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幼児編

 私は何とも健康的で、充実した生活を送っていた。九時前には必ず寝るし、遅くても八時までには目を覚ます。お昼寝の時間さえもきっちり取っている。毎日三食を食べ、三時のおやつも忘れない。家に閉じこもるのに飽きた私は、この頃は鈴と一緒に外に出て、散歩ばかりしている。そうでなかったら絵を描いたり、絵を描いたり、絵を描いたり、時々本を読んだり、画集を見たり。歌を歌っても口笛を吹いても、うるさいと怒られる相手もいないので、好きにしていた。思いついたら美術館へ行ったり、博物館へ行ったりした。動物園も行ったし、水族館にも連れてってもらった。全ては鈴のお陰だった。
 いつも鈴は隣にいてくれた。けれど、全ては一人遊びだった。鈴は私の意見を聞いて、いつも一言肯定して終わる。私が嬉しそうにしていれば彼も嬉しそうにするけれど、どんな感想を述べてみたって、彼は頷くだけだ。文句等、ある筈が無い。彼は私を大いに甘やかしていた。
「そういえば、私、幼稚園通ってみたいんだけど」
「どこだ」
「えーと、氷帝?」
「御意」
「あ、え、ちょっと待って。受験、っていうか、そういうのって何時頃?」
「氷帝でいうなら、今年の場合、十月二十三日の月曜日から二十七日の金曜日まで、十月三十日の月曜日が合格発表だ」
「今日は」
「十一月四日だ」
 とっくの当に過ぎている。
「えー、えー!どうしよう」
「問題ない」
「どこが」
「既にあなたは合格している」
 訳が分からず呆けていると、鈴は言う。
「既に願書を送り、事実上、面接と行動観察をこなし、合格と見なされている」
「え?」
 何とか、それだけ言った。
「私は以前に未来を見通しておいた。あなたが氷帝に入りたいというのは知っていたから、実際に願書を引き寄せて送り、あなたに手間取らせる事無いように、受験内容は洗脳でパスさせた」
 取り合えず、鈴の気遣いにより、事態が免れた事はわかった。
 ずっと鈴と暮らしてきて、私は未だに、時々、自分の考えを読まれている事を疑っていた。私の感情を読み取っているとはいえ、いつも彼の行動は私の意志に沿って完璧だった。しかしそれが、私の考えを読んでの事で無く、未来の言動を見ていての事だったとは、私の疑いは全くの無駄だった。私の過去を知る事が出来る彼だったし、そういえば予知が出来ると言っていたのを忘れていた。
「鈴って、私が言う前に、私が言いたい事わかるんだ」
「いや。言ってくれないとわからない」
「え?だって、予知できるんでしょ」
「予知はあくまで予知であって、現実との誤差も生じる。例えば、今私が十年後の出来事を予知するのと、十分後同じ予知するのとでは、出来事が変わっている事さえある」
「ふーん」
 それを聞いて、なんとなく私は安心する。
「それにしても、パスさせてよかったの?私がいなければ受かってた子もいたんじゃ」
「実際受けに行ったところで、身体的にも精神的にも障害が無く、幼児として理性のある受け答えの出来るあなたは必ず合格する。あなたが受験していなければ、一人が代わりに合格するが、あなたがいる限り、必ず一人は落ちる」
「そう」
 それを聞いて、私の代わりに落ちてしまった子を思う。けれど私は、その子に何もしてあげるつもりが無いのだから、これは仕方の無い話と考えて終えた。
 話を聞くと、入園式のある四月まで、私がやるべき事は何も無いらしいので、暇つぶしのために私はピアノを習う事を思い立った。昔習っていたし、この体には随分慣れたものの、もっと器用に指先を動かせるようになりたかった。それに、歌を歌ったり口笛を吹く事を趣味にしていた私は、ちゃんとした音感が見に付けば、どんなに楽しくなるだろうかと思い馳せた。昔、親は小さい頃からピアノを習わせてくれていたので、絶対音感が無い訳ではないが、フラットやシャープがわからないという、中途半端な代物だった。ピアノは途中で習う事を辞めたし、中学に入って、吹奏楽部に所属したところで、改めて絶対音感が身に付く筈も無かった。今から習い続ければ、この子供の体だ、完璧に身に付けられるかもしれない。
週に一回の個人レッスンを受ける事にした。最初のうちは、音楽に慣れ親しむ為として、先生の引く曲に合わせてカスタネットを叩いたり、先生に合わせて歌ったり、先生の言った音を弾いたり、先生の伴奏に合わせて旋律を弾いたりした。引っかかり無く音を弾いていく私を見て「前にも習ってたの」と先生は質問したが、始終笑顔でばかりいたわたしは「ううん」と笑って否定した。「手の形が綺麗だね」と返事をされたが、それには笑って黙っていた。前に習っていた頃には変な癖の付いた手だと躾けられたのが、この年にしては良いほうなのだろうか。答えなかった事が、嘘吐きとの汚名を頂戴した心地になって、その時、少し居心地悪くなった。
一ヶ月を過ぎた頃には基礎の練習曲を少しずつやらされるようになる。ピアノを弾くようになって、私は自分の非力さに腹を立てるようになった。自分ではそれなりに力を込めて弾いているつもりなのだが、そうして弾いても、この小さな指に見合った音しか出せず、乱暴な調子になる。そう躍起になる度に、先生から注意を受けるので、私は諦めて曲をこなす事だけを考えるようにした。
私は先生の言ったところを可も不可もなく従順に弾くので、先生も特に注意する事も無ければ褒めもしない。曲をこなすのが早いので、段々と一回に出す課題が増える。全ては基礎の基礎で、三歳児に提供する曲など高が知れているので、挫折する事無く、難なく練習を続けられた。自ら進んで先取りする事も無く、言いつけられた事を着々とこなしていった。
気付けば、年明けはとっくに過ぎており、季節を実感する事も無く、春が近づいてくる。
「鈴、本出して、うんと」
「内容は何だ」
「幼児の精神構造や、幼児の身体能力、子育て、子供の医学、のような感じなら何でも」
「御意」
 突如、目の前に本の山が築かれる。登ってみようかと思ってしまうぐらい、立派な山だ。
「ありがとう」
 私はこの春、幼稚園に通う事になる。本当なら今頃大学入試を受けていただろう私が、幼稚園に通う。手違いが起こってはいけないのだ。私の驕りであると願って止まないが、この姿で私が私として振舞えば、神童と祭り上げられるかもしれない。私は本物の幼児じゃない。そんな事になってしまったら、人を騙すようなものだ。だから、本来評価されるべき姿を演じる必要がある。
時間を掛けて一冊一冊読んでいった。本は、簡単な内容のものや薄い内容のものもあれば、難しく、深い内容の本もある。
「鈴」
「何だ」
「記憶力を二倍、ぐらいとか出来ない?」
 とある本では、筆者の考えた用語が頻繁に出てきたり、専門用語もふんだんに出てくるので、いちいちページを戻ってみたり、鈴に聞いたりする事が多くなる。日に日に読んで行くうちに、そうした面倒に私は疲れきってしまっていた。
「出来る」
「じゃ、頼める?」
「御意」
 鈴に頭の中を作り変えられた筈だが、私の身に一切自覚は無かった。再び本を読み始めても、特に変化を感じられない。しかし、そろそろ寝ようかと思い始め、読んだ分を振り返ってみると、昨日より三冊多く読んでいたのに気付いた。
 次の日、私は試しに美術館巡りをする事にした。鈴のテレポートで、たくさんの美術館を一日だけで回った。記憶力が二倍になるというのはどの程度のものかと思ったが、思い出そうとして、絵が一枚一枚、物体が一体一体、克明に思い出される訳ではなかった。作品に向き合った時の気持ちや、気に入った作品、気に入った箇所を、以前より生々しく記憶に蘇らせる事は出来たけれど、興味を引かなかったものに対しては、全く思い出せない。私はいつも、何事も、名前を見落としていたり、忘れがちだったりしていたが、それが、少しは改善されていた事が印象的だった。それにしたって、ところどころ忘れている。どうやら記憶力が二倍というのは、確かに、二倍になっただけで、その性質はちっとも変化していないらしい。
 何にしたって、鈴から与えられた能力は役立った。本を読み進めていくのもそうだし、思い出そうとすればすぐ出てくる便利な頭なので、空想しているだけでも楽しい。絵を描くのもより楽しい。何を描くのに悩んでも、覚えてさえいれば、ぽんと答えが出てくる、思い浮かぶ。
 私の生活に変わりは無い。歌を歌いながら、口笛を吹きながら、絵を描いたり、本を読んだり。時々ピアノの練習をして、体を持て余せば散歩に出た。変わった事など何一つしていないのに、不思議な事に、いつも気がつけばベッドで寝ている。何をしていても、ふと強烈な眠気が襲い、それに抵抗する間も無く寝こけるらしい。その度に、鈴がベッドまで運んでくれているのだ。流石に、ピアノのレッスン中にそんな事があったら困るので、十分に昼寝をしてから行くように心がけた。
「本来に見合わない能力だ。体が順応すれば、そういった激しい副作用も起こらなくなる」
 そう鈴は言った。
私の目は見ようと思えば何でも見通せる。そんなものが、すっきりさっぱり辺りを見渡すものだから、興味が絶える事は無かった。そして、何か一つでも興味を引けば、記憶しようと、脳がきっかりかっきり動き出す。そうした繰り返しが、私の睡魔を引き起こしていたようだった。
 他に気付いたことといえば、私は以前よりも、感情が激しくなったという事だろうか。鈴は、子供の体になればそうなると説明していたし、この体になってから、思い当たる節もあるにはあったが、それに比べて、より激しくなったのだ。好きな事をしている時は楽しくて、鈴の呼びかけに気付かない事が多々あった。また、気付かないうちに、テーブルや床、壁に落書きをしていた事もあった。それに、小説を読んでひとたび一度感動すれば、目は潤み涙を流した。それも、すぐには止まない。感情は波となって私の身を震わせ、目からは涙を流し続ける。何が一番おかしいかと言えば、こんなにも、感動しやすくなった事がおかしい。一度でこんな有様なのに、飽き足らず、節操無しに、何度も続けて感情の波はやって来る。
 泣きじゃくり始めると、鈴は私を抱きかかえ、目を、その舌で拭う。最初やられた時はびっくりして、涙がすぐ引っ込んだのを覚えている。涙を拭う彼の舌は、人間のそれと違って乾いており、私の目元を濡らす事は無い。
「副作用?」
「ああ」
 美術館巡りで気付いていそうなものだが、そういえば、その技術に感心する作品は沢山あっても、感動する程の作品には出会っていなかった。幼児についての本は好きで読んでいたわけじゃないし、感動等遠い話だ。
「いつぐらいに慣れるかなあ」
「完全に慣れるのは小学生に上がる頃だ」
 それを聞いて、まだまだこの感情の波と付き合っていかなければならないのかと思い、少し気が滅入ったが、この小さな体にはお似合いだろうと自嘲した。
 

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