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幼児編

 部屋に行く間、跡部は一言も話さなかった。部屋についてからも、まだ口を開かない。鈴があそこまで立派にやってくれた以上、後は私がフォローするしかない。
「君の父親は、僕が嫌いなのかい」
 ふと、絞るような声で、跡部は言った。
「なんでそう思うの」
「そうとしか思えないじゃないか」
 ぽつりぽつりと跡部は話し出す。むーちゃんは隣で心配そうな顔をしている。
「僕はただ、りんともいっしょにいたかっただけなのに。三人でいたかっただけなのに。それが、だめっていうのかい」
「そうじゃないよ」
 どうやら、相当堪えたらしい。身内でもない他人から、ここまで叱られたのは、もしかして鈴が初めてだったのかもしれない。
「鈴だって、言ってたじゃない。意地悪してるわけじゃないって」
「……すず?」
「あ、私のお父さんの名前」
 つい口が滑ってしまった。
「君は父親を名前で呼んでいるのかい」
「えーと、うん」
 何だか話がずれそうだ。
「ともかく、三人でいるのは駄目って言ってないじゃない。こうして、私の部屋まで案内してくれたんだから、そうじゃない?」
 間を置いて、跡部は頷く。その様子に、私はほっとした。
「いくら私たちが三人でいたくても、そう出来ない事もあるって、鈴は教えてくれたんだよ」
「そうできないこと?」
 私はどんな言葉が良いのか悩んだ。自分が言い出したことだが、こうなってみて、どうすればいいか不安になる。
「世の中には色んな決まりがあるって、知ってる?」
「うん、習ってる」
「私のお父さんは、そういった決まりじゃない、決まってない決まりを、さっき跡部に教えてくれたんだよ」
「きまってないきまり?」
「うん。さっき、私のお父さんが、準備をしたかった、って言ってたよね?」
 跡部は頷く。
「お父さんは跡部のことお持て成ししたかったんだよ。なのに、いきなり来られた事が悔しかったんだよ」
「何が、悔しいもんか」
「お父さん、跡部達に、仲良くしてくれてありがとうって言ってたじゃない」
 跡部は黙りこくった。
「なのに、お持て成しの準備も出来なくて、悔しかったんだよ」
 跡部が顔を上げた。
「そうなのかい」
「きっとそうだよ。決まってない決まりを跡部が守ってくれていたら、準備が出来て、跡部たちを持て成す事も出来たのに、出来なくて悔しかったんだ」
「その、きまってないきまりってなんだい?」
 物分りの良い子供だと、私はひそかに感嘆していた。
「今回のことで言うと、連絡だね」
「れんらく?」
「私、跡部に、昼、家に電話させてって言ったでしょ?」
「うん」
「もし、それさえ出来てたら、私のお父さんも準備出来てたかもしれない」
「そうか」
 跡部の表情は、もう強張ってなどいなかった。
「これからはちゃんとれんらくするようにする!」
「うん。だけど、一日前に私に言ってくれたら、私がお父さんに言っとくよ」
「そうかい?それならそうする」
 跡部は少し、元気を取り戻してくれたようだ。何より、物分りが良くて助かった。
「後、連絡は私の家だけじゃなくて、跡部の家にもするんだよ」
「どうして?」
 私としては、そちらが本題だ。
「跡部の家だって、跡部のために色々準備してくれてるでしょ?帰りの車を寄越したり、お父さんが言ってたとおり、跡部を向かえる準備ぐらいしてたんじゃないかな。それに、今日だって、家庭教師が来るんでしょ?」
「そうだぞ」
「なら、多分今、跡部の使用人達は跡部のこと心配してるよ」
「何でだい?」
「跡部はもしかして、夕食の時間になっても帰ってこないかもしれない。勉強の時間にも帰ってこないかもしれない、ってね。そう言うこと、ちゃんと言ってきた?」
「ちゃんとそれまでには帰るつもりだったさ」
「跡部はそうでも、その事伝えてた?」
 跡部はぐうと押し黙った。
「私のお父さんはその事も言ってたんだと思うよ。使用人は跡部のために働いてくれてるんだから、少しぐらい気遣って、自分の予定をちゃんと伝えてあげようよ。そのほうが、使用人の人たちも大助かりだと思うよ」
「そういう事なのかい」
「そういう事だよ、お父さんが言ってたのもきっと。それが、決まってない決まり」
 跡部は考え込み、むーちゃんは放置された。むーちゃんは今回の一番の被害者だ。跡部が考え込んでいる間、私はむーちゃんの頭を撫でていた。
 突如、跡部が叫ぶ。
「今日は帰る!」
「へ?」
「今日は一先ず帰る事にするよ、君のお父さん呼んでくれるかい?」
 すっかり元気を取り戻したらしい跡部は、私にそう頼んだ。私は彼の言いつけ通り、鈴を呼びに行く。
「帰るらしいな」
「うん」
「電話を持って行く」
 そう言って、彼の手のひらには既に、電話の子機が握られていた。
「何のお持て成しも出来なかったが、もう帰るのか?」
 部屋に入ると、鈴は第一声にそう言った。
「はい、せっかく上がらせてもらいましたが、今日はかえります」
「そうか、それと、さっきはすまなかったな、長く話をしてしまって」
「いいえ。こちらこそ、急に来てしまってすみませんでした。今度また来る時は、ちゃんとれんらくしてから来ます」
「そうか、ありがとう」
 跡部は鈴のその言葉を聞いて、吹っ切れてくれたようだった。
「ところで、電話番号を教えてくれるかな」
「僕、自分でかけられます。電話をかしていただけますか」
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
 跡部は自分で言った通り、迷う事無く番号を押し、電話を掛けた。聞いている分に、迎えはちゃんと来てくれるらしい。跡部は丁寧に鈴の手元へ返す。
「凛のお父様とも話したい事があるようです」
「どうも」
 二、三言話す程度に、鈴は電話を切った。
「どうやら来るのは十五分後らしいな」
「はい」
「少しの間だがくつろいでいてくれ。後でまた来る」
 鈴は子機を置きに行く素振りをするために、部屋から出て行った。
「怒ってなかった」
 鈴の姿が消えると、跡部は一言そう言った。
「別に、跡部に怒ってたわけじゃないよ」
「そうだな、もしかして、僕のために言ってくれていたのかい」
 私はその言葉に、度肝を抜かれた。初めてらしい他人からのお叱りに、最初はあんなに落ち込んでいたのに。
「きっとそうだよ」
 私はそう返す事しか出来なかった。
 時間になると、私と鈴は二人を連れて下りた。下にはもう、車が着いていた。二人が車に乗り込んだ後、使用人の一人が鈴に声を掛ける。
「ご連絡ありがとうございます。今回は急の事で、失礼しました。今度からは前もって連絡しますので」
「いいえ、気にしないで下さい」
 その人はこちらに一度頭を下げると、車に乗り込んだ。そして、車は発進した。窓は暗かったが、中の二人が手を振っているのが見えたので、私は振り返した。
 家に戻り、私は脱力する。
「あんなすごい奴に、私、説教かましちゃったよ」
 相手はまだ四歳にも満たない幼児だ。というのに、私は鈴を使って、常識を教えようとした。常識なんて、年をとっていけば嫌でも身に付く。無理やり教え込まなくても良い事だった。
「知るのが早いか遅いかの話だ。気にしないで良い」
「跡部、すごかったなあ。立派だったなあ。鈴相手に受け答え出来てたんだもん、まだあんなに幼いのに」
 受け答える言葉が悪かったとしても、その言葉遣いは礼儀正しかった。それに、立ち直りも早い。あの年でそう振舞うのは、本来不可能だろう。
 あんな事があっても、それから、跡部の私に対する態度は変わらなかった。いつも通り一緒に遊んでくれる。
 保育参観や交通安全指導、避難訓練といった、幼稚舎の行事も過ぎ、五月の終わりには遠足があった。私と跡部はバスに揺られ、とある公園に連れてかれていた。いつの日かの歯科検診や身体測定と同様、学年毎に日をずらした遠足で、むーちゃんはいない。昨日、今日続けて、私と跡部は昼間むーちゃんと会っていなかった。
私がジャングルジムの頂上に上り、鉄の棒に腰を掛けると、跡部も隣に来る。
「君は高いところが好きなのかい」
「まあね」
「だから、あんなマンションに住んでいるんだな」
 この頃になると、跡部はマンションというのがどういった建物なのか知っていた。
「ところで、これから何して遊ぼうか」
「うーん、特に、思いつかないかな」
 折角この小さな体を持ったので、ブランコぐらいは乗りたい、かもしれない。けれど、ブランコは皆が並ぶほどの人気だった。並んでまで乗る気にはなれない。
「じゃあ、僕はりんと話したいぞ」
 私は何も言えないでいたが、隣で跡部は話し出した。
「僕、この頃、りんにかんしゃしてるんだ。だから、礼を言うよ、ありがとう」
 いきなりそんな事を言われても、何のことか見当つかない。
「何で?」
「りんは、最初にりんの家に行った時の事、覚えてるかい」
「うん、覚えてる」
 忘れるはずがない。あんな事をしておいて、忘れるものか。
「僕、あれからかえった後に、うちのしつじに言われたんだ。『れんらくをください、できれば前日までには。つたえて下さると、ありがたいです』ってね」
 私は相槌を打つ。
「君のお父さんや君が言ったことが、まちがいじゃなかったって、このときやっとわかったんだ。僕は、君たちの言うことをりかいしていたつもりだったけど、なっとくまではしてなかったんだって、そのとき、きづいたんだ。だから、ありがとう」
 私は何も言う事が出来なかった。何も、言える訳がなかった。だから、ただ、相槌を打つ。
「君、僕に、きまってないきまりごとがあるって言ってくれたよね。それから、僕も、いろいろ考えるようになった。考えられるようになった。僕は今までずっとべんきょうしてきたから、しょうじき、君よりしらないことはないとおもっていたときがある。けれど君は、どうやら、僕がしらないことをしってるようだ」
 跡部はそう言って微笑んだ。
「あれから、しつじたちが自分に何をしてくれているかを考えるようになって、僕はおどろいたよ。いしきするってだいじなんだね。君のお父さんのことばをとおして彼らを見てみたら、今まで見えてなかったことが見えてきたよ。ほんとうに、あのしゅんかんは、おどろいたなあ」
 懐かしむように、彼は言う。
「あれから、べんきょうもよくはかどるんだ。まえよりもっとたのしくなって」
 そう言って私に振り向いた彼は、言葉を失った。
「どうしたの、りん」
 私は泣いていた。早く止めなければ、そう思っても、涙は溢れ出て、ついには、しゃっくりを上げ始める。
「ごめん、ごめん」
 早く、涙よ、止まれ。これ以上、彼に迷惑を掛けるな、止まれ。私には、謝ることしか出来ない。
 彼は子供だ。本来の私より、十五歳年下の子供だ。そんな子供へ文句を吐けてしまった私に、彼はあまつ、感謝した。自らを反省し、成長していく彼に、私はなんて身の程知らずだったのだろう。
 涙を拭こうとして手を放し、体が傾いた。咄嗟に身を立て直そうと勢いづいて、体は前に放り出される。手を掴み戻すのは遅く、跡部の叫び声が耳に付く。鼻先に鉄棒が掠り、私は咄嗟に右手を付いたが、腕には鈍痛が走った。
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