世界であろうと、どんな種に生まれようと、生きようと思える。
「あなたの番になります」
「大切にする。ルリ、ずっと一緒だ」
二人の唇は花びらの中で重なった。
季節が移り変わるように、ゆっくりと恋をした。
不格好なダンスを二人で踊るのも、二人で一緒に世界に溶けていくのも、きっと思っているよりも、ずっとずっと悪くない。
1st story end