このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

幼児編

 先生が私の傍に寄って来る。私は身を起こしたが、右腕を動かすと痛いので、左手を地面につけて、何とか立ち上がる。先生は大丈夫かと聞いてくるので、正直に右腕の痛みを訴えた。先生たちが互いに声を掛け合って、私の怪我の処置をしてくれようとしている。私は跡部だけでなく、迷惑を掛けてしまったようだ。
「痛い?すごく痛い?」
 私の元に最初に駆け寄った先生が、心配そうにそう尋ねる。私が自分勝手に流した涙の跡を、痛みの所為だと勘違いしたようだ。事実、泣けそうなほど痛いが、不思議と涙は止まっていた。
 それから緊急に救急車が呼ばれた。そこまで大事でもないのに、と私は一人思っていた。あれよあれよと乗せられて、先生も一人付いて貰って、発車する。乗っている間、救急隊員の人にどのように痛いかを聞かれ、動かすとすごく痛い、じっとしていても痛いと答える。腕を見てみたら、腫れていた。これはきっと、骨が折れている。
 病院に着くと、鈴がいた。先生が連絡して呼んだのだろう。私はすぐに、どこか部屋へ運ばれた。
 イチゴ味とバナナ味、どっちがいい?
 誰かがそう尋ねる。
 そんなもの知るか、と思った。果物は私の好みじゃない、とも思った。痛みでぼんやりとした意識で、私は適当に苺味と答える。すると、口元にマスクを当てられた。昔の記憶が蘇る。これは、麻酔だ。妙な匂いが、鼻いっぱいに広がる。これは昔の手術の再現だ。ぐにゃぐにゃに歪んでいく視界に、遠い昔を思い出しながら、私の意識は薄らいでいく。
 麻酔に味なんか無いじゃないか。
 ふと目が覚めると、鈴に抱きかかえられていた。慌てて身を起こすと、腕が布で吊られている。私は、確かに見覚えのあるそれに、絶句した。
「帰るか」
 私の周りには、知らない人達しかいなかった。幼稚舎の先生や、救急隊員の人もいない。私は麻酔で気を失っていたのだ。
「テレポートをしていいか」
「うん」
 眩暈。慣れた視界の歪みがやってくる。
 気付くと、私はソファに座らされていて、鈴が人の姿のまま隣に座っている。
「で、私、骨折っちゃったわけね」
「ああ。手術で腕に、金属の棒が入れている」
 昔に逆戻りだ。経験として、これで腕を折るのは三回目。こちらに来てからは一回目だが、また腕を折ってしまったのに変わりは無い。
「これっていつ治んのー」
「今すぐにでも治る」
「は?」
「私の念力を使えば治る」
 そうだった。私の隣にいるのは、万能な猫又だ。
「それはだめだよ」
「何故だ」
「自然じゃない。いきなり治りましたとか、自然じゃないよ」
「洗脳すればいい」
「何?私はジャングルジムから落ちる事も無く、無事遠足から帰ってきたって事?」
「そうすればいい」
「だめだめ、絶対に駄目」
 洗脳するという事は、あの時一緒にいた跡部も洗脳されるという事だ。そればかりは気が引けた。
「自分から落ちたし、自業自得だよ。自然治癒させる」
「それでは、治るまで痛いだろう」
「そりゃ、骨折ってるからには痛いんじゃない」
「それでは、あなたは不幸になるだろう」
 何を言い出すのかと思ったが、そういえばこの猫又は、私を不幸にしない事を約束してくれていたのだった。
「こんなの、不幸じゃないよ」
「骨を折る等、怪我をする事は一般的に不幸だろう」
「そうかもね、だけど、私は全く不幸じゃない。だってこれ、治るんでしょう?」
 私はギプスを指で軽く叩いた。
「ああ。一ヶ月で骨は治る。その時までには中の棒も外す。それからリハビリをして、半月程経てば完治するだろう」
 昔、骨を折ったのは幼稚園の頃だった。多分、今の体の年齢と同じ頃だろう。骨を折った時の記憶はあったが、治るまでの記憶は無いに等しかった。
「完治まで、約一ヶ月半?」
「ああ」
 思っていたより、事態は深刻だったらしい。
「じゃあ、ピアノは?」
「左手だけしか練習出来ない」
「食べるのは?」
「今までもあなたは左手を使っていた。問題無い」
「文字を書いたり、絵を描くのは?」
「練習するしかない」
「幼稚舎は?」
「大事をとって一週間後という事にした」
 それを聞いて、私はほっと息を付く。
「なあんだ。通えるのか」
「腕は固定されている。激しく動かさない限り、大丈夫だろう。もしもの時は、私が念力でサポートするつもりだ」
 三度目という事もあって、私は落ち込む事すらなかったが、腕が痛むのには変わらない。鈴は目に見えて悲しそうな顔をしていたが、悲しまれるほどの痛みでは無いので、不謹慎だが、私にとって鈴の様子は可笑しかった。
 鈴の出した夕食を二人で食べる。鈴は食べなくても良いのだが、私がわがままを言って、彼此一緒に食べるようになった。
 食事中、電話が掛かる。鈴は二、三回のコールを聞き終えた後、椅子に座ったまま、手のひらに電話の子機を出現させる。
 私に電話をくれるのは、跡部ぐらいしかいない。私はおとなしく、通話が終わるのを待った。
「明日、二時過ぎに、跡部景吾と樺地崇弘が見舞いに来るそうだ」
「跡部は、私が骨折ったの知ってるの?」
「ああ。使用人に調べさせて知っている」
「そう」
 隣でいきなり落ちて、怪我したのだ。決して気分の良い事じゃないだろう。彼はもしかして、私如きを心配しているのかもしれない。
 次の日、彼は約束どおり私の家を訪れた。
「だいじょうぶなのかい」
 玄関に出迎えた私を見て、跡部は悲しそうに私の腕を見る。むーちゃんも同様だ。しかし、小さな彼らにそう思うのは酷かもしれないが、本当に重大な怪我をしていたら、こうして二人を出迎えているだろうか。
「全然痛くも無いよ」
「本当かい」
「いや、ちょっとは痛いけど」
「じょうだん言ってるばあいかい」
 冗談を言える程大した事では無いのだ、とは流石に言えず、折角来てくれたので、鈴にお茶とおやつを用意するよう言い渡し、私の部屋まで行った。
「僕のせいだろう」
 部屋には三人だけになって、跡部はそう言い出した。
「なわけないじゃん」
 すぐに私は否定する。
「君をなかせたのは僕だし」
「何言ってるの!」
 私が突然大きな声を出して、跡部は目を丸くさせた。むーちゃんは心配そうに私を見ている。しまった、と思うと共に、すぐ言い訳を探した。
「落ちたのは、私の自業自得。泣いてたのは、目にゴミが入って、なかなか取れなかったからだよ。全く、跡部の所為なんかじゃない」
 そう私が宣言した後、ノックの音と共に、鈴がお盆を持って入ってくる。
「どうぞ」
 そう言って、鈴は子供用の小さなテーブルの上にお盆を置いた。
「ありがとうございます」
 すかさず跡部は礼を言う。
「では失礼するが、帰るときには声を掛けてくれ」
「はい」
 鈴はすぐ出て行き、三人分の羊羹と緑茶だけが残った。跡部とむーちゃんは互いを見合うと、渋々と跡部は口を開く。
「せっかくだからいただくぞ、かばじ」
 跡部の言葉に、むーちゃんは頷く。私も少し食べておく事にした。私が黒文字で羊羹を切り分けていると、跡部は気がついて言う。
「左手でもだいじょうぶなのかい」
「うん。私、普段から食べる時は左手なんだ」
「そうだったのかい」
 左手で食べるようになったのは、本来二度の右手骨折を経てからだったが。それに、箸でもあるまいし、一本の棒を操るぐらい、利き腕でなくとも出来る。
「だから大丈夫だよ。右手は利き腕だし、少し不便なのはそうだけど、左手もそれなりに器用だからね、生活に支障はないよ」
 そう言えば、やっと跡部は表情を緩ませた。けれど、むーちゃんはまだ私の右腕を気にしているようだ。見た目が見た目、大怪我ですと言ってはばかるかのように、ギプスで固定され、首から吊られた右腕だ。
「むーちゃんも心配しないで。ね?」
 私はむーちゃんの頭を撫でた。いつも右手で撫でていたけれど、左手でも事足りる。何度も何度も撫でていれば、彼も少しは安心したようだった。
 その後はいくつか跡部から質問を受けた。手術は怖くなかったのかとか、左手はどのぐらい器用なのかとか、右手はいつ頃治るのかとか。一ヶ月と少しで完治すると言ったら驚いていたが、来週から幼稚舎に通う事を話すと喜んでくれた。
 来週、実際幼稚舎に通い始めると、跡部は何かと私の世話を焼くようになった。跡部は今まで私より遅く幼稚舎に来ていたが、初日、跡部達は既に来ていて、むーちゃんと二人、幼稚舎の玄関で私が来るのを待ち構えていた。それからというもの、跡部は私の鞄を自ら棚に入れてくれたり、鞄から物を出す時も必ず手伝ってくれたり、遊びには、いつのまにかお医者さんごっこが増えていたりした。彼らのお陰で、本当に生活に支障をきたさなかった。もちろん、「たいいく」の時間は見学だったし、両手を使う作業はろくに出来なかったけれど、全くと言って良い程、不便が無かった。右手が使い物にならなくなった所為か、異様に左手は器用になり、文字を書くのも問題なかった事もある。一番困るはずのお風呂も、鈴の念力によって、お湯に付けても濡れる事がなかった。
 思うよりも早く時間は過ぎ、一ヶ月と数日後、鈴はギプスと、腕の中に入れていた金属棒を取ってくれた。本来なら病院に行くべきだが、透視の出来る鈴がやってくれた事なので、心配ないだろう。外してすぐ、私は腕を動かそうとした。しかしぴくりとも動かず、唖然とする羽目になる。
「問題ない。一ヶ月動かさなかったのだから、脳が動かす事を忘れている。リハビリをして、少しずつ動きを思い出していくしかない」
 鈴がそう言うのは尤もだ。私はふと、比較的記憶に新しい、指にヒビを入れた時の事を思い出す。その時は約半月、指は固定され、その固定が外された直後、指は全く動いてくれなかった。自分の指だというのに動かない。その時の私は過去に二回も腕を折っていたというのに、気味悪く思ったものだ。
 私は左手で腕に触る。感覚まで死んでいるはずも無い。触ればくすぐったさを感じた。腕には、金属棒を入れて閉じた、手術の縫い目が残っている。
「手術跡、気になるか」
「ううん。前の腕こそ、この跡が無くて気持ち悪かった」
 一ヶ月という長い間、首から吊っていたこの腕は、目の前に伸ばしてみても、真っ直ぐに伸びはしない。肘が内側に曲がりこみ、外に沿って伸びる猿腕と呼ばれるこの腕こそ、しかるべき私の腕だった。
10/10ページ