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空にうまれて間もない闇だった。濃厚な夜気に包まれた屋敷の地下で、リヴァイはその闇に紛れるようにマッチを擦り、古ぼけた石造りの階段に置かれたキャンドル達に階段を下りながらひとつひとつ順に火を灯していた。
「どうして今日じゃないとダメなの?」
月明かりがあった方がよく見えるのに、と階段を下りたところの水路の辺りから彼女の声がする。灯りがなければ、まるで夜闇がこちらに語りかけているようだ。自分以外の屋敷の人間がもしも聞いたとしたら、きっと亡国の英霊かと大騒ぎになっていただろう。大騒ぎになったとしても別にリヴァイは構わないのだが、生憎この場所に近づく人間はリヴァイしか居ない。何故なら屋敷の者達は皆リヴァイが独りになりたいときに来る場所だと思っているからだ。
若くして親を亡くし、アッカーマン家の当主となった彼の心情を想えば、誰もがリヴァイには心安らかになれる場所が必要だと感じていた。それが例え車が普及し荷物の運搬に使われなくなった水路がある陰湿な地下だったとしても。領地に不利益があってはならないと日々奮闘する若き主の心の拠り所なのであれば、静かに見守ることが従者としての勤めなのだと各々口に出さずとも、皆一同にそう思っていた。
何時ものように階段に置かれたキャンドルを全て灯し、持っているランタンを掲げて辺りはやっと顔が見えるくらいに明るくなった所でリヴァイは先程の闇夜からの声に応える。
「新月の日にやれと、ここに書いてある」
ランタンの幾重にも重なる灯りに照らされたリヴァイが、持ってきていた糸が所々引き攣れている崩れかけの装丁の古い本を彼女に掲げて、トントンと人差し指で叩く。屋敷の隠し扉の奥に隠されていたこの本を少年だったリヴァイが偶然見つけ、何年経ったか。随分と回り道をしたが、やっとここまできた。
いつの代の誰が書いたのか、誰が試したのか、何故隠すようにひっそりと存在していたのか。それは分からない。だが見つけた瞬間、これは自分が導き出したものだと云う事だけは理解できた。
これを使い、やるべき事をやれ──
彼女の願いの為に、己の為に見つけ出した本なのだと。それと同時に、彼女の命の行方が自分の手中に収まってしまったことに、リヴァイの心は震え上がった。この日以来ずっとリヴァイの心臓は震えて続けている。もし、もしもだ。取り返しのつかない失敗を侵してしまったら、これ以上苦しまぬやうに彼女を一突で殺し、一緒に水路に身を投げて命尽きようとナイフを腰のベルトに忍ばせた事を彼女は知る由もない。今までに無いほどに自分の心臓が震えている。そのことを、この暗闇でも希望の光としかならぬ彼女に悟られなくてよかったと思った。
「ふふ、なんだか隠れて悪いことをしているみたいね。」
そんな静かなる激情を隠すリヴァイとは裏腹に、水路に腰掛けるように座る彼女の声は唄を歌うように軽やかだった。全く悪びれていない様子でこれから世の中すべての人を出し抜いて起こす、世紀の悪戯に心踊っているみたいだ。
「待ちきれないか?」
「もちろん。きっとうまくいくんだから。」
彼女は無邪気に笑ってみせる。彼女の世界では、人間になった同胞の歌があるらしい。歌は伝承だ。だから自分もそうなれるのだと信じて疑わない。何処からくるのかわからない楽観的な考えは、現実主義のリヴァイには到底理解できぬ戯言だ。だが、彼女に限っては穢れを知らない子供のままごとにつきあわされているような何物にも代えられぬかけがえのない一時に感じてしまう。だから思わず緊張の糸が解れ、いつも彼女の前ではふっと笑ってしまうのだった。
「少し待ってろ」
「うん」
リヴァイは手に持っていたランタンを彼女の側に置いて、綿密に計画していたシナリオを実行する為に作業に移った。
彼女の側でしゃがみ込み、栞を挟んでいたページを開いてランタンで照らされた文字をなぞる。懐中時計の時刻を何度も何度も確認した。
トクトクトクと皮膚が上下するくらい左胸のあたりが騒がしい。さっきから秒針の規則正しい音よりもリヴァイの心臓の鼓動が何倍も早いからだ。それは普段彼女に何時も会う時とは違う類の高鳴りだった。すぐ隣で一緒に文字を追っている彼女はどうだろう?流石の彼女でも、緊張はするのだろうかとやチラリと彼女の方を見る。
予想とは違いスルリと伸びた耳に髪をかけている横顔は、何時もと変わらなかった。穏やかで見惚れてしまう。衣を身に着けるという事をしない彼女の胸元は、長い髪がはり付いて、丸みを帯びた無防備な乳房をしっかりと浮き彫りにする。だから結局、リヴァイの心臓は輪をかけて鼓動を速くさせることしかしなかった。
「暗くて見にくいし、難しい言葉ばかりね」
「言葉自体も言い回しも、かなり古いからな」
「さっきも思ったけど、月か日が出ている時にすればいいのに。そうすればまだ分かりやすい。」
「それが出来ないから、今日なんだ」
「どうして?」
作業が一通り終わり、リヴァイは彼女の方を見る。約束した時刻よりもずっと早くリヴァイをここで待っていたからか、彼女の腰まである髪はもう半分以上束が解けて乾いている。
「生まれた姿を変えるから」
言い終わった瞬間、彼女が指でその髪をすいて、水路に垂らした長い尾びれで愛おしそうに水面の感触をゆっくりと撫でた音がした。彼女は美しい。危険を犯して姿形など変えなくとも、天から与えられた完璧な造形と、無音の世界で培われた人間には到底到達できない深い慈悲を持っている。それを想うと、寧ろ闇の中で消え失せるべきはこれから禁忌を侵し彼女を奪い取ろうとする己であるのではないかとリヴァイの心は背徳感で度々いっぱいになるのだ。
「リヴァイ」
「何だ」
深海の中で発光して漂う海月のような幻想的な瞳と目が合う。この場所で、初めて出会ったのはお互い十にもならない子供だった。互いの親が死んだ時も、体が先に大人になって心だけが取り残された時も、そのことでどうにもギクシャクしてしまった時も。けして離れることはなかった。月日が経っても、この瞳を初めて見たときの感動は忘れられない。
「じゃあ、誰にも見つからないように…今日この時まで、私に青光色の鱗があったことは二人だけの秘密にしましょう。」
「嗚呼」
彼女はそう言うと、リヴァイに向かってニコッと少し尖った可愛らしい歯をみせて笑った。
「時間だ」
リヴァイはそう言って長針と短針が天を指した懐中時計をポケットに仕舞うと、持ってきた毛布を石畳の上に敷き細心の注意を払って彼女を横抱きにして水路から完全に引き上げた。
「これを飲め。そうしたら、変わるはずだ」
懐中時計の次にポケットから取り出したものは、液体の入ったガラスの小瓶だった。不思議なことに中の液体が揺らしていないのにゆっくりと動いている。ランタンの明かりを反射してキラキラ星のように光っていた。
「キレイね…夏の初めの頃によく見る星の川に似ているわ。一体何が入っているの?」
「マントラゴラの干した根を煎って煮出したものと、聖水と…あとは色々と…まぁ聞かない方がいい」
材料を調達するのはそれはそれは骨が折れた。存在しているのか疑わしいものもあったし、それらしいものがあると聞けばどんなに遠くても飛んでいった。解読に困ったのなら、メガネをかけた怪しいけれども知識は底無しの科学者兼闇医者の力を借りた。
彼女はリヴァイの分かりやすい配慮に「知らないでおくことにする」と笑い、顔の高さまで掲げていた瓶のガラス玉の付いた蓋を引き抜いた。
「待て。まずは指にとって、少し舐めてみろ。何度も確認したから配合は間違ってねぇ筈だが、万が一なんかあったら取り返しがつかな…おい!」
心配性のリヴァイが濡れた石畳の境目を見ながら身振り手振りあーだこーだと喋っている内に、リヴァイの眼の前で彼女は白い喉元を見せてくうーっと一滴残らず飲んでしまっていた。
「飲んだのか?!全部?!」
「うん。だって飲めって言ったじゃない。」
リヴァイが呆気に取られて固まっているうちに、彼女は唇についていた僅かな一滴までペロリと舐め取ってしまった。「苦いだろうなって思ったけど何にも味がしなかった」とか何とか言って。
「どうだ?変わってきたか?」
「ううん、特には。」
喋る彼女の見た目も、飲んだ体の中からも、何も変化は起こらない。彼女はじっと広げた自分の手のひらを瞬きもせず見ている。それをリヴァイが固唾を飲んで見つめる。どれくらい時間が経過しただろう。
(駄目か…)
結局、何も起こらなかった。体の力が抜けていく。最悪のことが起こらなかっただけまだしも、正直これに全てをかけていた。彼女の願いを叶えたかった。それに、自分の願いだって…
「ルリ…すまない…」
「失敗だ」と言いかけたその時、突然水路の入口から風が入り込んだ。一瞬でリヴァイが灯した階段やランタンの灯りを消し去りびゅうびゅうごうごうと壁を叩き、音をたてながら暴れる獣の様に四方八方滅茶苦茶な風が吹く。ここ(地下)はそんな風絶対に入ってこない造りだ。一体どうなっているのか。きっと、何かが怒っているのだとリヴァイは思った。彼女を連れて行こうとする愚かな自分に対して何かが抗議している。リヴァイは咄嗟に彼女の肩を抱き寄せ、風から守るようにして抱き締めた。
「クソ野郎!ルリは俺のものだ!」
リヴァイは暗闇に吠えるように叫んだ。彼女もまた自分は彼のものなのだと、シャツ越しにリヴァイにしがみついた。すると予期せぬ暗転から一転、風がピタリと止んだ。
「くそ…なんなんだ一体…」
「リヴァイ!」
「大丈夫だ。もう一度火をつけるから…」
「違うの!体が熱い!」
突然腕の中の彼女が絶叫した。抱きしめているリヴァイも感じる。普段ひんやりとしている彼女が、今は燃えるように熱い。
「熱い!体が燃えてる!」
「おい!しっかりしろ!」
彼女の苦しそうな声がする。暗闇の中で一体何が起こっているのか。光りがない闇の中で、リヴァイにはどうする事もできない。
「クソッ!冷やさねぇと!捕まってろ!このまま水路に飛び込む!」
視覚が無いこの状態で、一体彼女に何が起きているのだろう。リヴァイはこの期に及んで神に縋りたくなった。自分がどんな報いを受けても構わない。悪魔に呪われても、地獄に堕ちても構わない。でも、どうか彼女だけは無傷で返してやってほしい。歌しか知らなかった彼女に、入知恵をしたのは自分だ。この本の存在を教えてしまった。彼女は悪くない。リヴァイは一心不乱に願い、水路があるであろう場所へ飛び込もうとしたその時だ。
「待って!待ってリヴァイ!もう熱くない!」
「ルリ!大丈夫なのか?!」
「平気よ…はぁ、はぁ…怖かった…私、燃えて灰になるのかと…もうリヴァイに会えなくなるかと…」
「馬鹿なこと言うな」
二人でキツく抱き合った。半ばパニックに近い二人の息遣いだけが、暗闇の中で響く。
そしてリヴァイは気が付いた。自分の腕の中に抱くようにしている彼女の頭。掌で押さえるようにしていた彼女の耳の輪郭が、丸く、ひと回り小さくなっていることに。
「おい…これ…」
リヴァイは恐る恐る手を彼女の身体に沿って滑らせていく。燃えるように熱かった身体はもう鎮まり、自分と同じような程よい人肌になっている。肩、腕、腰…そして…
「リヴァイ、私に脚がある!」
「嗚呼。ちょっと待ってろ」
リヴァイは急いでマッチを擦り、手探りで探し当てたランタンにもう一度火を灯す。階段の灯りが無いため、本当に小さな範囲しか照らすことは出来ない。それでも、彼女の尖った耳も、水掻きがついていた手も、リヴァイの瞳の色のような美しかった鱗達も、全てが熱で闇に溶け出し人間の彼女だけがリヴァイの腕の中に残されていた。ぼんやりと灯りに照らされた彼女の下肢。冷たい水路の水を浴びていないさらさらとした肌。細くしなやかに、整った爪の先まで伸びている。
「そんなふうに触られたら、なんだか恥ずかしいわ…」
「わりぃ」
ハッとしてリヴァイが彼女の脚を伝っていた指を引っ込める。水の中に居たときはあんなにも開放的だったのに、種が変わると気持ちにも変化があるのだろうか。そんなことをリヴァイが考えていると、彼女がぶるりと体を震わせた。
「さむい…私、こんなにもさむいところにずっと裸で居たのね。」
「早く俺の部屋に行こう」
リヴァイはそう言うと、彼女を毛布で包み込みランタンを持って立ち上がる。
「歯も違うわ。私達、もう血の味のキスをしなくて済むわね」
「もうその話は忘れろよ」
「忘れられないわ。私の記憶は全てが煌めく宝物なの。」
階段を登る途中、甘酸っぱい失敗談を蒸し返して彼女はクスクスと笑う。その歯はもう尖さを失った。そうやって、失われていくのだと思う。時代は中世から近世へ。おとぎ話の中の生き物は伝承と共に架空の存在となり人々の記憶から忘れ去られていく。忘却の彼方へ。確かに実在した、水の中に居た歌を愛する美しい人々のことを。その最後の一人の彼女の事は、震えが止んだリヴァイの心臓にしっかりと刻まれている。
「リヴァイ、私ヒコウテイに乗りたいわ。それとテツドウも。それから、それから…」
「焦るな。今の身体に慣れたらな」
屋敷へ続く通路に出て扉を閉める。ゆっくり、ゆっくりと。扉が最後、リヴァイの瞳の幅までなった時、確かに見えた。あの古ぼけた書物が、闇に餐まれる所を。とうの昔に廃止された水路、この扉を開けることはじきにに無くなるだろう。
「ありがとうな」
「どうしたの?」
「なんでもねぇ。こっちの話だ」
バタン─────
了
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