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逃亡編

 正直、私はテニスの王子様を良く知らない。何しろ、初めてその存在を知ったのはアニメだった。しかしそのアニメは、ストーリーがつまらなくてすぐ見るのをやめた。それ以来、本屋で立ち読みする時だけしか見かけていない。それにしたって絵柄に目を滑らせる程度で、そもそも、本屋へ行くのは、一ヶ月に行くか行かないかだった。
二度目の再会と言えるのが、インターネットをし始めて偶然たどり着いた夢小説だ。このお陰で、と言っていいのか、この漫画が一般のファンにどのように楽しまれているのか理解でき、そしていつのまにか自分もその一員になっていた。
 夢小説はあくまで恋愛がメインであり、漫画やアニメを見ている事を前提としているから、そのまま読んでも、設定やキャラクター自体が分からない事が多い。分かったらより楽しいだろうと思った私は、それぞれサイトでのキャラクター紹介や、テニスの王子様に対する語り、又は所謂ネタバレを巡り、機会があれば古本屋でキャラクターブックを立ち読みした。
 が、ともかく、私は実際のストーリーをあまり知らない。恋愛がメインである夢小説ばかりを読んでいた私は、漫画で建前上メインだった筈の、テニスの試合内容を読む機会が少なかった。そのテニスがスポーツとしてでなく、漫画という娯楽媒体の中で多少の誇張表現があった事は知っているけれど、私のイメージするテニスは、テレビゲームや試合中継で見た、画面の中で細々と動き回っている姿が主だ。
 私の見てきたのはヒロインと共にいる彼らの日常生活ばかりで、作者には申し訳ない事に、テニスというスポーツ面の印象がかなり薄い。そう考えてみれば、この世界はほとんど、私の現実世界と違わないのではないか。漫画特有の奇抜な地名、名称はあるに違い無いが、それを覗けば全く違わないのではないか。
「その通りだ」
 質問をすれば、簡単に返事が返ってくる。
「あなたが持っていたこの世界での不完全な部分は、私が適当に補った。それは主にあなたのいた外世界からだ」
 では、これからを考えていくのに、前の世界とこの世界の誤差はほとんど無いという事だ。
 それから聞くところによると、この世界における私達の立場は、未だ決まってないらしい。このマンションの契約は出来たものの、鈴が何処の誰であるかが本来確定する筈がないように、私もそうだと言うのだ。決して意外ではない。家族もいないここでは当然だろう。けれど、私がいるという事は、少なくとも過去に親がいなければならない。
「親が両方突然死、なんてどんな状況?」
 そう一言呟けば、鈴はぬけぬけとこう言った。二歳頃の私を祖父母の家に置いて、生まれたばかりの弟と通院途中の交通事故にすればいい、と。そう言われて、私が幼い頃、母方の祖父母の家にしばらく住んでいたと、母から聞かされていたのを思い出した。それとともに、鈴が私の記憶を覗いた事を疑ったが、私が心の中を覗くなと言う以前に知ってしまったのかもしれないと自ら弁解し、自己完結させて話を続けさせる。
 私がいない筈のこの世界なので、私と血の繋がった人は誰も居ない。もちろん、親がいないので、祖父母もいない。母方の祖父母はまだまだ現役で、農家を営むほど元気な人達だったし、それに母方の曾祖母でさえも元気な姿しか思い出せないが、無理があるものの、父方を含め全員老衰で死んだことになった。架空の話だが、家族が事故死をした話をするときよりも、その死因に気が滅入る。
 幼い頃に両親を亡くし、祖父母共にこの世から去ってしまった事にされた私は、誰かに保護されなければ生きていけないだろう。もちろん、その誰かというのは鈴以外にいない。鈴が私を養子とするのに妥当な理由は何だろうか。
「私を父方の兄弟にすればいい」
 私はそれで良しとした。そうしたなら、苗字は変わらない。鈴は若い方が動きやすいと言うので、私は叔父の養子となった。
 若い方が動きやすいというのは身体的な意味だと思うが、社会的に、経済的に考えれば動き辛いのではないか。養子というのは、血縁関係があるだけですぐ決められるようなものではなく、養える余裕があると証明出来なければならないのではないか。
「お金はいくらでも出せる」
 鈴はそう言うと、目の前のテーブルに札束の山が出現した。
「先ほども言ったが、私は物体構築を行う事が出来る」
 突如現れた物体は、その存在を大きく私に見せ付ける。もしこれらが無かったところで、隣の化け物の手にかかればどうにだって誤魔化せるには違いないけれど、人の社会の中で生きる言い訳にこれらは必要なのだ。しかしあまりの事に、私は言葉を失っている。
「番号を一つ一つ違うようにしてある。それに、これら番号の紙幣は、これから発行される事はない」
 この大金を所持する理由はどうすればいい。口でそう言う前に、鈴は言葉を付け加える。
「私の職業は人気作家という事にする。人々の考えていることを読み取れる私には可能だ。人の求めるものを提示すれば、人はそれを価値あるものと見て、自然と金を払うだろう。賞をいくつも取ったという事にすれば、社会的地位も向上しやすい」
「鈴」
「何だ」
「よくそう、ぽんぽんと答えられるね」
 少しの間があった。
「そうか」
「そうだよ」
「人と同じだ」
「何が」
「知識から言動をどうするかを考え、導き出している。人と変わらない」
 そう言われればそうだが、納得できない。鈴は化け物だろうに、知識が無くとも良いくせに、即答できるほどの知識があるとはどういった事なのか。私の感情を読み取って察したのか、鈴は話を続ける。
「知識の形態は違う。私には念力がある。そこから得る知識が大半だ。人のように経験から得たものは少ない」
 私はやっと納得がいった。彼の持つ力は限度が無い。先ほどから、どうにも読心でもしているように思えてならなかったが、彼はそういえば予知する事が出来た。私が質問する事を前もって知っておく事も出来たのだ。思い出してみればこの化け物は時空も移動出来るらしいので、念力を応用でも何でもして私の過去を知ったに違いない。
「便利だね」
「何かあれば言えばいい。叶える」
 この化け物は人と違う。知りえない事も知れるとは、人ではない。改めて、念力は、如何なる支障をも容易く取り除く能力だと認識する。
 こいつなら、どうしたって生きていける。それに比べて、私はどうだろうか。一人あの道を選んで雨に濡れていたような私なのだ。それに、前の世界には帰る場所があったけれど、こちらの世界は何も確かな事が無い。
「あんたは、私が自立出来るようになるまで、一緒にいてくれる?」
「御意」
「そうじゃなくて、あんたはいつまでいてくれるの」
「死ぬまで」
 鈴を見れば、顔をこちらに向けていた。もしかして、ずっとこちらを伺っていたのかもしれない。その眼球は水晶のように透き通っていて、私は唖然とする。
「なんでそう言えるの」
「あなたの一生は刹那。可能だ」
 そう言うのは、私の命がその程度と言うのか、彼の命が長いのか。どうであれ、彼のきっぱりとした物言いは、不思議と私を勇気付ける。それはいい意味で、私が一人の人間だったという事を気付かせた。私一人の人生など、その程度のものだ。今や、そう思って申し訳無く思う必要は無い。そんな人生ならば、好き勝手していいだろう。ここは私の世界らしいが、私のいるべき場所じゃない。同じような事を、あの交差点にいた時も思っていたけれど、この思いは、恥ずべきそれとは違う。
「本当に死ぬまで?」
「ああ」
「面倒見てくれる?」
「ああ」
「一生?」
「ああ」
「なら、一生私を不幸にしないと言い切れる?」
 死にたいと思えたような、生を真っ当したいと本心から言えないような、そんな赤っ恥な思想は、あの交差点に置き去りにしたい。どうせ私の人生だ。有るか無いかなら、あった方が良いと、良いか悪いかなら、良い方がいいと、そんな人らしい欲望を、私だって持っていたい。
「私はあなたを不幸にしない」
「本当に?」
「あなたが言うのなら、叶える」
 この会話の奇妙さに、私は笑い出しそうになった。彼の言うとおり、私が思い付く程度の事は、彼になら叶えられるだろう。しかし何故、彼がそうする必要がある。
「じゃあ、約束してくれる?私の考えを読まないで、っていうの守れる?」
「御意」
「これから私を不幸にしないで、っていうのも」
「御意」
 言えば叶う。その手軽さを実現させるほど、彼は化け物の筈なのに。
「ところで、私の言うことを叶えてくれるって、本当に、言えば絶対に叶えてくれるの」
「ああ」
 私は何も、よく知らない。こんなふうに、彼の能力を改めて知って、利用しようとして、狡猾になろうと考えても、何も知らない私は、何も出来ない。知らなきゃいけないのだと思う。知っていかなければならないのだと思う。ここには私だけしかいない。何かを知っておかなければならないのも、何かしなければならないのも自分だけだ。
 この知らない世界で頼れるのは、私を連れ出した化け物だけで、もし私が何もしなくても、彼なら私を生かす事が出来るかもしれない。このマンションの一室に居座っている事を誰も咎めに来ないし、テーブルの上に詰まれた札束の山は未だ消えない。これらを成し遂げられる彼がいれば、私は十分に生きられる。
 けれど私は、欲張りな事に、人らしく生きたいのだ。家族や友達がいた幸せを失くし、外へ出かける日々の用事や、帰るべき場所があるといった安寧も失くしてしまったけれど、これからもそれに似たものが欲しい。人と関わり合わなければならない生活が欲しい。けれど、そういう風に人らしく生きるための知恵が、私に足りてない。化け物相手にさえ駄々をこねる私だ。
「私、人生やり直したい」
 穏やかな日々に、暖かい家族に、全てに甘えて生きてきた。あの道でびしょ濡れになっていたのは、ずっとそうしていたかった訳で無く、後で、暖かな場所で柔らかいタオルに包まるためだった。あの交差点のような、死への妄想に一時駆られるのは、後に訪れるだろう安堵を得るためだ。自分が幸せであると知っていながら、果たして幸せなのかと問い続け、幸せになろうとしなかった。今や穏やかな日々も暖かい家族もいない。甘えるだけで生きる事は不可能になったというのに、私は、全ての原因である隣の化け物を頼っていく事ばかりを考えている。知り合ったばかりだというのに、他に頼れるものが無いとわかると、浅はかにも化け物相手に甘えようと考えている。
「どうすればいい」
 全てはこいつの所為だ。そう思って、私は気を大きくした。
「私の体を、幼児にでも戻してみせてよ」

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