逃亡編
一息ついた私は、今までの出来事を思い返す事が出来るようになった。どうやら、自分で思っていたより、先ほどは混乱していたらしい。全てから突き放された気になって、自分の身の上を、まるで悲劇の主人公のように脚色しだして、それに自ら酔っていたようだ。私は、ふと、飲み干した湯飲みを口元へ押し当てる。
ひたすら状況を把握するのにも呆れ果ててしまい、自分が現実から抜け出して、家族や友達どころか、世界から絶縁してしまった事を受け入れてみるとする。そうして、即席にもう一人の自分とやらを仕立て上げ、自分自身を眺める事を試みる。
想像上の彼女は立ち尽くしていた。彼女を取り巻く風景はぼんやりとして形がなく、そんな中、彼女の輪郭だけが粗く削り取られ、その姿だけが浮き彫りになってしまって、困っている様子だ。私は、そんな彼女に同情を覚える。けれど、それを悲しいと思うのは偏見だと思った。私が考えるに、彼女は家族やその周辺の人々のために生きながらえていたし、だからこそ、そうする事が出来ていたけれど、今となって無関係となったそれらに、執着する必要がその彼女には無い。私の心の底から沸々と、虚無感が湧き上がってくるがそれでも、それは彼女にとって嘆くべき事ではない。
私は彼女へ諭しきると、これからどうすべきか思い立つ。彼女の立場が不憫でならなかったので、やはり、その立ち居地だけでも確認できればと思った。
「猫又さん」
「なんだ」
「外に出てみたいのですが」
男は立ち上がったかと思うと、両手を広げた。首をかしげる間に風が起こり、頬を撫で、通り過ぎた。目を見開いて見れば彼の手元に沢山の服が出現していた。重力に逆らい漂うそれらが、彼の腕に収まっていく。花束のように男はそれを抱え持ち、こちらに差し出した。
「好きな服を着ていい」
お礼を言うべきか、文句を言うべきか、考えあぐねて言葉を発するタイミングを逃してしまったので、受け取ってベッドに置いた。
男は自分から出て行ったので、私は気兼ねなく着ていた制服を脱ぎ、渡された服たちを掘り返しては取り出し、広げて見て、そのセンスのよさに感動しながらも私好みを探し出す。と言っても、よく見てみれば全て私好みなので、どういった組み合わせをするかだけ悩む。
外には何があるのだろう。誰がいるのだろう。誰がいたところで全くの赤の他人だ。丁度指先に触れた服を引っ張り上げ、こんなものかと重ねて眺めて合点し、着替え始める。ハイネックとズボンという、とてもシンプルな自分の姿を、部屋にいつの間にか置いてあった姿見で映し、やはりこんなものだろうと一人頷いた。
ドアに手を掛けるか迷っていると、ノックの音が聞こえ出す。言えずにいてもドアは開き、上を見上げれば金色の目がこちらを見下ろしている。
「外に出るか」
首を立てに振ると、眩暈がした。
人の賑わう声が耳に入ってきて、突然の事に私は足元がおぼつかず、たたらを踏んでいると、上から覚えのある声が降りてくる。
「町だ」
往来の活発な通りの端に、私はいつの間にか立っていた。
「テレポート……」
「ああ」
二本脚をつっかえ棒にして、なんとか踏みとどまると、いつの間にか靴を履いていたのに気付く。周囲の人に気を巡らすが、私は訝しがられるどころか、誰にも目を向けられる事無く、どうやら、この異変に気付いているのは私だけだ。
腕時計を見てみれば、五時に差しかかろうとしている。しかし、それにしては空が暗い。
「今って何時です?」
「十九時十三分」
この場所に見覚えが無いと思うのは、暗さのせいでは無いだろうけれど。
ところで、これから何をすべきだろうか。折角ここまで来ておいて、私にはする事がない。行き交う人々は人間の形をしているし、看板の文字はいとも容易く読める。目の前には信号機があり、そのライトは緑色で、人の形が歩みを進めようと光って浮かび上がっている。排気ガスが薄く混じる空気の匂いは馴染みあるものだ。ただ、ここはどうやら私の住んでいた土地から遠く離れているようである。私のよく知った町は、ここまで道は狭くないし、空はこんなに小さいものじゃない。
「ここはどこですか」
「東京だ」
「札幌じゃないんですか」
「いや、東京だ」
彼は平然と言いのけた。
どうやら海を越えている。私の世界というならば、ここはせめて札幌でなくてはいけなかった。そうでないのならまだ、岩手ならばよかったか。そこなら両親の実家がある。私はそれら以外の土地をよく知ってなどいないのだ。実家からの帰りに秋田や青森を車で通る事はあったし、修学旅行で京都や大阪や広島にも行った。東京に行った事が無い訳ではないが、私の世界の東京というのなら、それは空港でなくてはならない。それも、小学生時代の記憶にあった場所なので、最早それは私の頭に所在していないようなものだ。
足元から伝わるアスファルトの感覚が妙に気味悪く感じ、思わず片足を浮かせてしまった私は、それを誤魔化すために歩き始めてしまった。猫又が一緒に歩き出す。しゃくだったのと、そういえば暇を持て余していた事を思い出したのとで、とりあえず横断歩道を渡る事にした。
先ほどから人が渡り始めていたので、渡れるだろうか不安に思っていると、彼は言った。
「ここはあなたの世界の中の一つにあった、夢小説のうちの、テニスの王子様の世界だ」
その時、私はまだ道路の真ん中にすらたどり着いていなかった。猫又は私の隣に立っていた。周りの人々は少ない。緑のランプが点滅している。ここに立ち続けていたらどうなるだろう、そんな考えが頭を巡っている。
俯いていると、ライトが足元を照らした。慌てて顔を上げると、顔の見えない車がこちらを睨んでいる。右折してきたのだ。そうして私は自分の失態に気付いた。申し訳なさからお辞儀を一つして、いつの間にか、小走りで向こうの歩道へ渡りきってしまっていた。
私の後ろでは車が走り始めている。
「何をしたかった」
すぐ猫又が尋ねた。私は歩みを止める事無く、ただ真っ直ぐに進んでいた。後ろを振り返る事が恐ろしくて、前ばかり見据えていた。
「どこへ行く」
「青春学園ってどこです?」
言えば、また眩暈がした。
車の音が遠くに聞こえる。目の前には、門があった。門標は、青春学園と浮き彫られ、鈍く電灯の光を反射している。青春という言葉は、こうまでして掲げられるものではないと、私は失笑した。
「なんで、ここなの」
「あなたの世界の中で最も新しく、最も確立されていた」
確かに、夢小説でこの頃読み込んでいたのは、テニスの王子様だった。そして、私のイメージするこの世界は酷く単純明快だった。ヒロインは絶対的存在で、他の全てはヒロインを幸せにするためだけにある。そんな認識が、私の現実世界への認識より明確だったとでも言うだろうか。
「トリップ?」
呟きに、猫又は答えない。
夢小説と、異世界と、そこに入り込んでしまった私。私は現実にいない。私にはしっかりと現実が記憶されているというのに、私が思い描いていた現実よりも、今化け物といるこの世界が私にとっての大事だった、とでもいうのだろうか。現実はあったのに、私にとっての現実は確かにあったのに、そこに住む家族なら、きっと私に賛同してくれるのに、現実が無い訳無いだろう。現実はあるのだ。
現実はあるが、ここまで身に起きた出来事の筋道を追っていけば、これはまるで夢小説みたいだった。夢小説、そう思って、しかしそれでは、現実があると断言した私が、そもそも夢小説の主人公だったというように思えてきて、私の記憶にある現実と、そこに住む家族をひっくるめて、夢小説の世界だったいうことになってしまって、私は呆然とした。現実とこの世界をひっくるめて夢小説だったというのなら、けれどそれは、あまりに馬鹿げていて、信じて私にメリットはなく、それが真実だったとして、私は信じたくなくて、私がでたらめに導き出したこの仮説よりも、猫又の言った戯言の方が信じられるように思えてきやしないか。
どんなに言い訳を考えたところで、青春学園という名が名として掲げられる事は有り得ない。そこから連想されるのはテニスの王子様という漫画だ。そして、私がそこから連想するのは夢小説しかない。なら、ここは夢小説の世界なのだろう。私が話のヒロインだったという事ではなく、ただ単に、私は猫又の言うとおり、猫又に連れ去られて内世界とやらへ来てしまっただけなのだ。
「落ち着いたか」
猫又は言った。
「読んだの?」
言外に、頭の中を覗くなと、以前言ったと訴える。
「思考は読んでいないが、感情は読み取っている」
「感情?」
「喜怒哀楽などの情動だ」
私は息を整えると言った。
「つまり、機嫌はわかるけど、何考えているかわかんないってこと?」
「そうだ」
私は溜息を吐く。そのぐらい小さいことだと思えてしまったので、そのまま放っておくことにする。
「猫又」
「なんだ」
「さっきの部屋に戻る」
「御意」
三度目の眩暈だった。
意識がはっきりしてくると、片手の違和感に気付く。猫又が私の左手を取っているのだと分かると、すぐ猫又は手を放した。
「すまない」
一言そう言われて、はっとした。猫又はちゃんと、私が眩暈を起こしていたのを知っていて手を添えてくれたのだ。私は口を開きかけたが、結局口を噤んでしまった。手を貸されるほどの眩暈ではなかったし、一、二回目はそういった気遣いなどなかった。
「これからどうしたい」
その言葉に少し腹が立ったが、彼がそう言うのは尤もだったので、私はとりあえず返答する。
「この部屋ってどこの部屋?」
「マンション最上階の一室だ」
最上階。言葉に興味が引かれ、試しに言った。
「ベランダってある?」
「ああ」
「行きたい」
ドアに手を掛けようと、考える間もなく眩暈。
流石にうんざりしたので、視界がまだはっきりしないうちに言った。
「私に言ってからテレポート使って」
「御意」
目の前は広く開けていた。柵に手を掛けて顔を突き出してみれば、建物の立ち並んだ明かりや駅から走る光の羅列、そして自動車のうごめくライトが、目に飛び込んでくる。今私の目には見えないが、先ほど行った通りのように、人々はまだ忙しなくその足を動かしているのだろうか。そう思い馳せれば、呑気にも、胸が湧き立つのを感じた。
ひたすら状況を把握するのにも呆れ果ててしまい、自分が現実から抜け出して、家族や友達どころか、世界から絶縁してしまった事を受け入れてみるとする。そうして、即席にもう一人の自分とやらを仕立て上げ、自分自身を眺める事を試みる。
想像上の彼女は立ち尽くしていた。彼女を取り巻く風景はぼんやりとして形がなく、そんな中、彼女の輪郭だけが粗く削り取られ、その姿だけが浮き彫りになってしまって、困っている様子だ。私は、そんな彼女に同情を覚える。けれど、それを悲しいと思うのは偏見だと思った。私が考えるに、彼女は家族やその周辺の人々のために生きながらえていたし、だからこそ、そうする事が出来ていたけれど、今となって無関係となったそれらに、執着する必要がその彼女には無い。私の心の底から沸々と、虚無感が湧き上がってくるがそれでも、それは彼女にとって嘆くべき事ではない。
私は彼女へ諭しきると、これからどうすべきか思い立つ。彼女の立場が不憫でならなかったので、やはり、その立ち居地だけでも確認できればと思った。
「猫又さん」
「なんだ」
「外に出てみたいのですが」
男は立ち上がったかと思うと、両手を広げた。首をかしげる間に風が起こり、頬を撫で、通り過ぎた。目を見開いて見れば彼の手元に沢山の服が出現していた。重力に逆らい漂うそれらが、彼の腕に収まっていく。花束のように男はそれを抱え持ち、こちらに差し出した。
「好きな服を着ていい」
お礼を言うべきか、文句を言うべきか、考えあぐねて言葉を発するタイミングを逃してしまったので、受け取ってベッドに置いた。
男は自分から出て行ったので、私は気兼ねなく着ていた制服を脱ぎ、渡された服たちを掘り返しては取り出し、広げて見て、そのセンスのよさに感動しながらも私好みを探し出す。と言っても、よく見てみれば全て私好みなので、どういった組み合わせをするかだけ悩む。
外には何があるのだろう。誰がいるのだろう。誰がいたところで全くの赤の他人だ。丁度指先に触れた服を引っ張り上げ、こんなものかと重ねて眺めて合点し、着替え始める。ハイネックとズボンという、とてもシンプルな自分の姿を、部屋にいつの間にか置いてあった姿見で映し、やはりこんなものだろうと一人頷いた。
ドアに手を掛けるか迷っていると、ノックの音が聞こえ出す。言えずにいてもドアは開き、上を見上げれば金色の目がこちらを見下ろしている。
「外に出るか」
首を立てに振ると、眩暈がした。
人の賑わう声が耳に入ってきて、突然の事に私は足元がおぼつかず、たたらを踏んでいると、上から覚えのある声が降りてくる。
「町だ」
往来の活発な通りの端に、私はいつの間にか立っていた。
「テレポート……」
「ああ」
二本脚をつっかえ棒にして、なんとか踏みとどまると、いつの間にか靴を履いていたのに気付く。周囲の人に気を巡らすが、私は訝しがられるどころか、誰にも目を向けられる事無く、どうやら、この異変に気付いているのは私だけだ。
腕時計を見てみれば、五時に差しかかろうとしている。しかし、それにしては空が暗い。
「今って何時です?」
「十九時十三分」
この場所に見覚えが無いと思うのは、暗さのせいでは無いだろうけれど。
ところで、これから何をすべきだろうか。折角ここまで来ておいて、私にはする事がない。行き交う人々は人間の形をしているし、看板の文字はいとも容易く読める。目の前には信号機があり、そのライトは緑色で、人の形が歩みを進めようと光って浮かび上がっている。排気ガスが薄く混じる空気の匂いは馴染みあるものだ。ただ、ここはどうやら私の住んでいた土地から遠く離れているようである。私のよく知った町は、ここまで道は狭くないし、空はこんなに小さいものじゃない。
「ここはどこですか」
「東京だ」
「札幌じゃないんですか」
「いや、東京だ」
彼は平然と言いのけた。
どうやら海を越えている。私の世界というならば、ここはせめて札幌でなくてはいけなかった。そうでないのならまだ、岩手ならばよかったか。そこなら両親の実家がある。私はそれら以外の土地をよく知ってなどいないのだ。実家からの帰りに秋田や青森を車で通る事はあったし、修学旅行で京都や大阪や広島にも行った。東京に行った事が無い訳ではないが、私の世界の東京というのなら、それは空港でなくてはならない。それも、小学生時代の記憶にあった場所なので、最早それは私の頭に所在していないようなものだ。
足元から伝わるアスファルトの感覚が妙に気味悪く感じ、思わず片足を浮かせてしまった私は、それを誤魔化すために歩き始めてしまった。猫又が一緒に歩き出す。しゃくだったのと、そういえば暇を持て余していた事を思い出したのとで、とりあえず横断歩道を渡る事にした。
先ほどから人が渡り始めていたので、渡れるだろうか不安に思っていると、彼は言った。
「ここはあなたの世界の中の一つにあった、夢小説のうちの、テニスの王子様の世界だ」
その時、私はまだ道路の真ん中にすらたどり着いていなかった。猫又は私の隣に立っていた。周りの人々は少ない。緑のランプが点滅している。ここに立ち続けていたらどうなるだろう、そんな考えが頭を巡っている。
俯いていると、ライトが足元を照らした。慌てて顔を上げると、顔の見えない車がこちらを睨んでいる。右折してきたのだ。そうして私は自分の失態に気付いた。申し訳なさからお辞儀を一つして、いつの間にか、小走りで向こうの歩道へ渡りきってしまっていた。
私の後ろでは車が走り始めている。
「何をしたかった」
すぐ猫又が尋ねた。私は歩みを止める事無く、ただ真っ直ぐに進んでいた。後ろを振り返る事が恐ろしくて、前ばかり見据えていた。
「どこへ行く」
「青春学園ってどこです?」
言えば、また眩暈がした。
車の音が遠くに聞こえる。目の前には、門があった。門標は、青春学園と浮き彫られ、鈍く電灯の光を反射している。青春という言葉は、こうまでして掲げられるものではないと、私は失笑した。
「なんで、ここなの」
「あなたの世界の中で最も新しく、最も確立されていた」
確かに、夢小説でこの頃読み込んでいたのは、テニスの王子様だった。そして、私のイメージするこの世界は酷く単純明快だった。ヒロインは絶対的存在で、他の全てはヒロインを幸せにするためだけにある。そんな認識が、私の現実世界への認識より明確だったとでも言うだろうか。
「トリップ?」
呟きに、猫又は答えない。
夢小説と、異世界と、そこに入り込んでしまった私。私は現実にいない。私にはしっかりと現実が記憶されているというのに、私が思い描いていた現実よりも、今化け物といるこの世界が私にとっての大事だった、とでもいうのだろうか。現実はあったのに、私にとっての現実は確かにあったのに、そこに住む家族なら、きっと私に賛同してくれるのに、現実が無い訳無いだろう。現実はあるのだ。
現実はあるが、ここまで身に起きた出来事の筋道を追っていけば、これはまるで夢小説みたいだった。夢小説、そう思って、しかしそれでは、現実があると断言した私が、そもそも夢小説の主人公だったというように思えてきて、私の記憶にある現実と、そこに住む家族をひっくるめて、夢小説の世界だったいうことになってしまって、私は呆然とした。現実とこの世界をひっくるめて夢小説だったというのなら、けれどそれは、あまりに馬鹿げていて、信じて私にメリットはなく、それが真実だったとして、私は信じたくなくて、私がでたらめに導き出したこの仮説よりも、猫又の言った戯言の方が信じられるように思えてきやしないか。
どんなに言い訳を考えたところで、青春学園という名が名として掲げられる事は有り得ない。そこから連想されるのはテニスの王子様という漫画だ。そして、私がそこから連想するのは夢小説しかない。なら、ここは夢小説の世界なのだろう。私が話のヒロインだったという事ではなく、ただ単に、私は猫又の言うとおり、猫又に連れ去られて内世界とやらへ来てしまっただけなのだ。
「落ち着いたか」
猫又は言った。
「読んだの?」
言外に、頭の中を覗くなと、以前言ったと訴える。
「思考は読んでいないが、感情は読み取っている」
「感情?」
「喜怒哀楽などの情動だ」
私は息を整えると言った。
「つまり、機嫌はわかるけど、何考えているかわかんないってこと?」
「そうだ」
私は溜息を吐く。そのぐらい小さいことだと思えてしまったので、そのまま放っておくことにする。
「猫又」
「なんだ」
「さっきの部屋に戻る」
「御意」
三度目の眩暈だった。
意識がはっきりしてくると、片手の違和感に気付く。猫又が私の左手を取っているのだと分かると、すぐ猫又は手を放した。
「すまない」
一言そう言われて、はっとした。猫又はちゃんと、私が眩暈を起こしていたのを知っていて手を添えてくれたのだ。私は口を開きかけたが、結局口を噤んでしまった。手を貸されるほどの眩暈ではなかったし、一、二回目はそういった気遣いなどなかった。
「これからどうしたい」
その言葉に少し腹が立ったが、彼がそう言うのは尤もだったので、私はとりあえず返答する。
「この部屋ってどこの部屋?」
「マンション最上階の一室だ」
最上階。言葉に興味が引かれ、試しに言った。
「ベランダってある?」
「ああ」
「行きたい」
ドアに手を掛けようと、考える間もなく眩暈。
流石にうんざりしたので、視界がまだはっきりしないうちに言った。
「私に言ってからテレポート使って」
「御意」
目の前は広く開けていた。柵に手を掛けて顔を突き出してみれば、建物の立ち並んだ明かりや駅から走る光の羅列、そして自動車のうごめくライトが、目に飛び込んでくる。今私の目には見えないが、先ほど行った通りのように、人々はまだ忙しなくその足を動かしているのだろうか。そう思い馳せれば、呑気にも、胸が湧き立つのを感じた。