逃亡編
突如部屋に入ってきたのは、ひょろりと背の高い男だった。私を見て気に止める事無く、歩いて来る。私は思わず手元の布団を手繰り寄せ、心持ち、後ろへ下がった。上から下まで真っ黒いその男は、この白い部屋でくっきりと、その姿が浮かぶ。手に持った御盆を、ベッド横の棚の上に置いて、近くに置いてあった椅子を引き寄せ、男は座った。私は横目に、お盆に湯呑みが乗っていたのを見た。
「飲んでいい」
否。あなたは誰ですか、ここはどこですか、どうしてこんな有様ですか、訳が分かりません。思っていれば。
「失礼」
男は私の額に手のひらを当てた。
瞬く間に、白い世界。また戻ってきたのかと気疲れ一つ、足元が気になって視線を下ろすと、そこには大群。一面、猫。息の引きつった音を、喉の奥から聞いた気がしたが、体は微動だにしない。
そもそも、果てまで猫が埋め尽くされているのを、私はどうやら知っていた。猫には色や毛の違いがあったが、しかしその尾は二つある。
世界に散らばれ。そして彷徨え。我はいつでも見守っている。
そう、思いが湧き上がり、それは私の意志となった。それを自分の運命と思い、周りには同志たちがいるのを確認した。そして私は思うのだ。御意。
世界が変わった。世界はくるくると表情を変える。ある時、世界は鬱蒼と生い茂った森だった、紺碧の海だった、陽の等しく差す砂漠だった、真っ青な空だった。見えては過ぎ去り、しかし、その情景は恐ろしい程鮮明で、私の目が気味悪い。こちらへ沈み落ちてきそうな曇天に、身に張り付く雨に、さし伸ばされる手に。
私は誰だ。
空気の掠れる音がする。布の掠れる音がする。息は粗く、身は震え、頭を抱えた。私に命を下したのは、全知全能なるあの方、そして、私は観察する者。
「あなたは天笠凛だ」
声がした。そこにはつい先ほど見覚えたばかりの男が、私の額から手を引いて、こちらを見つめるのは金色の目。
あれは私ではなかったのだ。先ほどまで、私は私じゃなかった。あんなもの、見たことも無い。私には知りえない事だった。私は天笠凛。あの大群に紛れていたのは。
「あなたは、観察者……?」
「ああ」
猫又は、人を化かすという。
「私のことは分かっただろう。次はこの世界について」
再び伸びる手に、私は怯えた。すると、手は止まる。それを見て私は確信する。
「さっきの、特別な力なの」
「ああ」
彼は手を引っ込める。
「もう止して、気持ち悪い」
直接、目で見て、耳で聞いて、手で触った訳でもなく、直接頭の中へ伝えるだなんて。
「御意」
ぎょい、ねえ。私は改めて目の前の化け物を見る。長い手足、しっかりとした肉付き、黒服に、僅かばかり出た肌の、その白さが際立っている。切れ長の目、すっと伸びた鼻、細く引き締まった唇、その顔立ちは、煌びやかでない、淡白な美しさがあった。目の前の大男は、臆する事無く、その金色の目でこちらの瞳を覗き込むので、私は向き合うのを止めた。
あの雨の道、途方も無い空白、そして知りえもしない幻影と幻覚、それら全て、どれかが非現実だとしても、私のすぐ隣には化け物がいる。これが夢の続きだったとして、それを認識できないここにいる私は、疑いの余地が無い。
「何で私を助けたの?」
「気まぐれだ」
返す言葉が無い。
「気付いたらあなたをあの世界から連れ出していた」
「あの世界って」
「あなたの世界観でいうなら現実というものだ」
「現実……」
復唱すると、化け物は更に言った。
「私の世界観で言うなら、外世界と言う」
「外世界?」
「生命体等の自我を持つ物の概念を内世界と言うのに相対した存在のことだ」
そこで私の思考は上手く回らなくなった。とりあえず私が忘れてはいけないのは、現実という言葉だ。
「つまり、あなたは私を現実から連れ出した、と言いたいの?」
「ああ」
「ということは、ここは現実ではないという事?」
「ああ」
現実ではない。ということは、ここは夢だろう。私は胸を撫で下ろし、再度問う。
「じゃあ、ここはどこなの?」
「あなたの内世界の一つだ」
私が沈黙していると、察して彼は話し出す。
「先ほども言ったが、外世界があなたの言う現実だとすると、内世界はあなたの言う概念だ。外世界から受け取った情報を、あなたが判断をし、区別をし、それらをあなたの方式に基づいて法則化したものを、内世界と私たちは呼ぶ。あなたは比較的内世界を多く持っていて、そのうちの一つに、今私とあなたはいる」
まるで哲学の話をしているかのようだった。しかし察するに、彼はきっと、至極当然のように事実を伝えようとしているのだろう。
「内世界というのはつまり、世界観という事でいいの?」
「それでも差し支えはない」
「で、私は私の世界観の中にいるって事?」
「ああ」
「外世界と言うのは私のいた現実であって、内世界というのは私に解釈された現実という事?」
「ああ、そういう事で良い」
外世界という言葉は理解できた。しかし、自分で言っておいて、内世界という言葉の意味が分からない。概念にしろ世界観にしろ、どちらもつまりは非現実であって、夢のように不安定な、想像の内でしかない代物だ。
私は、つまりは自分の想像の中に入り込んでしまったという事なのか。
「本当なら私、死んでるの?」
「死んでいない」
彼は即答した。かと思うと、私の腕を取った。私は身を固くする。
「これはあなたの腕だろう」
言うと、その大きな手の平からすぐに開放される、が。
「きゃ」
「これはあなたの脚だろう」
今度は足首を取られた。宙に浮かされた自分の足を目の前に、呆然としていると、すとんと脚はベッドへと落とされ、手は私の顔へ伸びてきた。べたべたと大きな手のひらで私の顔に触れる。
「これはあなたの顔だ」
「ちょ、放して」
あっさりと、彼は手を放し、言うのだ。
「体という根拠があるのに、死んでいると思うのか」
じっと、こちらを覗き込む。その目の金色を、まるでこちらへ注ぎ込むがごとく見つめてくるので、私は大人しく首を横に振った。
「私は車に轢かれそうになったあなたを連れ出したのであって、轢かれてしまったあなたを連れ出したわけではない」
とうとう私にはどうしようもない。
「私は内世界にいるとして、あなたは私を外世界に帰してくれるの?」
「それは出来ない」
「どうして」
ここまで言って思い出した、あの崩れ去ってしまった空白を。
「あんた、あれ、私の住んでいた世界がどうのって、もしかして、現実の事?」
「ああ」
「出来ないって何。私の現実が私の現実じゃなくなったって、そういう事言ってたよね、どういうこと」
「あなたの属していた世界はあなたがいてこそ現実だった。しかし、あなたはもう属していない。世界は世界であるために、あなたの属さない世界となった。だから私の力を持ってしても、あなたをあの世界へ帰す事が出来ない」
彼はきっと、努力している。ただ、話がやはり哲学めいていて、それが真実なのだと言われたところで、一意見として聞きとめるぐらいで、つまり、私にとってまるで嘘のようにしか聞こえない。しかし私に打開する術は無い。
彼の言い分はとても分かり辛いが、私はもう帰る事が出来ないのだと、そう理解する事だけは出来た。それが嘘だとしても、私には信じることしか出来ないという事も。私の取り巻くこの状況が、よりそれを実感させる。
私は鼻で笑いながら、質問を変えた。
「私の内世界とやらには、家族はいるの?」
「いない」
あっけらかんと、私の存在理由というのは、足音すら立てずに消え去った。
「あっちの世界で、家族は私がいなくなってどうしてるの」
「あなたの属さない世界となった今、あなたは本来から存在しないとみなされている。あなたの家族はあなたを知らない」
彼の戯言がもし正しかったなら、私は痕跡すら残さず、あの日常から抜け出したという事だ。完璧だった。誰もが嘆く必要は無い。家族や友達は何一つ失ってなどいない。彼らが適応しなければならないだろう変化はなく、これから先訪れる事すら無い。それはどこからどう見ても不満の無い、幸福の形だった。
家族は知らない、寝起きを共にした存在が、一人いなくなっていることを。友達は知らない、挨拶しあった存在が、一人いなくなっていることを。私は忘れもしない。家族や友達に二度と会えないだろうと言う事を、今しがた理解したばかりだ。私が何より死を恐れなかったのは、自分の別れを知る事が無いからだった。だからこそ、死へ対する不安と言うのは、別れを知る事の出来る残された人たちの未来だけだったのだ。しかしもう、私が勝手に不安がる必要は無い。
「大丈夫か」
視界が彼の顔で塞がる。
「何故、家族や友人を考えている?」
言われて気付いたが、彼は言葉無しで情報を与える事が出来た。という事は、その逆も出来るのではないか。
「勝手に、頭の中除かないでよ」
「御意」
彼は離れなかった。こんなに鼻と鼻が近くにあるというのに、彼は不快にも思ってないらしい。息がかかるのではないかと私は顔を顰めようとしたが、しかし、彼からは呼吸の音すら聞こえなかった。姿が人だとしても、彼はやっぱり人間では無いという事を再確認する。
「あんたなんで人の姿してるの」
「あなたの役に立つのに、使い勝手がいいからだ」
私の役に立つ。彼は私を元の世界に戻すことすら出来ないというのに。
「私の役に立ちたいの」
「ああ」
「なんで」
「気まぐれであなたを連れ出してしまった」
彼の表情は先ほどから乏しいものだったはずだが、心なしか私を憂えているように見えてくる。彼のそれを後悔の念だと思うのは、私の自分勝手な思い込みだろうか。
考えてみると、ここがどこだか分からず、ただ一人の人間である私は、ここから脱出することは出来ない。そして、そうする理由もなかった。私が今頼りにすべきなのは、目の前の化け物以外にいない。先ほど見た彼の記憶からして、彼は超能力を持っている。テレパシーといい、テレポートといい、私は体感し、知ってしまった。彼は必ず役立つだろう。
彼は私を連れ出してしまった。彼は私を元の世界に返せない。ここまで考えれば私は野垂れ死ぬしかないはずだが、私は今ベッドの上にいて、それ以前私は気絶して寝そべっていた。そして、ここは何処か部屋の一室のようだ。彼には私を生かす意志があるようだと結論付けて、今のところ間違いは無いだろう。
もっとよく現状を把握した後に決断すればいい。むしろ、それが最善だと思える。
「あんた、さっきも言ったけど、私の考えること、読まないでね」
「御意」
見回しても時計が無いので、仕方無しに腕時計を見ると、四時半を過ぎていた。私が帰宅していた時間から経ったのか、それともこの時刻が午前なのか、窓のないこの部屋で分からなかった。そして、この部屋でただこの化け物の話を聞くだけというのは、とんでもない間違いだったと気付く。
「お茶を」
彼の声に首を傾げると、彼は言った。
「あなたはお茶を飲まないのか」
化け物は湯飲みに目配せすると、こちらの顔を伺った。
「ああ、飲むけど」
言うと、私が取るのに手を伸ばせばいいだけなのに、化け物はお盆ごとそれを手にとって、こちらに差し出した。先ほど目をやったとき、湯飲みに湯気など立っていなかったが、今見ればその湯飲みからは、ふわりふわりと空気がゆらめいている。そうするのは今で無いと、断る言葉は、彼が両手でこちらに差し出す姿を見て喉に引っ込めた。
恐る恐る湯飲みをを手に取った私は、指を火傷する事無く手のひらでそれを包み込み、口付けて舌を痛めることも無く、その中身を飲み下す。
「飲んでいい」
否。あなたは誰ですか、ここはどこですか、どうしてこんな有様ですか、訳が分かりません。思っていれば。
「失礼」
男は私の額に手のひらを当てた。
瞬く間に、白い世界。また戻ってきたのかと気疲れ一つ、足元が気になって視線を下ろすと、そこには大群。一面、猫。息の引きつった音を、喉の奥から聞いた気がしたが、体は微動だにしない。
そもそも、果てまで猫が埋め尽くされているのを、私はどうやら知っていた。猫には色や毛の違いがあったが、しかしその尾は二つある。
世界に散らばれ。そして彷徨え。我はいつでも見守っている。
そう、思いが湧き上がり、それは私の意志となった。それを自分の運命と思い、周りには同志たちがいるのを確認した。そして私は思うのだ。御意。
世界が変わった。世界はくるくると表情を変える。ある時、世界は鬱蒼と生い茂った森だった、紺碧の海だった、陽の等しく差す砂漠だった、真っ青な空だった。見えては過ぎ去り、しかし、その情景は恐ろしい程鮮明で、私の目が気味悪い。こちらへ沈み落ちてきそうな曇天に、身に張り付く雨に、さし伸ばされる手に。
私は誰だ。
空気の掠れる音がする。布の掠れる音がする。息は粗く、身は震え、頭を抱えた。私に命を下したのは、全知全能なるあの方、そして、私は観察する者。
「あなたは天笠凛だ」
声がした。そこにはつい先ほど見覚えたばかりの男が、私の額から手を引いて、こちらを見つめるのは金色の目。
あれは私ではなかったのだ。先ほどまで、私は私じゃなかった。あんなもの、見たことも無い。私には知りえない事だった。私は天笠凛。あの大群に紛れていたのは。
「あなたは、観察者……?」
「ああ」
猫又は、人を化かすという。
「私のことは分かっただろう。次はこの世界について」
再び伸びる手に、私は怯えた。すると、手は止まる。それを見て私は確信する。
「さっきの、特別な力なの」
「ああ」
彼は手を引っ込める。
「もう止して、気持ち悪い」
直接、目で見て、耳で聞いて、手で触った訳でもなく、直接頭の中へ伝えるだなんて。
「御意」
ぎょい、ねえ。私は改めて目の前の化け物を見る。長い手足、しっかりとした肉付き、黒服に、僅かばかり出た肌の、その白さが際立っている。切れ長の目、すっと伸びた鼻、細く引き締まった唇、その顔立ちは、煌びやかでない、淡白な美しさがあった。目の前の大男は、臆する事無く、その金色の目でこちらの瞳を覗き込むので、私は向き合うのを止めた。
あの雨の道、途方も無い空白、そして知りえもしない幻影と幻覚、それら全て、どれかが非現実だとしても、私のすぐ隣には化け物がいる。これが夢の続きだったとして、それを認識できないここにいる私は、疑いの余地が無い。
「何で私を助けたの?」
「気まぐれだ」
返す言葉が無い。
「気付いたらあなたをあの世界から連れ出していた」
「あの世界って」
「あなたの世界観でいうなら現実というものだ」
「現実……」
復唱すると、化け物は更に言った。
「私の世界観で言うなら、外世界と言う」
「外世界?」
「生命体等の自我を持つ物の概念を内世界と言うのに相対した存在のことだ」
そこで私の思考は上手く回らなくなった。とりあえず私が忘れてはいけないのは、現実という言葉だ。
「つまり、あなたは私を現実から連れ出した、と言いたいの?」
「ああ」
「ということは、ここは現実ではないという事?」
「ああ」
現実ではない。ということは、ここは夢だろう。私は胸を撫で下ろし、再度問う。
「じゃあ、ここはどこなの?」
「あなたの内世界の一つだ」
私が沈黙していると、察して彼は話し出す。
「先ほども言ったが、外世界があなたの言う現実だとすると、内世界はあなたの言う概念だ。外世界から受け取った情報を、あなたが判断をし、区別をし、それらをあなたの方式に基づいて法則化したものを、内世界と私たちは呼ぶ。あなたは比較的内世界を多く持っていて、そのうちの一つに、今私とあなたはいる」
まるで哲学の話をしているかのようだった。しかし察するに、彼はきっと、至極当然のように事実を伝えようとしているのだろう。
「内世界というのはつまり、世界観という事でいいの?」
「それでも差し支えはない」
「で、私は私の世界観の中にいるって事?」
「ああ」
「外世界と言うのは私のいた現実であって、内世界というのは私に解釈された現実という事?」
「ああ、そういう事で良い」
外世界という言葉は理解できた。しかし、自分で言っておいて、内世界という言葉の意味が分からない。概念にしろ世界観にしろ、どちらもつまりは非現実であって、夢のように不安定な、想像の内でしかない代物だ。
私は、つまりは自分の想像の中に入り込んでしまったという事なのか。
「本当なら私、死んでるの?」
「死んでいない」
彼は即答した。かと思うと、私の腕を取った。私は身を固くする。
「これはあなたの腕だろう」
言うと、その大きな手の平からすぐに開放される、が。
「きゃ」
「これはあなたの脚だろう」
今度は足首を取られた。宙に浮かされた自分の足を目の前に、呆然としていると、すとんと脚はベッドへと落とされ、手は私の顔へ伸びてきた。べたべたと大きな手のひらで私の顔に触れる。
「これはあなたの顔だ」
「ちょ、放して」
あっさりと、彼は手を放し、言うのだ。
「体という根拠があるのに、死んでいると思うのか」
じっと、こちらを覗き込む。その目の金色を、まるでこちらへ注ぎ込むがごとく見つめてくるので、私は大人しく首を横に振った。
「私は車に轢かれそうになったあなたを連れ出したのであって、轢かれてしまったあなたを連れ出したわけではない」
とうとう私にはどうしようもない。
「私は内世界にいるとして、あなたは私を外世界に帰してくれるの?」
「それは出来ない」
「どうして」
ここまで言って思い出した、あの崩れ去ってしまった空白を。
「あんた、あれ、私の住んでいた世界がどうのって、もしかして、現実の事?」
「ああ」
「出来ないって何。私の現実が私の現実じゃなくなったって、そういう事言ってたよね、どういうこと」
「あなたの属していた世界はあなたがいてこそ現実だった。しかし、あなたはもう属していない。世界は世界であるために、あなたの属さない世界となった。だから私の力を持ってしても、あなたをあの世界へ帰す事が出来ない」
彼はきっと、努力している。ただ、話がやはり哲学めいていて、それが真実なのだと言われたところで、一意見として聞きとめるぐらいで、つまり、私にとってまるで嘘のようにしか聞こえない。しかし私に打開する術は無い。
彼の言い分はとても分かり辛いが、私はもう帰る事が出来ないのだと、そう理解する事だけは出来た。それが嘘だとしても、私には信じることしか出来ないという事も。私の取り巻くこの状況が、よりそれを実感させる。
私は鼻で笑いながら、質問を変えた。
「私の内世界とやらには、家族はいるの?」
「いない」
あっけらかんと、私の存在理由というのは、足音すら立てずに消え去った。
「あっちの世界で、家族は私がいなくなってどうしてるの」
「あなたの属さない世界となった今、あなたは本来から存在しないとみなされている。あなたの家族はあなたを知らない」
彼の戯言がもし正しかったなら、私は痕跡すら残さず、あの日常から抜け出したという事だ。完璧だった。誰もが嘆く必要は無い。家族や友達は何一つ失ってなどいない。彼らが適応しなければならないだろう変化はなく、これから先訪れる事すら無い。それはどこからどう見ても不満の無い、幸福の形だった。
家族は知らない、寝起きを共にした存在が、一人いなくなっていることを。友達は知らない、挨拶しあった存在が、一人いなくなっていることを。私は忘れもしない。家族や友達に二度と会えないだろうと言う事を、今しがた理解したばかりだ。私が何より死を恐れなかったのは、自分の別れを知る事が無いからだった。だからこそ、死へ対する不安と言うのは、別れを知る事の出来る残された人たちの未来だけだったのだ。しかしもう、私が勝手に不安がる必要は無い。
「大丈夫か」
視界が彼の顔で塞がる。
「何故、家族や友人を考えている?」
言われて気付いたが、彼は言葉無しで情報を与える事が出来た。という事は、その逆も出来るのではないか。
「勝手に、頭の中除かないでよ」
「御意」
彼は離れなかった。こんなに鼻と鼻が近くにあるというのに、彼は不快にも思ってないらしい。息がかかるのではないかと私は顔を顰めようとしたが、しかし、彼からは呼吸の音すら聞こえなかった。姿が人だとしても、彼はやっぱり人間では無いという事を再確認する。
「あんたなんで人の姿してるの」
「あなたの役に立つのに、使い勝手がいいからだ」
私の役に立つ。彼は私を元の世界に戻すことすら出来ないというのに。
「私の役に立ちたいの」
「ああ」
「なんで」
「気まぐれであなたを連れ出してしまった」
彼の表情は先ほどから乏しいものだったはずだが、心なしか私を憂えているように見えてくる。彼のそれを後悔の念だと思うのは、私の自分勝手な思い込みだろうか。
考えてみると、ここがどこだか分からず、ただ一人の人間である私は、ここから脱出することは出来ない。そして、そうする理由もなかった。私が今頼りにすべきなのは、目の前の化け物以外にいない。先ほど見た彼の記憶からして、彼は超能力を持っている。テレパシーといい、テレポートといい、私は体感し、知ってしまった。彼は必ず役立つだろう。
彼は私を連れ出してしまった。彼は私を元の世界に返せない。ここまで考えれば私は野垂れ死ぬしかないはずだが、私は今ベッドの上にいて、それ以前私は気絶して寝そべっていた。そして、ここは何処か部屋の一室のようだ。彼には私を生かす意志があるようだと結論付けて、今のところ間違いは無いだろう。
もっとよく現状を把握した後に決断すればいい。むしろ、それが最善だと思える。
「あんた、さっきも言ったけど、私の考えること、読まないでね」
「御意」
見回しても時計が無いので、仕方無しに腕時計を見ると、四時半を過ぎていた。私が帰宅していた時間から経ったのか、それともこの時刻が午前なのか、窓のないこの部屋で分からなかった。そして、この部屋でただこの化け物の話を聞くだけというのは、とんでもない間違いだったと気付く。
「お茶を」
彼の声に首を傾げると、彼は言った。
「あなたはお茶を飲まないのか」
化け物は湯飲みに目配せすると、こちらの顔を伺った。
「ああ、飲むけど」
言うと、私が取るのに手を伸ばせばいいだけなのに、化け物はお盆ごとそれを手にとって、こちらに差し出した。先ほど目をやったとき、湯飲みに湯気など立っていなかったが、今見ればその湯飲みからは、ふわりふわりと空気がゆらめいている。そうするのは今で無いと、断る言葉は、彼が両手でこちらに差し出す姿を見て喉に引っ込めた。
恐る恐る湯飲みをを手に取った私は、指を火傷する事無く手のひらでそれを包み込み、口付けて舌を痛めることも無く、その中身を飲み下す。