不器用な約束
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あれから十何年という時が過ぎた。
中里毅はあの時の宣言通り妙義山で"妙義ナイトキッズ"という走り屋のチームを結成した。
紆余曲折あれど、毅は走り屋が出来ている現状に満足していた。
そして、彼女のことも忘れられないでいた。
「……い、おい、毅」
「っは、な、なんだよ」
「ぼーっとしすぎだ、緊張してんのか?」
「んなわけないだろ」
そうぶっきらぼうに返すも、違う意味で彼は緊張していた。
何て言ったって今日は赤城山に拠点を構えるレッドサンズとの交流戦なのである。
だが、それよりも彼の心を支配していたのは、柳楽澪という存在だった。
いつこの峠に彼女が来るのか思いを馳せては夜が明ける。
毅は彼女のことを忘れていないが彼女は逆かもしれない。
本当にあれから女優として名を轟かせているのかすらわからない。
ただ、毅は来ると信じていた。
例え彼がいる場所がわからなくても、彼女がどんな舞台にいたとしても。
「なぁ、慎吾」
「んだよ」
「柳楽澪って知ってるか」
「知ってるも何も超有名女優ねえか。なんでお前からその名が」
「……そうか、何でもない」
「おい!」
自然と頬が緩むのを感じた。
彼女は彼女の立つ舞台で輝けていた。
それが聞けただけでも満足だった。
一つ溜息を吐いた毅の耳に聞き慣れたスキール音が届いた。
そしてその存在に顔を強張らせ、到着を待った。
表れたのは、黄色のFD。
高橋啓介対中里毅の戦いが始まろうとしていた。
同時刻、道に迷って止まっていた86の横を一台のS13が通り過ぎた。
86に乗っていた武内樹は目を輝かせて運転席で地図と睨めっこしている拓海の肩を叩いた。
「おい拓海!!あのS13についてけば入れるって!」
「はぁ?」
「絶対あれ走り屋だよ!行こうぜ!!」
興奮気味の樹に気圧された拓海は地図を閉じ、S13の後を追うように右折していった。
樹の言ったことは正しく、すぐに多くのギャラリーが見えた。
前を走っていたS13も自分についてきていることがわかっているのか、86から見えるくらいに距離を保ち、少しスピードを落として走行している。
「やっぱりあのS13も走り屋だったんだなぁ」
「S13?」
「ほら、前を走ってる車だよ。この時間に妙義山に来るってことはこの勝負を見に来た走り屋だろぉ?」
「ふーん……」
拓海はさして興味を示さず、樹に先に到着している池谷達を探すよう促した。
「秋名のハチロクだ!」
「豆腐屋のハチロク……」
「あれがか!」
「でもあの前を走ってたS13、誰だ?」
「いや、知らねえなぁ」
ギャラリーは興奮と疑問でざわついた。
それは勿論啓介と毅の視界にも入っていた。
「ふっ、やっぱり来たか。嫌でも気合が入るぜ」
「ハチロク……とあれはS13?」
「あんなん見たことねえぞ」
「兄貴と同じ色だ」
白色のS13の走り屋など聞いたことがない。
少なくとも、この群馬エリアにはそんな走り屋はいない。
クリスタルホワイトの車体は中にいる持ち主を輝かせる。
煙草を咥えている運転席の主は数多くいる人の中からとある人物を見つけて口角をほんのりと上げた。
「……ようやく会えた」
その一言を紫煙と共に零すと、今まで両手でステアリングを握っていたが、片手をシフトレバーへと置きアクセルを踏む。
程よくカスタムされたその車はまるで咆哮のように音を上げて加速した。
それはまるで峠の攻め方を知っている人間のように頂上へと消えていった。
「うわっ、なんだあれ!?」
「白のS13なんてこの近辺でいたか?」
「誰だアイツ……」
毅は、何となく勘づいてしまった。
まさか、今日に限って来てしまうのか。
「まさか、アイツ……!?」
「知り合いか?」
「……いや、何でもねえ」
毅は言葉を濁すと車に乗り込んだ。
深呼吸を一つ。
カッコわりぃ所は見せられない。
あのS13が、彼女ならば尚更。
頂上の駐車場に止まったS13と86。
先に降りた拓海と樹はどんな人物がS13に乗っているのかが気になっていた。
ガチャッとドアの開く音と共にその人物は現れた。
短い黒髪はストレートパーマをかけたのかさらさらと風に乗って揺れ、切れ長の目は風が気持ちいのか嬉しそうに細められていた。
すらりとした手足は長く、スキニージーンズに黒色のシャツはそのスタイルの良さを引き立てる。
服からのぞく肌は、夜に馴染まない白色だった。
まるで男性かと思うような姿だが、シャツの胸元が微かに膨らんでいる。
「な、なななななんでここに!?!?」
「ん……あぁ、さっきのハチロク」
「知り合いか?樹」
樹の悲鳴に気づいたのか深い黒色の瞳が拓海達を捉える。
やはり拓海達が後を追ってきていたのに気づいていた。
まるで知っているかのような口ぶりをした樹に拓海が聞くと、樹は拓海の胸倉を掴んで揺さぶった。
「知り合いなんてもんじゃねえよ!!拓海お前知らないのか!?超有名女優の柳楽澪だよ!!!」
「やぎら……?」
「あはは、知っててもらえて光栄だよ」
拓海は再び頭に疑問を浮かべるも、名前を呼ばれた女性……柳楽澪は嬉しそうに笑った。
樹は顔から火が出るんじゃないかというくらい赤くなっており、拓海も彼女の存在は知らないとは言え、その美しさに頬を赤らめた。
「女優の柳楽澪だって!?!?」
「あ、ほんとだ!」
「サインもらわなきゃ!!」
樹の大声につられて周囲のギャラリーが彼女に気づく。
しまった、と思うも遅く、彼女は大勢の人に囲まれていた。
だが彼女は嫌な顔一つせず、ただサインや握手には応じなかった。
そして口を開くと良く通るハスキーな声が響いた。
「ごめんなさい、サインにも握手にも応じられない。今私は女優としての柳楽澪ではなく、プライベートの柳楽澪で来ているんです。……それに、彼らの邪魔はしたくない」
貴方達もそうでしょう?と困ったように笑えば、ギャラリーは渋々と散っていった。
一人になった澪の元に近づく人が二人。
樹は涙目になりながら澪に頭を下げた。
「柳楽さん……その、ごめんなさい」
「どうして君が謝るんだ?」
「だって、その、オレが叫ばなきゃ、」
「っははは!なんだ、そんなことか」
爽やかな笑い声を上げた澪は下がったままの樹の頭を撫でた。
反射的に樹が顔を上げると、澪が優しく笑っていた。
「君のせいじゃない。私も有名になったってことさ、嬉しいね」
「うぅ……ありがとうございます……!!!」
澪は頭を撫でていた手を止め、視線を下に落とした。
樹と拓海もつられて視線を落とすと、二台の車が峠を走り始めた音が聞こえた。
「……始まった」
「そういえば、どうして柳楽さんはここに?」
「とある男との約束を果たしに来たんだ」
「とある男……?」
拓海が不思議そうに言葉を繰り返すと、澪は頷いて笑った。
その目はどこか遠くを見ていて、まるでその約束をした時のことを思い出しているようだった。
「ここに来る車に乗っている人だよ。……彼は勝つさ」
拓海に対して視線を投げる澪は妖しい雰囲気を纏い、拓海は思わずその目を逸らしてしまった。
それほどまでに、妖艶で美しい。
だが、拓海は一つ気になっていた。
「柳楽さん……も、走り屋なんですか」
その言葉に澪は目を見開くも、S13を見て溜息を吐いた。
「そんな大層なものじゃないさ。ただの車好き、峠を最速で走るなんてまだまだ私には難しいよ」
「でも、あの走り……」
「ちょーっと、走り込んでるだけだ。実際、妙義山に来るのは初めてだし」
「あれで初めて……!?」
実際、拓海は速度を上げた澪についていくのが精一杯だった。
あれで初めてと言う方が無理があるだろう。
そうこう話していると、スキール音が段々と近づいてきた。
それと同時に澪は"あっ"と言葉を零す。
「雨だ」
「え?雨なんて」
「あと1分以内には降る。雨の、匂いがする」
空を見上げた澪は顔を顰め、再び目の前のコーナーに目を落とす。
その言葉通り、すぐにぽつぽつと雨が降ってきた。
だが、もうすぐそこまで二台は来ている。
そして、三人の視界に映ったのはサイドバイサイドのFDとR32GT-Rだった。
ここのコーナーで全てが決まる、そう澪は気づいた。
まるでスローモーションのように二台の動きが鮮明に見える。
そして、コーナーの出口でFDの頭が出た。
「……そっか、これは」
彼 の負けだ。
そう呟いた澪の声は雨とギャラリーの声にかき消されたが、その表情は酷く悲しそうだった。
「FDだぁ!!!!」
誰かの声が峠に響く。勝者の名前を呼ぶ誰かの声が。
ギャラリーは歓声を上げ、樹も興奮状態だった。
「すっげぇ~~!!ぶったまげたぜ!やっぱすげえよ高橋啓介って!ねえ、柳楽さん!!」
「……あぁ、そうだね」
落ち着いた声はどことなく覇気がない。
ちらり、と彼女の表情を窺えば、その目は雨のせいか潤んで見え、愁いを帯びていた。
話かけてはいけない雰囲気を察した樹はこれ以上彼女に何かを言うことはなかった。
「じゃあ、私はちょっと失礼するよ」
「……あ、はい」
「もう行っちゃうんすか?残念……」
「ははっ、ごめんね。君達と会えて良かったよ。……もし、次会うことがあるならば」
そこで言葉を止めた澪は鋭い目で拓海を見る。
拓海は今度こそ目を逸らすことなく、見つめ返した。
「今度は、君の敵 として現れるよ。きっとね」
「……えっ」
意味深な言葉を残したかと思えば、彼女はもうS13の元へ歩き出していた。
きちんとギャラリーの合間を縫って、彼に見えないように背を丸めながら。
「やっぱりあの人走り屋なのか……?」
「じゃねえの、拓海のこと知ってるみたいだし」
彼女がS13に乗り込んで色々と準備をしていると、話はいつの間にかレッドサンズの中村賢太と藤原拓海が下りのレイン勝負をすることになっていた。
そして、下りのバトルもあっけなく勝者が決まった。
レッドサンズも帰り、チームもその日は解散で皆すぐに帰っていった。
だが、ただ一人中里毅だけはその場に残ってずっとR32を見つめていた。
『運じゃねえ。実力の差だ』
高橋啓介に言われた言葉をぼんやりと思い出す。
そして、それと同時に昔に言われた言葉を思い出した。
『あなただってそういう経験をしたり、見たことはないかしら?ないならこれからすることになるだろうけど。才能は努力を余裕で上回るのよ、いつだって。そしていつだって他人の目に映るのは"才能"の部分なのよ』
確かに、高橋啓介の言うことは正しい。
努力の差があったことを毅も認めざるを得えなかった。
ただ、藤原拓海にしても高橋啓介にしても、"才能"の片鱗は見え隠れしていた。
努力を後押しする圧倒的な存在。
"才能"、言い換えるなら峠を走ることの"センス"が桁違いだった。
名を轟かす秋名のハチロク。
あれが豆腐屋で昔から配達しているなどほとんどの人が知らないだろう。
毅ですら詳しくは知らない。
あれは彼の昔からの努力で成り立っている。
だが、それもぽっと出てきてしまったが故に、彼の"才能"が、"力"が凄いものだと言われてしまった。
本当に自分があの言葉通りの体験をするとは思ってもいなかった。
あの女子は未来予知でもしたのだろうか。
毅が物思いに耽っている中、そこにはもう一台車が残っていた。
ホワイトクリスタルのS13。
彼以外に人がいないと確認したのか、澪はタオルとビニール袋を手に車から降りた。
コツコツ、と革靴の音が雨と共に響く。
毅はその音の主が誰かなどとっくにわかっていた。
だが、敗者である自分を見てほしくなかった。
そんなちっぽけなプライドも虚しく、靴音は毅のすぐ近くで止まった。
二人は再会を果たす。
それは、互いが望んで仕方がなかったもの。
ただ、彼にとっては酷な再会だった。
「毅くん」
「ッ……やっぱり、お前だったんだな」
毅は自分の名を呼ぶ声に肩を震わせ、その声の主を見る。
さらさらだった黒髪は雨によってしっとりと彼女の輪郭に沿って垂れ、服も水分を含み身体のラインに沿って張り付いている。
恐らく傘を持っていないのだろう。せめてもの抵抗としてタオルが彼女の肩にかけられていた。
口角だけ柔らかに上げて笑うその人の名を、毅は久々に呼んだ。
「澪」
中里毅はあの時の宣言通り妙義山で"妙義ナイトキッズ"という走り屋のチームを結成した。
紆余曲折あれど、毅は走り屋が出来ている現状に満足していた。
そして、彼女のことも忘れられないでいた。
「……い、おい、毅」
「っは、な、なんだよ」
「ぼーっとしすぎだ、緊張してんのか?」
「んなわけないだろ」
そうぶっきらぼうに返すも、違う意味で彼は緊張していた。
何て言ったって今日は赤城山に拠点を構えるレッドサンズとの交流戦なのである。
だが、それよりも彼の心を支配していたのは、柳楽澪という存在だった。
いつこの峠に彼女が来るのか思いを馳せては夜が明ける。
毅は彼女のことを忘れていないが彼女は逆かもしれない。
本当にあれから女優として名を轟かせているのかすらわからない。
ただ、毅は来ると信じていた。
例え彼がいる場所がわからなくても、彼女がどんな舞台にいたとしても。
「なぁ、慎吾」
「んだよ」
「柳楽澪って知ってるか」
「知ってるも何も超有名女優ねえか。なんでお前からその名が」
「……そうか、何でもない」
「おい!」
自然と頬が緩むのを感じた。
彼女は彼女の立つ舞台で輝けていた。
それが聞けただけでも満足だった。
一つ溜息を吐いた毅の耳に聞き慣れたスキール音が届いた。
そしてその存在に顔を強張らせ、到着を待った。
表れたのは、黄色のFD。
高橋啓介対中里毅の戦いが始まろうとしていた。
同時刻、道に迷って止まっていた86の横を一台のS13が通り過ぎた。
86に乗っていた武内樹は目を輝かせて運転席で地図と睨めっこしている拓海の肩を叩いた。
「おい拓海!!あのS13についてけば入れるって!」
「はぁ?」
「絶対あれ走り屋だよ!行こうぜ!!」
興奮気味の樹に気圧された拓海は地図を閉じ、S13の後を追うように右折していった。
樹の言ったことは正しく、すぐに多くのギャラリーが見えた。
前を走っていたS13も自分についてきていることがわかっているのか、86から見えるくらいに距離を保ち、少しスピードを落として走行している。
「やっぱりあのS13も走り屋だったんだなぁ」
「S13?」
「ほら、前を走ってる車だよ。この時間に妙義山に来るってことはこの勝負を見に来た走り屋だろぉ?」
「ふーん……」
拓海はさして興味を示さず、樹に先に到着している池谷達を探すよう促した。
「秋名のハチロクだ!」
「豆腐屋のハチロク……」
「あれがか!」
「でもあの前を走ってたS13、誰だ?」
「いや、知らねえなぁ」
ギャラリーは興奮と疑問でざわついた。
それは勿論啓介と毅の視界にも入っていた。
「ふっ、やっぱり来たか。嫌でも気合が入るぜ」
「ハチロク……とあれはS13?」
「あんなん見たことねえぞ」
「兄貴と同じ色だ」
白色のS13の走り屋など聞いたことがない。
少なくとも、この群馬エリアにはそんな走り屋はいない。
クリスタルホワイトの車体は中にいる持ち主を輝かせる。
煙草を咥えている運転席の主は数多くいる人の中からとある人物を見つけて口角をほんのりと上げた。
「……ようやく会えた」
その一言を紫煙と共に零すと、今まで両手でステアリングを握っていたが、片手をシフトレバーへと置きアクセルを踏む。
程よくカスタムされたその車はまるで咆哮のように音を上げて加速した。
それはまるで峠の攻め方を知っている人間のように頂上へと消えていった。
「うわっ、なんだあれ!?」
「白のS13なんてこの近辺でいたか?」
「誰だアイツ……」
毅は、何となく勘づいてしまった。
まさか、今日に限って来てしまうのか。
「まさか、アイツ……!?」
「知り合いか?」
「……いや、何でもねえ」
毅は言葉を濁すと車に乗り込んだ。
深呼吸を一つ。
カッコわりぃ所は見せられない。
あのS13が、彼女ならば尚更。
頂上の駐車場に止まったS13と86。
先に降りた拓海と樹はどんな人物がS13に乗っているのかが気になっていた。
ガチャッとドアの開く音と共にその人物は現れた。
短い黒髪はストレートパーマをかけたのかさらさらと風に乗って揺れ、切れ長の目は風が気持ちいのか嬉しそうに細められていた。
すらりとした手足は長く、スキニージーンズに黒色のシャツはそのスタイルの良さを引き立てる。
服からのぞく肌は、夜に馴染まない白色だった。
まるで男性かと思うような姿だが、シャツの胸元が微かに膨らんでいる。
「な、なななななんでここに!?!?」
「ん……あぁ、さっきのハチロク」
「知り合いか?樹」
樹の悲鳴に気づいたのか深い黒色の瞳が拓海達を捉える。
やはり拓海達が後を追ってきていたのに気づいていた。
まるで知っているかのような口ぶりをした樹に拓海が聞くと、樹は拓海の胸倉を掴んで揺さぶった。
「知り合いなんてもんじゃねえよ!!拓海お前知らないのか!?超有名女優の柳楽澪だよ!!!」
「やぎら……?」
「あはは、知っててもらえて光栄だよ」
拓海は再び頭に疑問を浮かべるも、名前を呼ばれた女性……柳楽澪は嬉しそうに笑った。
樹は顔から火が出るんじゃないかというくらい赤くなっており、拓海も彼女の存在は知らないとは言え、その美しさに頬を赤らめた。
「女優の柳楽澪だって!?!?」
「あ、ほんとだ!」
「サインもらわなきゃ!!」
樹の大声につられて周囲のギャラリーが彼女に気づく。
しまった、と思うも遅く、彼女は大勢の人に囲まれていた。
だが彼女は嫌な顔一つせず、ただサインや握手には応じなかった。
そして口を開くと良く通るハスキーな声が響いた。
「ごめんなさい、サインにも握手にも応じられない。今私は女優としての柳楽澪ではなく、プライベートの柳楽澪で来ているんです。……それに、彼らの邪魔はしたくない」
貴方達もそうでしょう?と困ったように笑えば、ギャラリーは渋々と散っていった。
一人になった澪の元に近づく人が二人。
樹は涙目になりながら澪に頭を下げた。
「柳楽さん……その、ごめんなさい」
「どうして君が謝るんだ?」
「だって、その、オレが叫ばなきゃ、」
「っははは!なんだ、そんなことか」
爽やかな笑い声を上げた澪は下がったままの樹の頭を撫でた。
反射的に樹が顔を上げると、澪が優しく笑っていた。
「君のせいじゃない。私も有名になったってことさ、嬉しいね」
「うぅ……ありがとうございます……!!!」
澪は頭を撫でていた手を止め、視線を下に落とした。
樹と拓海もつられて視線を落とすと、二台の車が峠を走り始めた音が聞こえた。
「……始まった」
「そういえば、どうして柳楽さんはここに?」
「とある男との約束を果たしに来たんだ」
「とある男……?」
拓海が不思議そうに言葉を繰り返すと、澪は頷いて笑った。
その目はどこか遠くを見ていて、まるでその約束をした時のことを思い出しているようだった。
「ここに来る車に乗っている人だよ。……彼は勝つさ」
拓海に対して視線を投げる澪は妖しい雰囲気を纏い、拓海は思わずその目を逸らしてしまった。
それほどまでに、妖艶で美しい。
だが、拓海は一つ気になっていた。
「柳楽さん……も、走り屋なんですか」
その言葉に澪は目を見開くも、S13を見て溜息を吐いた。
「そんな大層なものじゃないさ。ただの車好き、峠を最速で走るなんてまだまだ私には難しいよ」
「でも、あの走り……」
「ちょーっと、走り込んでるだけだ。実際、妙義山に来るのは初めてだし」
「あれで初めて……!?」
実際、拓海は速度を上げた澪についていくのが精一杯だった。
あれで初めてと言う方が無理があるだろう。
そうこう話していると、スキール音が段々と近づいてきた。
それと同時に澪は"あっ"と言葉を零す。
「雨だ」
「え?雨なんて」
「あと1分以内には降る。雨の、匂いがする」
空を見上げた澪は顔を顰め、再び目の前のコーナーに目を落とす。
その言葉通り、すぐにぽつぽつと雨が降ってきた。
だが、もうすぐそこまで二台は来ている。
そして、三人の視界に映ったのはサイドバイサイドのFDとR32GT-Rだった。
ここのコーナーで全てが決まる、そう澪は気づいた。
まるでスローモーションのように二台の動きが鮮明に見える。
そして、コーナーの出口でFDの頭が出た。
「……そっか、これは」
そう呟いた澪の声は雨とギャラリーの声にかき消されたが、その表情は酷く悲しそうだった。
「FDだぁ!!!!」
誰かの声が峠に響く。勝者の名前を呼ぶ誰かの声が。
ギャラリーは歓声を上げ、樹も興奮状態だった。
「すっげぇ~~!!ぶったまげたぜ!やっぱすげえよ高橋啓介って!ねえ、柳楽さん!!」
「……あぁ、そうだね」
落ち着いた声はどことなく覇気がない。
ちらり、と彼女の表情を窺えば、その目は雨のせいか潤んで見え、愁いを帯びていた。
話かけてはいけない雰囲気を察した樹はこれ以上彼女に何かを言うことはなかった。
「じゃあ、私はちょっと失礼するよ」
「……あ、はい」
「もう行っちゃうんすか?残念……」
「ははっ、ごめんね。君達と会えて良かったよ。……もし、次会うことがあるならば」
そこで言葉を止めた澪は鋭い目で拓海を見る。
拓海は今度こそ目を逸らすことなく、見つめ返した。
「今度は、君の
「……えっ」
意味深な言葉を残したかと思えば、彼女はもうS13の元へ歩き出していた。
きちんとギャラリーの合間を縫って、彼に見えないように背を丸めながら。
「やっぱりあの人走り屋なのか……?」
「じゃねえの、拓海のこと知ってるみたいだし」
彼女がS13に乗り込んで色々と準備をしていると、話はいつの間にかレッドサンズの中村賢太と藤原拓海が下りのレイン勝負をすることになっていた。
そして、下りのバトルもあっけなく勝者が決まった。
レッドサンズも帰り、チームもその日は解散で皆すぐに帰っていった。
だが、ただ一人中里毅だけはその場に残ってずっとR32を見つめていた。
『運じゃねえ。実力の差だ』
高橋啓介に言われた言葉をぼんやりと思い出す。
そして、それと同時に昔に言われた言葉を思い出した。
『あなただってそういう経験をしたり、見たことはないかしら?ないならこれからすることになるだろうけど。才能は努力を余裕で上回るのよ、いつだって。そしていつだって他人の目に映るのは"才能"の部分なのよ』
確かに、高橋啓介の言うことは正しい。
努力の差があったことを毅も認めざるを得えなかった。
ただ、藤原拓海にしても高橋啓介にしても、"才能"の片鱗は見え隠れしていた。
努力を後押しする圧倒的な存在。
"才能"、言い換えるなら峠を走ることの"センス"が桁違いだった。
名を轟かす秋名のハチロク。
あれが豆腐屋で昔から配達しているなどほとんどの人が知らないだろう。
毅ですら詳しくは知らない。
あれは彼の昔からの努力で成り立っている。
だが、それもぽっと出てきてしまったが故に、彼の"才能"が、"力"が凄いものだと言われてしまった。
本当に自分があの言葉通りの体験をするとは思ってもいなかった。
あの女子は未来予知でもしたのだろうか。
毅が物思いに耽っている中、そこにはもう一台車が残っていた。
ホワイトクリスタルのS13。
彼以外に人がいないと確認したのか、澪はタオルとビニール袋を手に車から降りた。
コツコツ、と革靴の音が雨と共に響く。
毅はその音の主が誰かなどとっくにわかっていた。
だが、敗者である自分を見てほしくなかった。
そんなちっぽけなプライドも虚しく、靴音は毅のすぐ近くで止まった。
二人は再会を果たす。
それは、互いが望んで仕方がなかったもの。
ただ、彼にとっては酷な再会だった。
「毅くん」
「ッ……やっぱり、お前だったんだな」
毅は自分の名を呼ぶ声に肩を震わせ、その声の主を見る。
さらさらだった黒髪は雨によってしっとりと彼女の輪郭に沿って垂れ、服も水分を含み身体のラインに沿って張り付いている。
恐らく傘を持っていないのだろう。せめてもの抵抗としてタオルが彼女の肩にかけられていた。
口角だけ柔らかに上げて笑うその人の名を、毅は久々に呼んだ。
「澪」